一審裁判官熊本さんの告白

2007年1月19日、袴田巖さんの再審を求める会に、静岡地裁での第一審主任判事だった熊本典道氏から手紙が送られてきました。その中で、実は無罪の心証を持っていたが、最終合議で二対一で敗れ、信念に反する判決書を書いたことを告白したのです。そして、3月9日、衆議院議員会館で「死刑廃止を推進する議員連盟」の院内集会に参加。元担当判事として袴田巌さんの無実を訴えました。6月25日には、再審を求める陳述書を最高裁に提出したのです。
裁判所法第75条には「評議の秘密」が規定されている。裁判官の裁判に関する評議の経過、各裁判官の意見、多少の数などは秘密として公にしてはならないという条文です。熊本氏はこの規定を犯して異例の告白をしました。これは大きな反響を呼びました。新聞、テレビのニュースはもちろん、海外のメディアからも取り上げられ、「勇気ある告白」「裁判官の良心」という報道が続いたのでした。

ジャーナリストの青柳雄介氏は、何年にもわたって袴田事件の取材を続けてこられました。今も(2017年)月刊『世界』に袴田事件に関する連載記事を寄せておられます。その青柳氏より氏の2007年当時の取材メモを提供していただきました。
初めて公開されるメモですが、かなり踏み込んだ内容で、第一審の死刑判決が書かれた事情が解ります。不本意ながら書いた判決文には、高裁の裁判官へのメッセージが託されていたのでした。意味がよくわからない部分もありますが、メモをそのまま掲載します。見出しを付け加えてはいますが、伝わってくる取材時の雰囲気を大切にしたいので、本文にはほとんど字句修正を加えてありません。

2007年3月9日、東京・大井町にてインタビュー
熊本典道・元裁判官 (袴田事件静岡地裁での第一審を担当した3人の裁判官のひとり)

「実は、当時はもちろん、いまも無罪を確信している」、「死刑判決」を書いた元裁判官が激白
「当時の私の力が及ばず、申し訳ありませんでした」、姉・秀子さんに、涙ながらに謝罪
「袴田君を何とか救出したい」

■熊本氏プロフィール
昭和12年(1937)10月30日、佐賀県生まれ。
昭和36年、九州大学法学部卒。
昭和38年4月、第15期司法修習生として司法修習終了。
東京地裁刑事部、福島地裁・家裁白川支部、静岡地裁・家裁などを経て、昭和44年4月末に裁判官を退官。
同年5月、弁護士登録。医療過誤裁判等に関わる。
平成7年10月、パーキンソン病様症状などのため、弁護士登録抹消。

昭和41年11月23日~30日のあいだ、突如として福島地裁白川支部から静岡地裁へ転任になったのです。これは非常に個人的、プライベートな理由なんだけどね。
記録によると、袴田事件の第2回公判が12月2日。その第2回の公判が、ぼくにとっては静岡での最初の刑事事件なんですよ。判決の日は、忘れもしない翌年の9月11日。
ぼくは東京地裁にいたころ、法曹界の中ではある種、有名人だった。それは、あとで話しましょう。そのせいか、静岡へ行ったら刑事事件を当然やるものだと思っていました。当時、27か28ですよね。判決のときが29歳だった。

「私はやっておりません」袴田君はそれっきり口を利かなかった。
この事件は心してかからなければいかんな、と強く思いました。

一生忘れられないと思うけどね、法廷に入って、認めるか認めないかの罪状認否というのがある。第2回公判だから、それをやらんでもいいんだけど、ぼくは念のために石見裁判長に、
「もう1回、聞いてくれませんか」と。
そうしたら、いきなり「どうだ?」と聞いてもらうわけにいかんから、法律用語で「更新」という言葉があるんだけれども、
「更新します」
と言ってもらって、そうすると起訴状をもう1回読む必要があるのよ。で、普通の裁判手続きに入った。
(あのころは、「裁判長」とか「部長」という言葉は使わなかった。少なくとも昭和43年くらいまでは、まったく自由で独立な雰囲気で、「○○さん」「××君」と呼んでいた)
それで、石見さんが、
「前回も聞いたと思うけどね、裁判官が今度変わったからもう1回聞くけどね、いまの起訴状に対してあなたどうですか?」
と袴田君に聞いた。そのとき、たった……(苦しそうに、涙ぐむ)1行の文章でね、
「私はやっておりません」
そのときね、卑屈な顔でもなく、どちらかというとぶっきら棒だが、はっきりとそう言った。それがいまでも、ずーっと脳裏に焼きついて残っていますよ。いままでの誤判、冤罪に絡んだ事件だと、いろいろ言うのよね。「取調官がどうした、こうした」とか。
だけど、袴田君はそれっきり口を利かなかった。だからぼくは、その袴田君のことばを聞いて「あれっ?」と思ったことをはっきりと覚えている。
それに対して弁護人に、
「被告人が言ったとおりでいいですか」
と聞くと普通は、
「被告人は絶対にやっていない。自白調書があるけれども、それは合法ではない」
などと理屈をつけて言うんですよ、普通は。でもそうは言わないで、
「さっき被告人が言ったとおりです」と言った。
「へえー!」と、ぼくにしてみると、そう思った。
弁護人は、
「これとこれに争いがある」
と言うべきなんだけど、言わなかった。他の人が裁判官だったらどう思うか知らんが、ぼくにしてみれば、「あれっ!何で争わないんだろう?」と思った。
あとになって分かったんだけど、弁護人が被告人と面接した時間が非常に短いの。3回で合計37分だけ。弁護人の選任届けを書いた程度で、それで終わりですよ。大した話ししてないんですよ。だから弁護人自身に、「袴田君が犯人だ」という勘違いがあったんですよ。
だからぼくは、この事件は心してかからなければいかんな、と強く思いました。ここからですよ、ぼくが袴田事件を意識するようになったのは。

「なんか自分たち3人が裁かれているような事件じゃないですか」

一審裁判官熊本さんの告白第2回公判で「私はやっておりません」という袴田君のことばを受けて、石見さんはもうちょっと聞きたいらしくて何かを言いかけたんですよ。それでぼくは、裁判長の法服の裾を引っ張って、
「それ以上聞くのやめた方がいいですよ」
と言った。それで、
「きょうはこれまで」
と石見さんが言ってその日は終わった。ぼくが静岡に来て最初で何も知らないだろうから、もう少し被告人の口から聞かせてやろうとしたんだと思います。そこで、袴田君の口から何かを聞いておけばよかったのかも知らんけどね。恐らく、聞いても言わんかったと思うよ。だから、ここであまり余計なことを言わせて、戦いの場を狭めては悪いなというぼくの気持ちがあって、石見さんに「やめた方がいい」と言ったんです。

法定の真後ろに、テーブルがある部屋がある。その日の審理が終わったら、石見さんは真っ直ぐに帰ろうとしたから、「ちょっと待って」と引き止めた。そして、石見さんともうひとりの高井さんも、座ったか座らないうちにぼくはこう言ったんです。
「石見さん……。これは……、なんか自分たち3人が裁かれているような事件じゃないですか」
「うーん……、そうだな」
石見さんはそう言って唸ったままでした。それが、ずーっと印象に残っています。

今でも最高裁の統計局の人たちに「新記録だ」って言われるんだけど、裁判官を足掛け5年やっていたけど、その間に死刑判決を袴田事件を含めて6件担当したんですよ。袴田事件以外はほとんど争いがなくて、量刑を無期にするか死刑にするか、で悩んでいた。
で、静岡に行っていきなり袴田事件の担当になったんです。そして裁判官室に帰ってきて初めて、
「今度、白川から来た熊本です」
とあいさつ回りしていたら、ぼくの1期上で吉川義春という人が袴田事件の第1回公判の担当だった。彼は大坂地裁から静岡に来た商法の専門家。それで「やっと、袴田事件から抜けられる」と言っていた。

何でこんなにしつこく毎日毎日調べていたんだろう?
他に確たる証拠がないんじゃなかろうか

自白調書の取調べ請求がいつだったのか、記録をきちんと調べないと分からないけど、ある時期に自白調書の請求があったんですよ。通常は、自白調書の請求があると、任意性があるかどうかをまず決めるわけ。で、どうするかというと、取調べにあたった捜査官を証人尋問して調べるんです。その手続きに入ったんだけれども、松本久次郎と松本義男という2人の捜査官を調べたんですよ。
自白調書の任意性に疑いがある。それはここに書いてあるように、長時間の取調べが連日行なわれているからなんです。
どちらかの松本氏をぼくはかなり厳しく追及したんだけど、彼らは、
「黙秘権を告げて、特に変わった取調べはしていないから任意だ」
と言う。普通の弁護人だったら
「あんた、殴ったんじゃないか」とか、そんな話をするはず。
そこでぼくは松本捜査官に、
「刑事訴訟法で黙秘権が保障されているけど、そのことについてあなたどう思っている?」
「できればないほうがいいと思っているんじゃないか?」
ということを聞きたいがために質問した。また、
「黙秘権があるんだから喋らんでもいいぞ、という言い方もあるけど、どういう告げ方をしたんだ?」とも聞いた。

自白調書は全部で45通あって、本当は全部蹴ったんですよ。でも実際は44通に任意性がないとしました。本当はゼロにしたかった。ただ1通だけを譲ったのは、刑事訴訟法学上、「認めるべきだ」という説が有力だったんです。ぼくはそれに捉われなかったんだけど、1つを譲ったということです。
取調べは連日、20数日にわたり、毎日長時間におよんでいます。ぼくにしてみれば「何でこんなにしつこく毎日毎日調べていたんだろう?」と、手続きの違法性だけじゃなくて思った。ということは他に確たる証拠がないんじゃなかろうか、という疑惑が起こってきた。検事に言わせると、
「熊本裁判官は予断を持っている」
と言う。そのときぼくは、
「被告人に有利な予断は別にいいじゃないですか」
と言ったところ、
「その発言は気に食わない」
なんて言われたけど。いくつかの確たる証拠、また、それに近い証拠がいくつもあれば、そんなに連日取り調べんでもいいだろうということですよね。
だから、ぼくの心の中の信用性に影響するわけですね。自白以外に結びつけるキーポイントの証拠、直接証拠はもちろんないし、自白を裏付ける証拠らしきものも出ないの。後に問題となる「5点の衣類」以外はね。

袴田君は「無罪だ」と、自分なりに、「無罪」の判決の下書きを書いたんです

裁判官の合議というのは、ちゃんと全部の審理が終わってから、
「では、〇月〇日から合議します」
と行なわれると思っている人が多いけれど、そうではないのですよ。公判が行なわれるたびに、
「きょうの証人はいい加減に見えたけど、信用できるか」
とか、
「あの人は態度がおかしかったよ」
などと、3人の裁判官でやり取りしながら進んでいく。その積み重ねなんです。その中でぼくが抱いていた疑念は、今お話したような内容ですよ。

そうすると、大事な証拠がもうないんかな、と思ったんです。ぼくはある時期に、袴田君は「無罪だ」と、確信というのはおかしいけど、「無罪」にするしかないな、という心証を持ってね……(涙ぐみ、ことばを詰まらせる)
それから自分なりに、「無罪」の判決の下書きを書いたんです。それが、裁判官用の便箋で350枚でした。自分なりに、自分の意見をまとめておきたかったんです。
本来、無罪の判決には理由を書かなくていいのよ。要するに「有罪の立証ができない」「有罪の立証ができていない」と書きっぱなしでいいわけ。だけど、日本の裁判官の生真面目さというか、ね。自分なりの判決の原稿を書いて、それで最終の合議をやりましょう、という話に入ったのが判決の年の6月初めまたは中旬くらいだろうね。

でも結局、1対2で負け、心にもない判決を書くはめになった

でも結局、石見裁判長と高井裁判官を説得できず、1対2で負けてしまった。ぼくはそのとき、ものすごく荒れましたよ。判決の後、静岡地裁の所長の鈴木サイゾウさんの家に行き、その翌日は裁判所を休んで、共同通信の記者だった鈴木さんの息子と朝から飲んだり、駿府公園に行ったり、野っぱらに寝っ転がったり……。

合議で敗れたあと、大問題がひとつ浮上したんです。「死刑」を言い渡す「判決文」を誰が書くかということ。法律にはないんだけれども、裁判所のしきたりとして、主任裁判官が判決を書くんです。慣行です。主任裁判官として合議で敗れた裁判官が判決を書くことについて、いいか悪いか、最高裁の事務局なんかでは論点がはっきりしているんだけれども。
で、袴田事件の主任裁判官はぼくだった。ぼくにしてみれば、心にもない判決を書くはめになったということ。それを書いて公にする。しかも、それは「死刑判決」ですよ。それって、憲法で保障されている良心の自由を侵すものだと、今でも思っていますよ。

そこで、もう1回揉めたんですよ。ぼくは、「書かない」というか「書けない」と言って。だけど、今まで主任が書くことになっている、という話になった。その直前に、「無罪判決」の下書きを破り捨てた。いまになってみれば、残しておけばよかったと言われるけど、そんなこと……、ねえ……。

書けないと言って裁判官を辞めるか、無理して書くか。
どっちが被告人のためになるんだろうと、熟考しましたよ。

そのとき、2つに1つしか方法がなかった。書けないと言って裁判官を辞めるか、無理して書くか。無理をして、心にもないことを書くなんて、何とも言えない気持ちでした。だから、そのあと精神的に荒れたんですよ。

でも、もしぼくが裁判官を辞めて他の人に代わったら、裁判はさらに1年以上延びてしまう。そして、3対0の合議になるだろうことは容易に予想できた。どっちが被告人のためになるんだろうと、熟考しましたよ。それはねえ……、どっちが被告人のためになるんだって、随分言われましたよ……(号泣)
もちろん、言われなくたってそうするつもりでした。ほかの人に代わって3対0になることを恐れていましたよ。それで書きました。

判決の理由の中に、「実は違うんですよ」
「控訴審の裁判官わかってください」

考えたのは、判決にどういう屁理屈をつけるか、ということでした。当時、ぼくは裁判所内でいえば超エリートの人間だし、東京高裁にも受かってね、判決文もしっかりして、理屈もちゃんとしている。そうしておいて、実は……(号泣)
判決の理由の中に、「実は違うんですよ」
「ああ、書いている本人は本当はそう思っていなかったんだな」
ということを、見る人が見れば分かるように、理解してもらえるような表現をところどころに残しておいたんです。――(涙で声を詰まらせる)――
本当に二律背反の最たるものですよ。一方では自分のプライドのためにきちんとした文章を、きちんとした理由付けをしながら書いておきながら、
「本当はここに問題があるんだよ」
「だから、控訴審の裁判官わかってください」
という思いを込めながら、そうしたものを散りばめながら判決を書いたんです。それが、幸いにして1人か2人、全然この事件に関係ない裁判官が、
「あれは、裁判官が疑いを持っていたんだ」
と見抜いてくれた人が現れたからね。……それが救いになった……(号泣)
当時の東京高等裁判所刑事部の裁判長クラスは、第一級の人々でしたよ。だから、ここにこういうことを、ちょっと書いておけば、疑いを持ってくれる取っ掛かりになると思っていました。
「付言」というころ、あれです。一言一句、手を加えていないぼくの文章です。それで、石見さんには、
「これだけは、判決言い渡しの際に読んでくれ」
と頼みました。

「被告人を死刑に処す」
言い渡しのときに、袴田君はガクンと肩を落として首を垂れたんですよね。
石見さんはそのとき、判決文にはないことまで朗読してくれた。それは、合議で敗れたぼくへのリップサービスだったんです。

高井裁判官には、「あんた、審理をちゃんと1回1回の法廷ごとに自分なりにものを考えてきたのか?」とか、そんなことまで言って

合議は、結論が決まるまでに1回じゃなかったよね。そして、結論が決まる最後の合議のときには、そりゃあ、言っちゃいかん表現をいっぱい使ったよね。仕方なく、かなり強い主張をしたんです。高井裁判官には、
「あんた、審理をちゃんと1回1回の法廷ごとに自分なりにものを考えてきたのか?」
とか、そんなことまで言って。
最後はね、投げたつもりはないんだけれども、杉山さんという女性のところにハンコが行っちゃったんだよね。机の上をスーッと滑って。
当時の司法修習生たちは、
「熊本さんがハンコを投げつけた」と。
ぼくは「そんなことするはずない」と言ったけど、それはこういうことだった。
ぼくが、もう無理だと思って、
「高井さん、書いてよ」
と言ったときに、ハンコが滑って行ったんだ。すると高井さんは、
「何ですか、そのものの言い方は!」
「何ですかもないですよ!」
とか言って。そういうことあったよね。
そんなことがあったからか、先日、当時の修習生から電話があって、
「熊本さんは、ハンコを逆さまにつくのか、押さないのか」
それが修習生にあいだで賭けの対象になったんだという。自分の意に沿わない判決文には、ハンコを逆さまについて、ささやかな反対の意思を表明するんです。

当時の心証としては、「無罪」を強く持っていた。確信していましたよ。
それで、鈴木所長に、
「どうしたらいいのかなあ、と思っていますよ」
と言ったら、
「今晩から2、3日、うちに泊まれ。そして、うちの息子と好き勝手やれ」
と言われました。それがなかったら、ぼくはどんな行動を取っていたかわからないよ。のちに検事出身の最高裁長官の奥原マサオさんがゴルフ行くときにね、
「熊さん、君が事件を起こしたら激情型の事件だな。めっちゃくちゃに切り刻むやつだろうなあ」
と言ったことがある。というくらいのそういう性格でした。
裁判所に対しては「病気休養中」とかもっともらしい理由をつけて休んでいた。その届を、裁判所の若い女の子に、所長官舎まで取りに来てもらったよ。女の子もビックリしただろうね、所長官舎まで取りに行くなんて。5日目くらいから裁判所に出たけれどね。
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