人権擁護の旗手、小川秀世
1984年弁護士登録すると同時に日弁連袴田事件再審弁護団に加わり、現在は弁護団事務局長として辣腕を振るう小川秀世弁護士。同時に、日弁連では、取調べの可視化実現本部副本部長として海外の「可視化」を視察するなど、被疑者や被告の人権を擁護するための活動も進めている。袴田事件以外にも、死刑事件などの刑事事件で人権擁護の旗手としての実績を積んでいる。
◆小川秀世(おがわ・ひでよ)袴田事件弁護団事務局長◆
1952年、愛知県名古屋市生まれ
1971年、名古屋大学工学部入学
1978年、静岡大学人文学部卒業
1984年、静岡県弁護士会に弁護士登録。
1994年~2004年、静岡大学人文学部非常勤講師
2004年、小川法律事務所設立
2005年~2007年、静岡県刑事弁護センター委員長
2007年~現在、日弁連取調べの可視化実現本部副本部長
共著に『いまこそ読もう日本国憲法21世紀への贈り物』、『「ミランダの会」と弁護活動 被疑者の権利をどう守るのか?』、『はけないズボンで死刑判決 検証・袴田事件』、『再審と科学鑑定』などがある。
再審無罪を確信、証拠は何一つありません
はっきり言って、袴田さんとこがね味噌専務宅での強盗殺人・放火事件とを結びつける証拠は何一つありません。袴田さんの自白を見ると、コロコロ変遷して実にいい加減な供述を強いられています。これが本当に犯人の自白だとは、誰も思わないでしょう。自白の虚偽性に加えて、5点の衣類という非常に重要な証拠の柱が全てねつ造されたものだと裁判所によって認められた以上、絶対に有罪になんてできません。再審開始決定までには時間を要してしましましたし、即時抗告審でも時間を無駄にしてきました。でも、即時抗告審では勝訴が確実だと予測しています。また例えそれがどっちへ転んでも、最終的には再審無罪になると私は確信しています。いや、そうしなければならないと、怒れる弁護団は燃えています。
工学部からの転身で弁護士。他人のために何かしようと思い立ちました
私は、1971年に名古屋大学工学部に入学しました。ところが、工学部の講義を受けてみると、「違う」とすぐに気づきました。自分の考えていること、興味があることとは全く違う世界だったのです。このまま進んでもやはりダメだと再確認したのが4年生になったとき、私は思い切って人生の舵を切り直そうと決断しました。
当時、女性差別が社会問題として取り上げられていました。私は男性ですから、差別する加害者側にいるわけで、この問題はかなり衝撃的でした。それに加えて、人生をまじめに考えたら、自分だけが利益を得て幸せになればいいかというと、そんなのはイヤでした。他人の幸せがあってこそ自分も幸せになれる、他人のために何かしている自分がイイな、などという漠とした考え方を持っていました。それで、差別されている女性のために力を尽くすというのは、なかなかいい仕事だと思って弁護士を目指したのです。それで地元に帰り、静岡大学に入り直して法律を勉強してきました。
弁護士を開業してから、特に刑事事件に携わると、現実の刑事手続きは本当に腐っていると思いました。様々な理不尽なことを次々と目の当たりにし、それを正そうとしました。微力を尽くして闘いました。そうすると、警察の態度はガラっと変わり、酷いデマを流して私を攻撃してくるではありませんか。
たとえば私の依頼者は、「あの弁護士がつくと,求刑が重くなる」などと滅茶苦茶なことを言われています(笑)。今の刑事事件の手続きがいかに人間の自由と尊厳を傷つけていかということを、誰でも感じると思います。それを何とかしないといけないという気持ちで仕事をすることが、人のため、即ち自分のためになると思っています。
青雲の志、弁護士になって直ぐに袴田事件弁護団に加わりました
私が弁護士登録したのは1984年。直ぐに袴田事件弁護団に入りました。静岡大学で刑事訴訟法を学んできたのですが、そのときの恩師に再審の研究をされている大出良知先生(現・東京経済大学教授)がいらっしゃって、私にこう言われました。
「静岡で弁護士登録するのなら、袴田事件に関わらなくっちゃね」
これが、私が袴田弁護団入りした直接のきっかけです。当時、袴田さんの冤罪を晴らさなくては!というムードが静岡の弁護士界に流れていて、6人ほどが新しく弁護団に入りました。私もその一人、その時のメンバーで今残っているのは私だけですが。
弁護団はまったくのボランティアで、交通費も出ない。裁判などの記録を謄写するのもすべて自腹で、そのコピー代が当時8万円くらいかかりました。新人弁護士としては、経済的になかなか辛いものがありました(笑)。それでも、仕事にやりがいがありました。自分の成長を実感できたのです。痩せっぽちにはなっても、青雲の志はここまで何とか歩いてくることができました。近年、正義感に燃える若き法律家の面々が弁護団入り、弁護団は二十数名の大所帯になっています。
すぐには通用しなかった「5点の衣類はねつ造論」
私が入った当時の弁護団は、まだはっきりとした方針を打ち出せていませんでした。再審に不可欠の新証拠がなかなか見つからなかったのです。裁判を引き伸ばしながら、「新たな証拠」を求めて必死だったことを記憶しています。
弁護団に入ってきた新人にも担当が与えられ、私は「5点の衣類」担当に。最も重要な論点が新人に振られたのです。それは私のようなニューフェイスのフレッシュな感覚に期待をかけたのでしょうか。私のやる気をかきたててくれたこと、この上ありません。
そういう経緯があって、私は5点の衣類について精査したところ、かなり早い段階から「これは捏造に決まっている」という確信に至りました。だから私は、それを強く主張したんです。ところが意外や意外、「捏造説」は不評でした。今の弁護団からするとイメージできないことですが、「捏造説」はなかなか陽の目を見られません。
「現段階で、捏造ということは言うべきではない」
「捏造は、言うに事欠いて苦し紛れに主張することだ」
「もし捏造が証明できなければ、こちら側に不利益がのしかかってくる」
などという考え方が、弁護団の感覚だったんです。「青臭いこと言うな」、そんなことを言われているようなイヤな感じでしたね。それは端的に言って保守的な偏見。法律論とか証拠を厳密に調べた上での論理じゃない。保守的に委縮した精神を守るための「きれいごと」ですよね。私は事実と証拠に基づく結果としてそう断定するほかないと主張していたのですが、残念ながら当初は受け入れられることはありませんでした。
保守的で想像力が乏しいことでは、裁判官の場合弁護士以上です。札幌高裁の裁判長を最後にして退官された渡部保夫先生は、最高裁の調査官のとき袴田事件を担当していました。渡部先生はそのとき北海道大学の教授になられていたんです。ある研究会で、私は渡部先生とこんな話をしたことがあります。
「何で袴田事件の5点の衣類が捏造じゃないんですか」
「いや小川君ね、松山事件や弘前事件のように、警察は血液のついていないものに血をふりかけるくらいの捏造はするかもしれないよ。けど、袴田事件のような大掛かりな捏造はするはするはずがないでしょう」
これで終わりですよ。事実と証拠からではなく、これも偏見というか、理由なき思い込みですよね。
著名な冤罪事件に関わり、袴田事件弁護団にいらしたある先輩にも、私はこう聞いたことがあるんです。
「先生、何で捏造の主張をしなかったんですか」
「捏造などと言う言葉で指摘することは、弁護士の主張の品位を害する」
どういう趣旨でおっしゃったかは定かではありませんが、事実と証拠が捏造を示しているのであれば、捏造の主張をしなきゃいけないじゃないですか。そんな品位とかはどうでもいいでしょう。当時は、大先生がおっしゃるならそういうものか、と引っ込んでしまいましたが、おかしな話でしょ。今考えてみると、時代的限界ではあれ、精神的な委縮と保守主義が想像力を封じ込め、不幸なプロセスを経てきたということができるんじゃないかと思います。
そんな苦い経験をしましたが、「5点の衣類」の捏造を指摘する意見書は、ついに静岡地裁の一次再審で弁護団の最終意見書に組み込まれ採用されました。そして、捏造が本格的に議論のまな板に乗ったのは、秋山賢三弁護士が加わってからです。「捏造? おお、いいじゃないか」と秋山先生が言ってくれたところからです。心強いバックアップでした。
今思うのは、裁判官にどう見られるか、とか、世間の人はどう考えるかとか、そういう体面を優先することで、判断が歪められ結論を間違えるということ。そんな「格好つけ」は二の次にして、まず事実と証拠を見ることが大切だったのです。そうすれば、「捏造なんてあり得ない」という考えは出てこないんです。法律家は頭が固いというか、余分な観念に囚われることがあって、それは弁護士とても同様です。人間がミスを犯す要因として、ここは一番の勘所ではないでしょうか。私はそう学びました。
2014年3月に再審開始になった第2次再審の最終意見書を書く段階では、DNA鑑定の結果も出ていたので、最終的に私が意見書をまとめ、「捏造」のトーンを貫きました。
裁判の結果はご存知の通り。だから、弁護団が最終意見書で捏造を強く主張したので、さもありなんと同調してくれた裁判所が、決定の中で「捏造」って喝破してくれたんだと思います。
捏造の他に、自白の問題もあります。袴田さんの自白を一見するだけで分かります。毎日のように変遷しています。結局のところ、凶行の詳細を知らない捜査官がひねり出した空論に、これまた事件に無知な袴田さんがそれに同調させられて創作されたいい加減な供述です。これが本当に犯人の自白だとは、誰も思わないでしょう。
そして、強制された虚偽の自白に加えて、5点の衣類という非常に重要な証拠の捏造が認められているわけですから、絶対に有罪になんてできないと私は考えるのです。最終的に無罪になりますよ。まあ、再審開始決定にまでは時間を要してしまいましたし、今後もどのくらいの時を要するのか予測不能ですが、検察の思い通りには絶対させない。巖さん、ひで子さんが元気でいるうちに必ず正義の決着をつけます。
弁護団事務局長として、支援者との連携を武器にしてきました
袴田事件の裁判では、優秀な弁護士が足並みを揃えてというわけにはいかなかったかもしれません。私が事務局長としてやってきたことの中で、誇れることの一つは、支援者との緊密な協力です。支援者にも弁護団会議に出席を求め、資料も共有しています。味噌漬け実験や録音テープを聞いて文字に起こす作業などで強力なサポートを受けているのです。第2次再審の新証拠も支援者が協力して作ってくれたほど。そんな弁護団は他にないと思います。もともと裁判は公開が原則です。法曹界がその内部だけでコソコソと運営すればよいというものではありません。アメリカでは、法廷の傍聴席が足りなくなったとき、公判がテレビ中継で全国放送されたくらいです。私は一般市民の積極的な参加を大歓迎します。支援者の協力が弁護活動の強力な武器となり、再審開始決定にこぎつけたと思っています。
かつては、弁護団会議に支援者の参加はなく、支援者に私が資料や記録を渡したと言ったら、禁止されたんですよ。そういう時代もありました。でも私は、支援者に胸襟を開いて関係を緊密にしてきました。その姿勢があってこそ、支援者が積極的なサポート態勢をとってくれたと思っています。支援者との頼もしい連携を確立させたことが、一番の私の貢献だと自負しています。
被疑者には防御権があります
袴田事件以外にも、刑事事件を数多く担当してきました。
我が身をふり返ると、こんなこともあったんです――。
弁護士になって2年目。ある窃盗事件で、警察から脅されて自白されられた少年の弁護を担当しました。裁判の結果は、少年事件なので無罪とは言わず「非行事実なし」というノットギルティでした。
最初、私のところに来たとき少年は、警察でこう言われたというんです。
「もう学校に行けなくなるぞ。テレビにも出すぞ」
「言わないと逮捕する」
そう言われて自白しちゃったとのことでした。私は、ウブだったんですねぇ、「そんなに簡単に自白するわけないでしょ」と思って、依頼を二度も断ったんですよ、ホント。今ふり返ると、恐ろしいですよ。で、三顧の礼ではないけれども、三度目の依頼で私が受任することにしたんです。
最終的に裁判官が、「この自白に任意性はなく、信用性もない」 とし、非行事実なしとなったのです。
脅かされて自白する。よくあることですが、「私がやりました」と言ってしまうと、今度は犯行の経過や状況、動機などを具体的に供述しなければならない段階になります。この少年事件の被疑者と警察のあいだでは、こんなやり取りがあったんです。
少年:「盗んだのは3千円です」
取調官:「ん?」
少年:「あ、いえ2000円です」
取調官:「そうだろ」
このような取調官の誘導によって、被疑者の少年は供述内容をとりかえひっかえしながら取り調べが進んでいきます。警察とのやり取りの中で、警察が描いた通りの犯行が具体的で創作されていくのです。供述調書は、被疑者が口にした言葉どおりに書かれるわけではありません。取調官が被疑者に成り代わって創作し、被疑者は出来上がったものに署名し指印を押すだけで成り立っているのです。弁護士に成りたての私でさえ警察の「取り調べ」がこのようなデタラメだとは気が付かなかったのですから、一般の市民にとっては想像もできないことですね。でも、こんなのがまかり通っているわけです。警察への過度の信頼や期待は、反ってわが身を滅ぼすと身に染みて感じました。
被疑者には防御権があります。弁護士を選任できることや黙秘権が保障されていることなどです。私はいろいろな刑事事件に関わってみて、実行可能で効果的な防御権の使い方を考えました。つまり、被疑者が供述調書に署名、押印を拒否することです。弁護人から被疑者にそうアドバイスするのです。
警察や検察の取調べに弁護人が立ち会うことは外国では当たり前のことですが、日本では認められていないのです。ですから、取り調べの現場で直接被疑者につきそうことは不可能。弁護人が被疑者の話を聞き相談にのるのは、警察署の接見室でのごく短時間に限られています。そこで、
「こう言ってください」
「何か言われても、それに乗ってはいけない」
と、アドバイスするだけでした。
ところが、取調室というものは、無実の人でさえ自白させられてしまうような強い圧力に支配されています。弁護士の忠告どおりに調書を作らせることなど、できるわけがありません。にもかかわらず、弁護士はそういう活動しかしてこなかった。完成した調書は、アドバイスとはまったく異なるものになっている。私にも、そうした苦い経験があります。
「ミランダの会」を立ち上げ、被疑者の署名、押印拒否の弁護活動を普及
そこで考えたのが、調書を一切作らせないこと。調書に署名がなければ、証拠能力がありません。黙秘もよいのですが、取調官にガンガンやられると普通の人にとっては黙秘で通すことは難しい。なので、何を喋ってもいいけど、署名と押印の拒否を徹底してもらうのです。これは黙秘ほどの困難はなく、大成功でした。有効な調書がないから、公判での供述しか証拠にならない。それなら弁護人の支えが有効になり、被疑者の防御権が生きるわけですね。 ※関連論文
これは私が考えて始めたのですが、非常に大きな反響があったんです。最終的には、検事総長が「こういうバカなことやる奴がいる」と批判してきたんですよ。なかなか名誉あることでしょ、検事総長を怒らせるなんて(笑)。次第に賛同してくれる弁護士が集まり、「ミランダの会」が結成されました。それまでは「署名、指印拒否の弁護活動」はなかったのですが、今では弁護活動のひとつとしてマニュアル本に出ています。若僧であった私でも、被疑者の人権擁護にわずかながら貢献できたことをうれしく思っています。
「ミランダの会」のミランダとはアメリカの司法手続きの原則にちなんでいます。いわゆる「ミランダ警告」、日本では「権利の告知」と言われている原則があります。それは、次の4項目が被疑者に対して告知されていない状態での供述は、公判で証拠として用いる事が出来ないとする原則のことです。
⑴ あなたには黙秘権がある。 ⑵ あなたの供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる事がある。 ⑶ あなたは弁護士の立会いを求める権利がある。 ⑷ もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。
実際、こんな事件もありました。
2006年に、元静岡大生による強盗殺人事件が起こりました。20代前半の男性が、母のように慕っていた40代の女性がいた。その女性ががんで亡くなったことを逆恨みした男性は、医師の殺害計画を企てた。たまたま医師は不在で、顔を見られたことを理由に近くの店の女性従業員2名を殺害、強盗に見せかけた事件です。
強盗殺人で2名を殺害し、しかも、人を殺すために邪魔な人を殺したという動機は、最悪です。弁護の余地はありません。死刑判決が予想されました。しかし、死刑という刑罰は先進国ではほとんど廃止されています。日本とアメリカのいくつかの州で生き延びているだけの実に野蛮な刑罰なのです。死刑判決を出させない、犯行は悪質であっても犯人の人権を奪っていいわけがないという立場から、私は弁護活動を引き受けたのです。
死刑が求刑されたのですが、最終的に無期懲役でした。なぜか。それは先ほど話した署名、指印拒否が関係してくるんです。男は最初、否認し私もそれを信じていました。供述調書はなしです。ところが、開示された証拠を見たところ、私は彼が犯人だと確信しました。そこで、
「このまま否認を続けていたら、絶対、死刑になるから」
と説得して、第1回公判でそれまでの否認を翻して、
「実は私がやりました」
と、罪を認めたんです。そうなれば、動機などを含めて、彼しか知らない話、初めて出てくる話にみんな耳を傾けます。特に裁判官が物凄く話をよく聞いていくれたんです。
彼の過去に両親からの虐待があった。ビール瓶で殴られる、高校3年からは一切、家に入れてもらえないなど、です。専門家に意見書を書いてもらうこともしました。
「彼が事件を起こしたことについて、彼だけを責めるわけにはいかない」
と、責任能力を減少させるような判決が下されたんです。検察官はカンカンに怒って、最高裁にまで上告しましたね。
余談ですが、最初に接見したとき彼は、こういう言い方をしたんですよ。
「お前はこんな野良犬の面倒をみるんじゃなくて、もっと他に遣ることがあるだろ」
いま考えると、彼は、自分が人としての価値がないという自覚を持っていたんでしょうね。これまで親は1回も面会に来ていないんです。無期懲役ですから、私が身柄引受人になっています。
このとき、並行してもうひとつ死刑事件を担当していました。 うつ病の人が奥さんと同僚を殺してしまった。この被疑者は、
「死刑になって死にたいから、弁護はいらない。帰れ」
と、取りつくシマがなかった。
「親との連絡役だけで、弁護活動なしなら選任する」
そう言われ選任されはしました。が結局、署名と指印をして調書が作られてしまいました。それが非常に大きな仇になってしまったのです。実はこの裁判、元静岡大生の事件と同じ裁判長でした。ところがこの事件では、調書に署名と指印があるため裁判長は、
「嘘言ってるだろ。調書と違うじゃないか」
と、まったく話を聞こうとしないんです。署名、指印があるかないかで、裁判長の態度が180度異なる。片方は無期懲役で、一方は死刑判決。私は署名、指印拒否と言いながら、でもクビになってしまったら意味がなくなってしまうというジレンマがありました。悔やまれる事件です。ですから、調書を作らせないことは、絶対に必要なことなんです。
ちなみに、この事件は静岡県では、は袴田事件以来の死刑事件でした。
人種差別裁判も担当、人種差別撤廃条約を活かす
20年ほど前、ブラジル人女性のジャーナリストが浜松の宝石店で、外国人であることを理由に酷い扱いを受け入店を拒否された。これは明らかな人種差別だったけれども、法律論としては難しいところがありました。憲法14条には差別禁止が謳われています。しかし憲法は、国と国民とのあいだを規律する法であって、国民と国民とのあいだには適用されないというのが憲法学説だからです。私人間効力といって、私人間で「俺は外国人が嫌いだから拒否する」と言っても、それは個人の自由じゃないか、ということなんです。つまり、この事件を争っても無理ではないか、という見方が大勢を占めていたんです。
当時は、ファミレスやコンビニ、スナック、アパートなどで外国人を拒むケースが多くありました。国連に人種差別撤廃条約があります。日本も批准しているけれども、全然使われていなかったんです。私はその人種差別撤廃条約を使って勝訴しました。日本では第1号です。人種差別を否定した判決なんですよ。民間でも人種差別は違法であり、倫理的にも許されないことが判例として残されたわけです。
この裁判の影響は大きく、この直後に札幌で、入浴を拒否された外国人が訴えるなど、いろいろな形で差別問題がクローズアップされる嚆矢となりました。法律は人間が作ったもの。間違った事実があるのに、法律が追いついていないというのはおかしいじゃないですか。そこを、法律の解釈等で何とかしなければいけない。それが弁護士だと思います。この裁判は結局、慰謝料150万円という判決を勝ち取りました。
洋種ツバキへの誘い
最後に,私の趣味も紹介させてください。洋種ツバキの栽培です。なぜ,洋種ツバキか。
私は,もともと花がとても好きで,弁護士になっても,一時期,昼休みは,毎日花屋さんか,他人の庭をみて歩き,家に帰っては草花の手入れをするという生活でした。
そんな中で,依頼者から日本のツバキより豪華で大輪の洋種ツバキを教えられたのですが、それが日本のツバキ界ではあまり受け入れられていないことも知ったのです。虐げられていると言っても過言ではないでしょう。ツバキ展でも,洋種ツバキは,品種名すら付けられずに,隅っこにまとめて置かれていたようなこともあったからです。
私としては,こんな美しい花を受け入れないのはおかしいと思い,怒りを覚えるとともに,虐げられたもののために動くのは,私の使命だと考えて、洋種ツバキを普及させるための活動を始めたのです。そのため,24年前に静岡ツバキ会を設立し,毎年3月に,「世界の椿展」を開催しています。私自身は,何度も,アメリカやニュージーランド,オーストラリアを訪問し,カメリアショウなどを見て回って,わが国のツバキ業者が何もしてくれないので,洋種ツバキの新品種を,わが国にせっせと導入しています。今は,洋種ツバキの図鑑を執筆中でもあります。
最終的には,「司法とツバキの世界」とでもいう論文を書けたらと思います。洋種ツバキが受け容れられないのは,わが国でのツバキの鑑賞の仕方は,観念に縛られているからなのです。「わび」「さび」そして,「茶花」というような。こうした観念に縛られた人には,豪華な洋種ツバキは,「美しく」見えなくなってしまうのです。それは,偏見にとりつかれた裁判官が,事実認定を誤ることと共通点があります。偏見という観念が,事実と証拠から目を背けさせてしまうからです。
ツバキの話は,止まらなくなってしまいますので,この辺りで。