静岡地裁での一審死刑判決

1968年9月11日、静岡地方裁判所は第一審の有罪死刑判決を出しました。この判決が基本となり、その当否をめぐって高裁、最高裁での審判に移り、さらには再審請求に至ります。したがって、第一審判決は最も重要な意味を持つのです。
袴田巖さんは一家四人を殺害し放火したのか否か。何のために、どのように犯行は行われたのか。それを証明する物的な証拠があるのか。確かな証言はあるのか。巖さんはどのように供述しているのか。判決において、それらの点がどのように扱われているのでしょうか。
何と言っても死刑判決です。しかも、この判決が基となって袴田さんは48年間に及ぶ監獄生活を強いられました。死刑は今のところ合法だとはいえ、国家権力による殺人という重過ぎるほどの問題です。別稿で判決文をそのまま掲載してありますので、時間のある方はご検討ください。

判決を簡単にまとめると、次のように犯行を認定し死刑判決を下しています。
①袴田巖さんは、1966年(昭和41年)6月30日午前1時過ぎころ、
②息子と母と一緒に住むアパートを借りるお金を強奪する目的で、
③緑色のパンツに白ステテコ、鉄紺色のズボンをはき白半袖シャツにネズミ色スポーツシャツ(これらを五点の衣類という)を着用、その上に工場にあった雨合羽を着て、
④くり小刀を持ち、
⑤専務宅裏口の立ち木に登り、屋根から中庭に降りて家に侵入し、雨合羽を脱ぎ捨てて、
⑥専務(藤雄41才)と妻(ちえ子39才)、長男(雅一郎14才)次女(扶示子17才)に大小40か所以上の刺し傷を負わせて殺害あるいは瀕死の重傷を与えた。その際、被害者の血液が着衣に付着した。
⑦その後、金袋3個を奪い、
⑧裏木戸をくぐり抜けて、線路を渡って工場に戻り、五点の衣類を脱いでパジャマに着替え、
⑨工場の石油缶からガソリンを持ち出し、再び専務宅に入って、倒れていた4名にガソリンをかけ、マッチで放火、
⑩裏木戸から出た。五点の衣類をいつ味噌タンクに入れたかは不明。
⑪犯行時の衣類や奪った金を隠すなど冷静な工作をし、今日まで自分の罪を反省していない心情は反社会的であり、被告人を死刑に処する。

各論点については、稿を改めて詳述しますが、前代未聞の問題があります。

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奇々怪々!その1

1年2か月後に出てきた「新証拠」

公判の途中、事件から1年2か月も経過した後、犯行時着用した衣類(五点の衣類)が発見されたということ。それも警察の捜査活動の結果ではなくそれとは無関係を装って、みそ工場の社員が味噌樽のなかから発見。その味噌樽は事件当時に念入りに捜査されたはずなのに、そんなところから新証拠が出現したのです。起訴状、冒頭陳述から一貫して「パジャマが犯行着衣」としてきたのですが、それを突然翻しました。「犯行着衣は五点の衣類」だと。不意打でした。公判廷に事件の根底を揺るがすような衝撃が走りました。別に真犯人が出てきたようなものですから。
こんなことは異例中の異例。大問題です。何故かというと、すでに捜査は完了、動かぬ証拠としてパジャマが犯行着衣とされ、鑑定も終わっています。「そのパジャマを着て犯行に及びました」という供述調書も公判廷に提出され、微に入り細を穿つような調書として事件の全貌が検察によって確定されています。それを前提に、それら諸点の当否について審理が進められてきているのですから。事件のストーリーが完全に変わってしまい、もう別の事件に成り代わっているのです。従って、本来ならこの時点で検察は敗北、裁判所は公訴棄却にして被告を釈放するのが妥当なのです。欧米の裁判所であればそうしたでしょう。

裁判官の仕事は、事件の捜査ではありません。あくまでも検察、警察の捜査が合法で合理的かをチェックしジャッジすることにあります。検察官の主張どおりの証拠があるかないか、それだけしか判断できないのです。重ねて言いますが、自白(供述調書)も検察官の主張(冒頭陳述)も犯行着衣はパジャマ。それで捜査は完了したのですから、五点の衣類が味噌樽から出てきたとしてもそれは事件とは関係ないはずです。もともと、袴田さんと事件を結びつける物的証拠としてあるのはパジャマだけでした。それを変更して五点の衣類を持ち出したのです。それも、公判が1年以上も進められてから。
これまでの検察側の主張を根本から覆す五点の衣類をどう扱うか、常識的にはそれは無罪の証拠となります。そうでなければ、無理やり事件を一から解釈しなおして取り繕わなくてはなりません。驚いたことに、裁判所がそれを敢行しました。何と五点の衣類は、袴田さんへの死刑判決を支える根拠として最重要な証拠となっているのです。
判決の中の事実認定では、パジャマと雨合羽も出てくるのですが、さらに五点の衣類が加わります。辻褄あわせのために、五点の衣類(ズボンは厚手のウール)の上に雨合羽を着て犯行に及ぼうとしたとされるのですが、雨合羽は最初に脱ぎ捨てます。五点の衣類を着て4人をメッタ突きにして殺傷、その後放火するときは五点の衣類を着替えて今度はパジャマで。まるでファッションショー。牽強付会とは、このことです。元々、袴田さんと事件を結びつける(関係づける)ものが何もないのです。だから、こうしないと袴田さんを有罪にできないのです。
また、供述調書(自白)でも犯行時パジャマを着ていたことにされています。これを裁判官は、「犯行時着用していた衣類という犯罪に関する重要な部分について、被告人から虚偽の自白を得」と。その部分だけはウソをついていると勝手に解釈して矛盾を糊塗するに至っているのです。一回ウソをつくと、そのウソを正当化するためにウソを重ねると言いますが、こじつけと辻褄合わせに裁判官までもが汲々としているのです。裁判官には自由心証主義(証拠などを自由に解釈できる)があると言っても、「論より証拠」を「証拠より論」に逆転させることまではできません。これは、良識の敗北です。

奇々怪々!その2

裁判官、捜査のあり方に厳しく反省を求める

裁判官はこの点、判決の付言として苦言を呈しています。
「本件の捜査に当たって、捜査官は、被告人を逮捕して以来、もっぱら被告人から自白を得ようと極めて長時間にわたり被告人を取り調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠ったため、結局は”犯行時用していた衣類”という犯罪に関する重要な部分について、被告人から虚偽の自白を得、これを基にした公訴の提起がなされ、その後、公判の途中、犯罪の一年余も経て、”犯行時用していた衣類”が、事件当時捜査されていた”操作場所”から、しかも、捜査官の捜査活動とは全く無関係に発見されるという事態を招来したのであった。
このような本件捜査のあり方は、”実態真実の発見”という見地からはむろん”適正手続きの保障”という見地からも、厳しく批判、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度と繰り返されないことを希念するあまり、敢えてここに付言する」

しかし、五点の衣類が味噌樽から発見されたのは、偶然とは考えられないのです。事件後、血眼になって工場の中を隈なく探しまわったわけですから、その時点で見つからないはずがありません。捜査機関による証拠のねつ造に違いないのです。静岡地裁が2014年3月27日に出した再審開始決定でも、五点の衣類には「ねつ造された疑いが相当程度あり」と、36年前の第一審判決を覆す判断を下しています。
警察や検察が犯罪やその証拠をねつ造(でっちあげ)、そんなことがあるのだろうかという強い疑問が起こって当然です。が、過去の裁判では、いや最近の裁判でも、何度も証拠のねつ造が明らかになっています。まだ記憶に新しいことですが、村木厚子さんの虚偽有印公文書作成・同行使罪の事件でした。担当検事が証拠の改ざんで訴追されて有罪判決を受け、国民的な批判を浴びました。捜査機関による偽装工作は、その事例に事欠かない恥辱の歴史があります。いまだ反省されざる日本の警察、司法における大問題です。

さらに問題は、捜査機関がなぜ公判の途中で新証拠をねつ造してきたのかということです。この事件ですが、袴田さんを犯人と決めつける根拠に乏しく、それを証明するものがあまりにも薄弱でした。4人が殺害され放火されたのは疑いのない事実ですが、その事件と袴田さんを結びつける物証は、正確に言うと全くなかった。それらしく見えるのは、強要されて自白した供述調書一通と犯行着衣とされたパジャマしかなかったのです。そのパジャマも、「血染めのパジャマ」などと警察の発表がそのまま報道されましたが、実際には犯行着衣とするには付着していた血液の量があまりにも少ない。肉眼では血液と確認できないわずかなシミでした。しかもその鑑定結果の信用性も疑わしいものでしかなかったのです。
検察は、これしかない証拠では有罪にもっていける自信がなく、無罪判決が出る可能性に危機感を募らせていたに違いないのです。検察にとっても、あたふたと新しい証拠を後から出して裁判所を欺くなどということは、大変な冒険です。「何が何でも有罪にしなければ」、そのあせりが大がかりな証拠のねつ造という危険に賭け、あえて踏み切った理由と考えられます。

静岡県は冤罪のデパート

それには背景がありました。当時の静岡県は「冤罪のデパート」などと言われていたのです。戦後、幸浦事件、二俣事件、小島事件と有名な殺人事件が県内でありました。この三つの事件が有名になったのは、全てが冤罪事件であったからです。一審二審ともに死刑または無期懲役の有罪判決が被告に言い渡されたにもかかわらず、最高裁判所で次々に破棄され逆転無罪が確定しました。捜査機関の大失態が続いたわけです。
この3事件は、ともに自白の強制がありました。虚偽の自白を取るための拷問による取り調べが明らかになり、「静岡県警三度目の黒星」「自白強制の形跡」などと新聞に騒がれ、静岡県警は「拷問捜査」という批判の的となったのでした。ですから、袴田事件で「警察検察の威信」を取り戻そうと必死だったのでしょう。しかし、捜査の手法を反省し改めることなく、それがDNAであるかのごとく、自白の強要と証拠の偽装を重ねて突き進んだ結果が、後出しの五点の衣類だったのです。

奇々怪々!その3

中身は無罪、結果は死刑の判決文

自白や証拠の認定から有罪、しかも極刑の死刑判決を導き出すのは論理的に無理がありました。肝心なところがあやふやのまま、判決に至っているのです。検察が提出した供述調書は45通ありましたが、44通は「信用できない」とされ証拠として採用されなかったわけですが、取り上げられた一通についても疑問だらけでした。この調書の内容も、犯行着衣がパジャマのままなのですから信用できないのですが、それだけではないのです。判決文では、殺人行為の場面についての供述を、「裏付ける証拠がなく」信用できないと判断しています。そんなことで、一体、どこに袴田さんを死刑にしなければならない事実と理由が存在するのか。

以下は、判決文の一部(犯行の核心部分)です。
イ、藤雄方に侵入してから、藤雄と格闘するまでの詳細な経緯および格闘の具体的状況の詳細
ロ、ちえ子、扶示子、雅一郎を刺した順序およびその具体的な状況の詳細
ハ、「新証拠」を一号タンクに入れた際の具体的な状況およびその日時の詳細
二、パジャマを着た場所および経緯、犯行時のパジャマの後始末の詳細
ホ、パジャマの右肩に存する損傷の生成時期および生成原因
等の諸点のうちハについては全く証拠がなく、その他イ、ロ、二、ホについての証拠としては、被告人の検察官に対する自白が存在するだけである。そして右の各点に関する被告人の自白は、その内容自体に不合理な点は認められないが、他にこれを裏付ける証拠がないので、それだけで自白通りの事実を認めるには躊躇せざるをえない。

殺人事件としての最も重要な箇所です。袴田さんが専務宅に侵入し4人を殺害したという殺人事件が成り立つのか否かの根本、殺した具体的事実そのもの。そこを認定するに際して「証拠がなく」「自白通りの事実をみとめるには躊躇」すると告白しています。日本国憲法第38条は、自白のみに基づいて有罪判決を出すことはできないことを明示。ならば、どうして有罪、しかも極刑の死刑なのか。この内容からすると、どう見ても結論としては無罪判決しかないのです。
近代司法には、疑わしいだけの場合は被告人の利益(無罪)とするという推定無罪の原則があります。疑いがあるというだけでは、どんなに有罪と推認されようとも、それだけでは不十分。また、自白だけでは証明になりません。そういう場合は、被告人の利益とするのです。明確な証拠があってはじめて有罪という結論が出せるのです。「例え十人の犯罪者を逃すとも、一人の無辜を罰してはならない」という人権尊重の考え方です。事件の捜査には、莫大な国家予算と人員、絶対的で排他的な権限を独占する仕組みが整っています。その権力がたびたび暴走してきた悲惨な歴史の反省として、それ以上に市民の人権が保護されなければならないという近代市民社会の人権思想があるのです。

奇々怪々!その4

「私は無罪を確信しながら死刑判決を書いた」! 衝撃を与えた良心の声

内容が無罪判決と間違えるかのような判決文ですが、やはり訳があったようです。この判決を直接書いたのは当時の担当裁判官熊本典道氏。2007年3月のことでした。「私は無罪を確信しながら死刑判決を書いた」と39年前の過ちを自ら告白。裁判関係者ばかりか、日本列島に衝撃が走りました。
静岡地裁での第1審は3人の判事の合議制でした。石見勝四裁判長と裁判官が2名、熊本氏は判決文を執筆する主任裁判官。熊本氏は無罪を主張、二人の裁判官は有罪を支持、最終合議で多数決をとって有罪と決まったのです。熊本氏は意に反して有罪判決を書かざるをえなかったということでした。無罪の心証を持つ裁判官が書いた有罪死刑判決ですから、事実認定や捜査方法の評価について無罪をうかがわせるような叙述になってしまったのです。自分の無罪心証に忠実であったことの証明にほかなりません。

熊本氏は、袴田巖さんの再審を求める会あての手紙の中で、こう述懐しています。
「心ならずも信念に反する判決書に一か月を要した次第です。
その間の様子は、判決書を熟読いただければ判ると思います。
ところが、予想に反して、東京高裁が「原判決を破棄しなかった」

また、最高裁への陳述書でも同じことを述べています。
「公判のある段階で、私なりにおかしいと思いました。少なくとも、今まで出ている証拠で袴田さんを有罪にするのは無茶だと思ったのです。・・・・・・・当時の東京高裁はそれなりに見識を持った裁判官がいたので、私の無罪心証に気づいてくれると信じて期待していました。」

奇々怪々!その5

成り立ちえない動機は無実の証拠

殺人放火事件を起こした動機について、付け加えます。
結論を先に述べると、警察が勝手に想像して決めつけた動機がまことしやかに言われ、それを証明することもなく、そのまま認定されているのです。判決によると「母と子と一緒に暮らすアパートを借りるための金が欲しくて」、それを盗むために押し入ったことになっています。
しかし、そんな発想が出てくるはずもない家族の状況でした。家族思いの袴田さんは、休みの日には浜北にある生家で暮らす1歳8か月の息子にお土産を買って帰っていました。一番の楽しみだったようです。当時は母親が息子の面倒を見ていたこともあり、母への思いもひとしおのものがあったと思われます。ただ、生家には脳卒中で寝たきりの父親がいて母親が介護に当たっていたのです。父親は家族みんなから慕われていました。その父親を生家においたまま、母親が孫を連れて清水に引っ越す。そこで3人が一緒にアパート暮らしをするなどということは、考えもしなかったでしょう。介護している母が外へ出てしまえば、誰が病人の面倒を見るのか。実際、3人で一緒に住む、そのためのアパートを探すなどということは、話題にもならなかったと家族が証言しています。そもそもが成り立たない動機なのです。

袴田さんの供述調書、強要された自白でも、犯行の動機は次々に替わっています。最初の調書では、専務の妻のちえ子と以前から肉体関係があり、ちえ子に「家を建てかえたいから、強盗が入ったようにみせかけて、家を焼いてくれ」と頼まれた、と供述。翌日の調書では、前言を翻した。「専務とちえ子とのことで言い争いになり・・・・・・専務と今夜話をつけようと思った」となり、翌々日には「一軒アパートを借りてお袋と息子と三人で住みたいと考え、そのゼニを工面したかった」と替わっているのです。
袴田さんが本当の犯人であるなら、動機がコロコロ変わるはずがない。ウソを繰り返す必要もありません。何故こうなるのか。無実だからです。「私がやりました」と強要されて自白したものの、動機などあるはずがありません。捜査官も分からないので、適当にあて推量です。こうだろう、ああだろうと指示されてそれに同意しただけのこと。この動機の変遷は、警察の取り調べ(自白の強要)の杜撰さとデタラメさの証明であるとともに、袴田さんが無実であるということの確かな証拠です。裁判所は、供述調書の全てを無実の証拠として採用すべきなのです。