1966(昭和41)年6月30日午前1時30分頃、静岡県清水市横砂(現静岡市清水区横砂東町)の味噌製造会社(通称こがね味噌)専務宅で火災が発生し、ほぼ全焼した家屋の中から専務(41)とその妻(39)・次女(17)・長男(14)の4人の焼死体が発見されました。

袴田巌さんを救う市民の会

事件現場の専務宅表入口付近

実況見分などの結果、死体には鋭利な刃物によると思われる多数の刺傷があり、焼け残った着衣などにガソリン臭があったほか、会社の売上金が入った布小袋が持ち出された疑いがあったため、警察は強盗殺人・放火事件として直ちに捜査本部を設置しました。

警察は、現場や死体の状況などから、会社の内情に詳しい者による犯行との疑いを強め、会社関係者を中心に聞き込み捜査などを進めた結果、当時東海道線線路を隔てて現場のすぐ裏側にあった味噌製造工場2階の従業員寮に住み込んで働いていた袴田巖さん(30)にアリバイがなかったこと、袴田さんが事件直後左手中指を怪我していたこと、寮から押収された袴田さんのパジャマから袴田さんとは違う型の血液が検出されたこと、袴田さんが元プロボクサーだったことなどを理由に袴田さんを犯人と断定し、同年8月18日に逮捕しました。


袴田巌さんを救う市民の会

凶器とされたクリ小刀

袴田さんは逮捕から20日間ずっと犯行を否認していましたが、勾留期限が切れる3日前の9月6日に自白させられ、検察は9月9日、会社の売上金を盗もうとパジャマ姿で専務宅に侵入したところを専務に見つかったため、持っていたクリ小刀で専務ら4人をメッタ刺しにしたあと売上金の入った布小袋を奪い、さらに工場にあった混合油を撒いて放火し、専務宅裏木戸から逃げたとして、袴田さんを住居侵入・強盗殺人・放火罪で静岡地方裁判所に起訴しました。

しかし、袴田さんは11月15日に開かれた第1回公判で、「全然やっていません」と犯行を全面的に否認し、以後一貫して無実を訴え続けます。

袴田巌さんを救う市民の会

「5点の衣類」の白半袖シャツ

ところが、公判で検察の立証が終わろうとしていた翌1967(昭和42)年8月31日、味噌製造工場の醸造用味噌タンクの底から、麻袋に入れられた血染めの「5点の衣類」(鉄紺色ズボン・白ステテコ・緑色ブリーフ・ネズミ色スポーツシャツ・白半袖シャツ)などが従業員によって発見され、事件は急展開します。

さらに、「5点の衣類」の発見から12日後の9月12日、警察は袴田さんの実家を家宅捜索し、箪笥の引き出しから鉄紺色ズボンの共布(裾上げしたときに裁断された布切れ)を発見します。そして検察は翌13日臨時に開かれた公判で直ちに「5点の衣類」を証拠として提出し、犯行着衣はパジャマではなく「5点の衣類」であると冒頭陳述(検察が描く犯行ストーリー)を変更したのです。

袴田さんは、「5点の衣類」は自分のものではないと否認しましたが、結局翌1968(昭和43)年9月11日、静岡地裁(石見勝四裁判長)は袴田さんに死刑判決を言渡しました。なお、判決では、袴田さんの自白調書全45通のうち44通は任意性がないなどとして証拠から排除され、自白偏重の警察の捜査について厳しく批判しています。

袴田巌さんを救う市民の会

東京高裁で行われた装着実験

翌1969(昭和44)年5月から東京高裁で始まった控訴審では、袴田さん自身が実施を強く望んだ「5点の衣類」の装着実験が3回にわたって行われ、いずれの回でも鉄紺色ズボンは袴田さんには小さすぎてはくことができませんでした。

しかし、1976(昭和51)年5月18日に東京高裁(横川敏雄裁判長)は控訴を棄却。袴田さんの懸命の無実の訴えも空しく、1980(昭和55)年11月19日には最高裁第二小法廷(宮崎梧一裁判長)が上告を棄却し、12月12日最終的に死刑が確定しました。


(袴田巖さんの再審を求める会HPより転載)