小川弁護士司法の問題点について、袴田事件弁護団事務局長の小川秀世弁護士から貴重な論文を寄稿していただきました。「自白の信用性」をどう判断するのか、そこに正しいかどうかわからない「経験則」を持ち込んで、裁判官の教本としている。何とその「経験則」の中にはえん罪事件の誤判例も評価方法の手本として紹介されているそうです。「悪魔の判決教本」と小川先生が命名するゆえんです。証拠や証言は、裁判官の自由心証主義というフィルターを通過して評価が確定されますが、そこに大きな問題が孕まれているのです。
素人にとっては専門家の論文で、読解困難な点もあります。が、裁判官がどのような教科書を与えられているか、その一端がよくわかります。
(編集部)

えん罪を再生産する「悪魔の判決教本」

弁護士:小川秀世

1「悪魔の判決教本」とは

私は、以前より、わが国の刑事手続の二つの病理的問題を、次のような言葉で表してきた。「無法地帯の取り調べ」(注1)と「『悪魔の判決教本』による事実認定」である。
もちろん、前者は、密室での取調べの問題である。ただし、これは「可視化」という言葉の浸透とともに、原因も対策も広く理解されはじめ、その実現ももう一歩のところまできているように思われる。
もう一つの「悪魔の判決教本」とは、「自白の信用性」(法曹會)を振り出しに出版された、現職の裁判官らの研究をまとめた、復活された「事実認定教材シリーズ」(注2)のことである。これらの本は、多くの判決(有罪事例と無罪事例)を資料とし、そこから、実務で使われるべき一定の事実認定の方法を導き出そうとしたものである。例えば、「自白の信用性」では、よく知られている「秘密の暴露」や「自白と客観的証拠との符号性」等について、その具体的な判断方法、注意点などを紹介している。
ところが、これらの本が有罪事例として取り上げた判決の中には、実際には、えん罪と言われている事件が多数含まれている。例えば、「自白の信用性」には、再審請求中、あるいは再審請求をしていた名張、狭山、布川、日産サニー等の事件、さらに再審事件ではないが、千葉大チフス菌、高輪グリーンマンション事件等の著名事件も含まれている。そして、本年5月24日、この本では有罪事例であったはずの布川事件が、再審によって無罪とされたのである。
そこで、これを契機に、「自白の信用性」を素材として、あらためて上記シリーズの問題点について考えてみたい(注3)。

(注1)この問題については、かつて私は、「無法地帯にビデオカメラを」(「自由と正義」52巻6号106頁)とのタイトルで問題点を整理したことがある。
(注2)司法研修所より、昭和34年に第1号として「供述心理」が出版された。しかし、研究の中心にあった田辺公二判事の急逝で、2号までで中断されてしまっていた。その続編として、「自白の信用性」が平成3年に出版され、「情況証拠の観点から見た事実認定」(平成6年)、「共犯者の供述の信用性」(平成8年)、「犯人識別供述の信用性」(平成11年)と出版されたものである。
(注3)同シリーズは、研究の方法はほぼ同じであるが、資料の点でも、内容の点でも、「自白の信用性」が、もっともはっきりと問題点が現れているからである。ただ、根本的に問題があることは、他の本も同じである。

2「悪魔の判決教本」である理由

上に述べたことだけで、私が、「自白の信用性」を「悪魔の判決教本」と呼ぶ理由は、わかっていただけるはずである。
この本の資料とされたのは、確定した判決である。しかし、判決であるが故に、それが絶対に間違っていないという確証はない。再審請求中の事件であれば、なおさらである。そして、実際に、布川事件は、誤判であったことが明らかになった。
布川事件の再審無罪判決は、「被告人両名の自白には,犯行そのものやこれに直結する重要な事項の全般にわたり,供述の変遷がみられるところ,その程度は容易に看過し得るものではなく,その変遷に合理的な理由を見出すことも困難である」等として、自白の信用性を否定した。ところが、「自白の信用性」では、同じ自白について、平然と、「真犯人が責任の軽減を図るなどの意図からことさら虚偽の供述をし,意識的に供述を変え,あるいは,捜査官に追及されて,場当たり的に供述を変更してゆく場合も少なくない」(注4)などと評しているのである(注5)。
最高裁は、このような誤った評価手法を学べと言い、それを「手本」として、刑事裁判が運営されてきたということである。
こうして、「自白の信用性」が、えん罪を再生産する「悪魔の判決教本」であったことが、より鮮明になったのである。

(注4) 「自白の信用性」28、29頁。ここで、布川事件判決の他、2件の判決が引用されている。そのうち1件(同書乙⑥事件)は再審請求中(平成20年現在)であり、他の1件(同書乙⑪事件)は、一審無罪であったものが高裁で逆転有罪判決となった事案である。
(注5)他にも、例えば、狭山事件などの判決を資料として、「自白の内容が客観的証拠と全く符号しないような場合には,自白の信用性に疑問が持たれることは,当然の事理に属するが,真犯人が全くでたらめの,あるいは虚実織り混ぜた自白をすることもないではない」と評しているところもある( 「自白の信用性」52頁)。狭山事件が再審で無罪になったときには、どうするのであろうか。

3正しいか否かわからない「経験則」

このように言うと、直ちに、反論が聞こえてくる。なるほど、布川事件は無罪になった。しかし、他の事件が誤判であることの証明はなされていない。そんなことを言うのであれば、そもそも、布川事件ですら、本当に誤判であったかどうかわからないではないか、という反論である。
しかし、この議論は、ここでの問題をまったく理解しないものである。
「自白の信用性」が有罪事例、無罪事例から導き出しているのは、単なる注意則だけにとどまらない。上記部分など、明らかに事実認定の際に用いられる「経験則」である(注6)。
経験則は、誤ったものであってはならない。誤った経験則は、誤った事実認定に導くだけである。そして、ここでの「経験則」は、日常的な場面に適用されるものではなく、したがって、一般的に使われているものではない。供述心理学によって真実性が証明されたものでもない。単に、事例として取り上げられた判決の事実認定において、使われたというにすぎないものである。しかし、たとえ最高裁が使ったものであっても、その「経験則」が絶対に正しいということにはならない。
ところが、このような正しいか否かもわからない「経験則」を使ってしまおうというのが、これらの研究なのである(注7)。つまり、誤った経験則の適用により誤判が生じるおそれを、まったく無視しているということである(注8)。だから、この問題は、資料とされた判決が、誤判であることが明らかになったか否かとは関係がないのである。
ただ、もし有罪事例の中に誤判があれば、直ちに同様の誤判に導かれてしまう。しかも、先に述べたように、「自白の信用性」では、有罪事例の中に、多数の「えん罪事件」を平気で含めているのである。

(注6)これらの研究は、しばしば「注意則研究」と言われている。しかし、実際には、単なる注意則にとどまらず、経験則を抽出しているところもあるのだから、「注意則研究」という言葉は、誤解を与えるように思う。
(注7)事実認定教材シリーズの一つ「犯人識別供述の信用性」の書評において、黒沢香氏は、心理学者の立場から「事例を読むと、実験的に検討したい仮説が次々と浮かび上がってくる。反面それは、現在の裁判では実証研究の裏づけなしに犯人識別供述の評価が行われていることを意味する。間違っているかもしれない『常識』で、何とか間に合わせているのである。」と述べている(「無辜をまもるには『暗示なしの確認』手続が必要」季刊刑事弁護21号138頁)。
(注8)裁判官の誤った経験則の適用による誤判の問題を、もっとも鋭く分析したものが、青木英五郎「事実認定の実証的研究」(青木英五郎著作集Ⅰ・227頁)であると思う。青木英五郎は、「供述心理」の共同編集者の1人である。

4偏見を昇華した「経験則」

経験則とは、「経験から帰納された事物に関する知識や法則」(注9)である。本来、誰にでも受け入れられるものでなければならない。しかし、私は、先に例にあげたような「経験則」など存在しないと確信している。いったん強盗殺人のような重大犯罪の核心について真犯人が自白したとすれば、犯行態様等に関する事実について次々と嘘を重ねるなどということは考えられない。そんな供述の変遷があれば、むしろ、犯罪事実を知らない無実の人の自白ではないかと考えられる。そして、これは大方の弁護士の見方であろう。
ところが、その「経験則」が、正しいものとして、裁判官の中では使われているのである。つまり、これらは、裁判官の中でしか受け入れられていない「経験則」なのである。しかも、それが正しいとの保障はない。そして、実際に間違っていたのである。
このように、「自白の信用性」が導いているのは、職業裁判官としての経験によって作られた、間違った、少なくとも間違っているかもしれない「経験則」なのである。とすれば、それは職業裁判官の偏見にすぎないと言ってよい。
このように、「自白の信用性」は、職業裁判官の偏見にすぎないものを、「経験則」に昇華させることで権威の衣を与え、しかも、マニュアル的に使い易くしたものである。「悪魔の判決教本」たる所以である。

(注9)伊藤眞「民事訴訟法(第3版3訂版)」305頁

5裁判官の「経験則」の神話

しかし、「偏見」にとらわれているのは、一部の裁判官たちだけではない。良心的と言われるような裁判官すら、同様の過ちを犯している。
例えば、渡部保夫元札幌高裁判事は、「真犯人の自白であっても、その内容に虚偽又は不真実の内容が盛りこまれることがある。その主な原因は次のとおりである。・・・・犯人が取調官の追及を免れるため一応自白するが、将来これを覆そうとの計算づくで虚実を織りまぜる。」(注10)という「経験則」を述べている。また、木谷明元東京高裁判事も、「狡猾な真犯人が、公判を混乱に陥らせて処罰を免れようと考え、予め、虚偽をちりばめた供述をしたり、ことさらに供述を変転させたりすることも、絶対に、考えられないことではないであろう(布川事件決定(昭和53⑬)は、この点を特に指摘している。)」 と、その著書の中で、布川事件の有罪判決が正しいことを前提に、論じられている(注11)。
このことは、裁判所の中では、このような「経験則」が広く使われていることを示している。間違っているかもしれない、他では通用しない「経験則」が、裁判所の中では、正しいものとして共有されているのである。
これに対して、石丸俊彦元東京高裁判事は、「情況証拠、間接事実からの認定の骨幹は『経験則』である。だが刑事裁判における経験則の具体的事例における確立は、多少はあるものの、むしろ『裁判官の経験による訓練』なる神話に放置されているのではないか」(注12) と述べられている。石丸元判事は、判事補時代に、田辺公二判事らと共同して、事実認定教材シリーズの第1号「供述心理」(注13)を編集された方である。同元判事は、同シリーズの復活による悪しき変容や、誤った「経験則」がはびこっている裁判所の現状を嘆かれていたのではないかと推察している。

(注10) 渡部保夫「無実の発見」(勁草書房)4,5頁
(注11)木谷明「刑事裁判の心」(法律文化社2004年)199頁
(注12)「現代刑事法・№18」3頁
(注13)「供述心理」では、裁判事例だけではなく、外国のものも含め、供述心理学の文献などを広く紹介している。

6反省しない裁判所

もともと、「自白の信用性」は、80年代の再審無罪判決(注14)を契機に、事実認定の適正化の目的で、事実認定教材シリーズの続編として発行されたと言われている。
死刑事件等の重大事件で確定した判決の中にも、誤判があったことが明らかになったのである。無実の人の命を危うく奪おうというところだったのである。いや、実際に、奪ってしまった可能性もあったのである。裁判所は、事態を深刻に受け止め、真摯に反省すべきであった。裁判所が事実認定を誤った原因はどこにあったのか、適正な事実認定のためにはどうしたらよいかが追究されなければならなかったのだ。
ところが、裁判所がしたことと言えば、唯一、このシリーズの出版だけであった。
ということは、裁判所は、誤判を生み出したことを反省するどころか、誤判を定着させようとしたと言ってもよい。このシリーズで、再審請求中の事件までも有罪事例の中に取り入れていたことからすると、再審など二度と認めないようにしようとしたとも言えよう。
これが、死刑事件の再審無罪判決が続けて出された後に、わが国の裁判所が行ったことなのである。ブラックジョークではない。現実に行われたことなのだから、寒気すら覚える。

(注14)83年免田、84年財田川、松山の各死刑事件が再審により無罪となった。いずれも、自白の信用性が争われた事件である。

7「悪魔性」の自覚に乏しい理由

恐ろしいことではあるが、裁判所は、こうした研究を組織的に行い、その結果を堂々と公刊し、それを修習生の推薦図書にまで指定していた。ということは、裁判官は、誰も、自分たちの「悪魔性」に、まったく気づいていなかったということである。
一般人でもすぐに理解できる非常識に、裁判官がなぜ気づかないのか。
その原因は、次のように考えられる。
裁判官は、先例に習うことに慣れている。そうすれば、上級審で破棄されることもない。大過なく、ひときわ目立つことなく事件を処理することができる。だから、法律解釈のみならず、特殊な経験則についても、先例に習おうとするのではないか。まして、捜査段階の自白の信用性の判断など、取調室が密室であるため資料に乏しい。にもかかわらず、判断することを求められる。先例があれば、飛びつきたくなるのもよくわかる。その意味で、事実認定教材シリーズの復活第1号が、「自白の信用性」であったのは、偶然ではあるまい。
また、確定した判決は、もはや事実を争うことができず、法的には、それが真実であるとして処理される。だから、確定判決が事実認定に使用した特殊な経験則も、無条件に使用することができるとの錯覚に陥っているのかもしれない。
そして、そもそも偏見は、自らは意識することが困難であるということも一つの理由であろう。
しかし、これらは、実は裁判官だけに当てはまるわけではない。弁護士も、裁判所の事実認定を、先例を使って批判することがある(注15)。そのためか、私は、ここで述べたことを、これまでいろいろな人に訴えてきたが、法律家や法律学者は、なぜか反応が悪かった(注16)。一般の人の方が、その不合理をはるかに強く受けとめてくれたように思う。
その意味で、偏見にとらわれているのは、本当は、裁判官だけではないのかもしれない。

(注15)名張事件の第7次再審請求の弁護人の特別抗告申立書では、皮肉なことに、名張事件の確定判決が有罪事例とされている「自白の信用性」が、引用されている。
(注16)「自白の信用性」は、平成3年に出版されたが、これまでに、ここで述べたような批判は、法律家や法律学者からは聞いたことがない。

8結論

1)事実認定の適正化のために
繰り返し述べてきたとおり、「自白の信用性」は、えん罪を再生産する道具になる。また、裁判所は、再審で無罪判決がなされても、これまでの確定判決の中に、えん罪が含まれているのではないかという発想に至らないということが明らかになった。
それでは、私たちは、こうした事実をふまえて、何をするべきなのか。
まず、こうした手法による事実認定は、即刻、やめなければならない。まして、「自白の信用性」における布川事件の桜井氏、杉山氏に関する記述は、名誉毀損になるのではないだろうか。そのため、私は、出版社たる法曹會に対しても、販売の中止を要請したが、回答はまだない。
そして、事実認定の適正化は、もっと別の方法で行われるべきである。
そもそも、事実認定について、こうした方法が行われることになったのは、第1に、裁判における資料不足であり、第2に、科学的思考の軽視である。そうであれば、あるべき方向は、捜査の可視化や証拠開示によって裁判資料を充実させること、そして供述心理学等隣接諸科学や事実認定に必要かつ有効な科学的知見の活用である。
さらに、こうした「経験則」=偏見をもっていない、裁判員裁判に期待したい。実際、裁判員裁判で、従前の裁判官による裁判であれば、無罪は困難であったと考えられる事案で無罪になっているとの報告がなされている(注17)。しかし、それが上訴審で破棄されてしまえば、意味がない(注18)。したがって、少なくとも裁判員裁判の判決については、検察官上訴の禁止を導入すべきであると思う。
2)誤判原因の調査
私たち法律家にとって、確定判決も含め誤判原因を究明し、その原因を除去することは、きわめて重大な使命である。ところが、この問題については、裁判所は、まったく期待できないことが明らかになった。
そうであれば、いま日弁連が「えん罪原因調査究明委員会の設置を求める意見書」(注19)で主張しているとおり、第三者機関を設置して、誤判原因の調査を開始すべきであろう。
裁判所は、自らの犯した過ちについては、反省しようとしないと述べた。しかし、せめて、このような機関の設置に向けて努力し、その機関の調査に協力することが、裁判所や検察庁の最低限の責任ではないのかと思う。
3)出版物は博物館へ
私は、当初、布川事件の無罪判決が確定したことを契機に、「自白の信用性」以下の事実認定教材シリーズは、すべて焚書とされなければならず、最高裁は、責任をもって書籍市場から回収すべきであると考えていた。しかし、その後考えが変わった。
西欧諸国には、「犯罪博物館」(注20) やアウシュビッツなど、過去の人類の過ちを後世に伝えるための展示をしている博物館がたくさんある。私は、これらの展示を見て、人間のあまりの愚かさに衝撃を受けるのと同時に、それが過去のものであるが故に、刑事手続きの悲惨な現状にも、少しは希望が見えたように思ったものである。
そこで、少し大げさではあるかもしれないが、それらと同様に、21世紀においても、わが国の裁判所は、こんな犯罪的な出版をしていたことが広く世に知られ、それを後世に正しく伝えることに意味があるのではないか思うようになった。これらの本の存在を知ることによって、裁判官であるが故に、かえって誤った観念(=偏見)にとりつかれることがあることが、よく理解されるはずだからである。

(注17)例えば、座談会「裁判員裁判で否認事件の裁判は変わったか」(季刊刑事弁護67号60頁)。
(注18)(注14)で報告された事例のうち一審の千葉地裁で無罪となった覚せい剤取締法違反事件が、東京高裁で破棄され有罪とされた(季刊刑事弁護67巻23頁)。
(注19) 2011年1月20日付で衆・参両院議長、内閣総理大臣に提出された(日弁連ホームページ)
(注20)西欧諸国の犯罪博物館には、拷問、処刑用具等が展示されており、むしろ「刑事司法の犯罪」博物館という印象を受ける。ちなみに、駿河台の明治大学博物館には、わが国では、唯一、拷問、処刑用具等の貴重な展示がなされている。

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