1 すねの傷は袴田事件の謎を解くカギ!

1966年6月30日台風一過の熱帯夜の未明、味噌会社専務一家殺人事件は起こりました。51年前のこの日は伝説のビートルズ武道館コンサート初日の出来事でした。袴田さんは元プロボクサーだったことへの偏見などから目を付けられ、7月4日には捜査陣によって「従業員H浮かぶ」と新聞社にリークされるなど誤った捜査に舵が切られました。その後捜査に行き詰った静岡県警はボタンの掛け違いに目を向けることなく、事件から50日後の8月18日、静岡県警は従業員の袴田さんを逮捕しました。23日間の取り調べで45通の自白調書が作られましたが、一審の静岡地裁では44通は「任意性がない」として証拠から排除されました。たった1通採用された吉村英三検事による供述調書は、拘留期限いっぱいの9月9日作成されたものです。
逮捕から一貫して否認する袴田さんを、蒸し風呂のような真夏の取調室で執拗に追い詰め、9/4,5,6の3日間で深夜2時までさらにはトイレにも行かせないなど44時間もの違法な取り調べ(虐待による自白の強要)で自白に追い込みました。自白調書は警察官の描いたストーリーのまま一方的に作られたのです。犯行の実態を知らない袴田さんは黙り込み、現場を熟知する刑事の言うことに口裏を合わせるほかありませんでした。
そのストーリーは想像の産物であるために数々の矛盾をはらみ、破綻することになります。犯行の動機に始まり、侵入経路、凶器などすべてが作り話 (注1) で、着る必要のなかった雨合羽 (注2) 、血液反応が出ないゴム草履など多くの矛盾が無視されたのです。しかも1年2か月後に発見されたという『5点の衣類』によって、犯行着衣とされた『パジャマ』は否定され、この自白調書そのものの信頼性は大きく崩れました。
しかし、それでも強引に静岡地裁によって死刑判決が下され、そして東京高裁でも控訴は棄却されたのです。

東京高裁の控訴審判決文です。

パジャマを着て犯行におよんだとする点等に明らかな虚偽があるが、この点については味噌タンク内の衣類が未発見であるのを幸いに被告人が捜査官の推測に便乗した形跡があり、これを根拠に調書全体の信用性を否定するのは相当ではない。専務との格闘のさいに腿や向こう脛を蹴られたとの自供内容に相応するように事件後の9月8日には、被告人の右下腿中央から下部前面に4か所の比較的新しい打撲擦過傷が認められたうえ、事件後1年2か月経ったころ発見された鉄紺色ズボンには右足前面に2.5cmx4cmの裏地に達するカギ裂きようの損傷があった。

裁判所は『明らかに虚偽がある』と判決文で認めながらも、「味噌タンク内の衣類が未発見であるのを幸いに被告人が捜査官の推測に便乗した」などと、姑息にも袴田さんの個人攻撃にすり替え、すねの傷は確かにあって「5点の衣類」にも証拠が残っているという。つまり、矛盾だらけでボロボロの自白調書に最後のより所を求め、すねの傷が取り上げられたのです。
しかし、2014年3月27日静岡地裁村山裁判長は「5点の衣類」の捏造の可能性に触れ、再審開始を決定しました。

袴田事件の全てが作り話なら、このすねの傷もきっとウソに違いないという疑問から膨大な資料を読み込んでいく中で、逮捕時の記録にすねの傷がなかったことを「浜松袴田巌さんを救う市民の会」の一人の女性が発見しました。逮捕時にすねの傷がなかったとしたら、「専務に蹴られた」という自白は強要された虚偽の自白であり、そのウソの自白を元に5点の衣類の損傷が後から作られたことを意味します。さらに、「専務に蹴られた」直後に「専務と格闘になり、その際に左手中指と右上腕を負傷した」と続く一連の自白も虚偽ということになります。すねの傷の真実を明かすことで、警察が作り上げたストーリーは瓦解し、大どんでん返しが待っているということになるのです。

2 事件直後、逮捕直後には、すねの傷の記録がない!

支援者の指摘を受け、袴田事件弁護団は2015年11月12日証拠開示命令申立書を提出し、「8月18日逮捕時に撮影された身体の写真及びネガフィルム並びに外傷等の記録全部」を開示するよう迫りました。それに対し検察は2016年3月22日意見書を提出したが、驚くべきことに逮捕時の写真、ネガフィルムはないという回答でした。

弁護団は3月28日直ちに反論書を提出し
『重大な刑事事件である本件で逮捕時の写真やネガフィルムがないことはありえない』と反論。再度の証拠開示を求めました。もし、ないということであるなら、逮捕時にすねの傷はなかったことになり、同傷を鉄紺色ズボンの損傷と結び付け、袴田氏を犯人である根拠の1つにした確定判決には重大な誤りがあります。9月6日以降の袴田氏の自白や録音テープ等は、警察が虚偽の事実の供述を強要したことを裏付けるのです。
その後検察の反論はなく、5月16日弁護団は「右下腿の傷に関する補充意見書」を提出。

『検察が逮捕時にすねの傷があった証拠を出せないということは、確定判決の有罪認定において、右足すねの傷が極めて重要な位置づけをされていることからすれば、同判決の事実認定に重大な誤りがあったことが明らかになったことになる。したがって、この新証拠だけからも、本件について再審が開始されるべきであるから、検察官の即時抗告は、すみやかに棄却すべきである。』

検察がどんなに弁明しようとも、逮捕時に裁判官の身体検査令状によって「被疑者袴田巌の全身」をくまなく検査して記録した森田巡査部長が、すねの傷を見落とすはずがありません。5月16日の弁護団の補充意見書にもあるようにすねの傷の判決文における重要性を考慮すれば、「死刑を求める側が」確実にあったという証拠を示さなければならないのです。「なかったこと」を証明するより「あったこと」を証明するのは容易い事。「あった」という証拠、例えば写真や記録を出せばいいのですから。最低限の必要条件、それすらも検察は証明できません。検察の回答によって、事件直後(7/3、4)にも逮捕直後(8/18)にも、写真やネガも身体検査・鑑定の記録にもすねの傷の記載は全くないことが明らかになったのです。ちなみに、6月30日以降、すねの傷を確認できる機会は以下の通り6回もありました。すべて、すねの傷についての記録はないのです。

1)7/3浜北の福井医院での受診時;消火活動でのけがの治療で自ら訪れ、福井医師が指の傷を診察
2)7/4清水の山田医院;鈴木俊次警察医が立ち会い「すべて傷を見た」と公判で証言、診療記録にも記載
3)8/18逮捕当日の身体検査調書;森田巡査部長作成
4)8/18逮捕当日の鑑定書;鈴木完夫県警本部法医理化学研究室長作成
5)8/18逮捕当日の留置人名簿;通常全裸にして健康状態、不審物の持ち込みなどチェック
6)8/18逮捕当日の取り調べの録音テープ;松本久次郎が傷を1つ1つ確認


3 検察の稚拙な言い訳

検察はこのままではまずいと思ったのか突然2017年2月27日付で「意見書」を出してきました。それによると、苦しい言い訳が続きますが、傷があったということを前提としまた結論ともしているのです。前提と結論が一緒。牽強付会の良い例にはなっても、論理性を欠くこと駄々っ子のようです。「意見書」の主張です。

『8月18日の逮捕時に右足すねの傷は存在しており、この傷が同日の身体検査・鑑定の際に記録されていないことは何ら不自然ではない』
1) 身体検査の所要時間が14分であった為、存在していた傷の全てが記載されたわけではなく、本件犯行  と関連する可能性が高いものが選別されて記録されたため、右足すねの傷は存在したが、記録されなかった。
2) 身体検査・鑑定が極めて短時間だったことと、この時点で右足すねの傷が相当に陳旧化していたこと、捜査機関があらかじめ右足すねの傷の存在を知らなかったことなどから見落とされた可能性も否定できない。
3) 7月4日の山田医院の診療の際には専ら袴田の申告に基づいて傷の確認が行われているに過ぎないのであり、鈴木俊次医師の証言も、袴田が申告した傷があるところは全て診療記録に記載したという意味であって、袴田の傷の全てが確認・記録されているものではないことは明らかである。
4) 袴田が、取調官から何ら強要や誘導等をされることなく、自ら進んで右足すねの傷について極めて具体的で臨場感にとんだ供述をし、取調官らは、こうした袴田の供述を聞いて、初めて、袴田の右足すねに
藤雄に蹴られてできた傷痕が残っていることを認識し、その証拠化を図っているものであることにおよそ疑いを容れる余地はない。

この検察官意見書に対し弁護団は7月18日に15ページからなる反論書を提出しました。『まともの取り上げるに値しない主張』としつつも、丁寧にその誤りを指摘しています。検察は何の根拠も示さずに「逮捕時にすねの傷は存在し」と見て来たようなウソをつく。50年前に誰も見ていない傷を「存在していた」と言い張っても納得する人は誰もいません。
「時間がなかった=14分もあったよね」「犯行と関連ないと思った=誰が判断するの?」「傷の存在を知らなかった=当たり前、だから身体検査をやるんでしょう」
こんな言い訳は会社の始末書でも恥ずかしくて書けません。人ひとりを死刑台に送ろうとする側が付くウソであるだけにあまりにもお粗末。結局、一度ついた嘘のほころびを取り繕うために次々とウソを重ね、困った検察は最後は自白証言に頼るしかないのです。外部と隔離された孤独な密室で、延べ200時間を超える違法な取り調べで自白させた証言は証拠になりえないことを知りながら。

4 傷は時間とともに消えゆくが、その逆はない!

ここに一枚の写真があります。1966年9月8日の身体検査調書と鑑定書に添付された写真。私たちが目にすることができる唯一の『すねの傷』の写真です。警察がつけた記しがあり、横1,5cm、下に5cm離れたところに3,5cmの傷がかすかに見て取れます。2日前の9月6日に警察官岩本広夫と松本義男が測って
岩元「長いなあ」
松本(義)「約8㎝5mmだね。8㎝5mmでかぎ型だねえ。」
と言っている傷は見当たりません。
2日間で治癒が進んで8,5cmの傷がなくなり、5cm下方に3,5cmの傷になったと考えられます。2日間でそんなにも良くなった傷なのです。しかし、それは逮捕時にはありませんでした。正確に言うと、あったという証拠は記録になく、従って、そんなものはなかった。検察の言い分は、傷はあったが、見落としていたようだ。そういう可能性があるという強弁です。そしてそれは、9月6日の取り調べ中に出た被告の自白(専務との格闘中に蹴られてできた)の裏付け証拠としてこじつけられています。検察の言い分では、8月18日の逮捕時の身体検査の際に「相当に陳旧化していた」、だから気づかなかった傷が9月6日には復活、「約8㎝5mmだね。8㎝5mmでかぎ型だねえ」と言われるほどに成長したのです。(言うまでもなく、普通のキズは時間とともに治癒するもので、時間の経過とともに悪化することはありません。)
そのかぎ型に合わせて後から発見されて重要な証拠になる鉄紺色ズボンのカギ裂きが偽装されるのです。

私たちの会で行ったいくつかのすねの傷の治療経過を見ると、受傷から10日でほとんどの傷は回復します。相当な打撲擦過傷でも20日もあれば瘡蓋(かさぶた)も取れて、傷の痕も残らないほどに回復することが分かります。8,5cmの傷を、20日前の逮捕時に医師も警察官も見逃したということは到底考えられません。さかのぼって47日前の7月3日、浜北の自宅近くの福井医院で、火事の消火作業で負った中指の傷を治療しましたが、その際すねの傷の治療はなしです。当たり前ですが、この時点で傷はなかったからです。7月4日山田医院の診察時には、警察医の鈴木俊次医師が派遣されて立ち合い、事件と関連ある傷すべてを見たと公判記録にも残っている。その記録にもすねの傷は記載がありません。

逮捕から20日後、ですから事件から約70日後の9月6日ころ、袴田さんが強要された自白を始めた時分に。捜査員が客観的な証拠となるこの傷を利用した調書を偽造し、慌てて証拠を保全し記録したに違いありません。この捜査員こそ8月18日の取り調べにあたって
「ええか」「ここにも傷がある」「な」「ええか」「ここにもあったな」(No.2-04-B2 21:00)
と袴田被告の体の傷を一つ一つ確認していた捜査主任の松本久次郎でした。松本捜査官は、逮捕時には傷はなく、その後の取り調べ中に傷を負ったことを知っていたのです。

5 すねの傷は取り調べの時にできた!警察官による暴行の証拠

一般常識で言っても「あった」ことを証明するのは「なかった」ことを証明するよりはるかに簡単。「あった」という証拠を示せばいいだけですから。それすら検察は証明できません。逮捕時の録音テープは公開済、事件後の病院での記録も公開済ですから、写真を偽造しようとしても無理があります。
つまり、逮捕時になかったすねの傷は、逮捕後にできたもので、取り調べの過程で受傷したに違いないのです。それを警察は専務との格闘のさいにできた傷だと供述させ、この傷を利用した。これが真実です。

袴田さんは高裁の控訴審の過程で家族にあて、検事の取り調べに付いて次のように語っています。

「事実のない無効調書、昭和41年9月9日、検事調べの、この一方的にできた時を省みると私は何か異質の有毒を感ぜられる空気を長時間吸うと、その息苦しさから人は死を感ずるものだ。且、刑事等によってほとんど全く頭脳が混乱され廃人同様に虐げられた。私に対する、吉村検事の調べは容疑者の意など全く無視。同検事自身の考えだけで即ち、証拠の基づかない取り調べに独走したのである。彼は犯人をどうしても作ろうとする鬼人と化して、罵り、またある時は刑事等によって拷問させることを仄めかし、終に吉村検事自身の考え得る範囲の調書を労作したのである。右調書の内容は、一切が空ですべてが無だ。従って、このような調書を王様視した、岩見裁判長(静岡地裁)は、法の番人であるべき裁判官自ら法を犯した…ことに外ならない。(1974年4月30日)

また、上告趣意書の中ではこうも言っています。

「当時私は、命を守るために、1日も早く清水警察を出て体調を正常に戻し、裁判所に於いて本件捜査陣らのでっちあげ、虚構及び偽証の悪辣極まった本件捜査過程を公判廷の場で明らかにしていきたかったのであります。唯、警察の法を犯した捜査過程に於いて、私は犯人ではないという真実を主張すれば、その時点で私の生命は危険であり、また、弁護人に不当な本件取り調べを訴えたところで、その日に清水警察を出られる筈もなく、拷問を避ける道はないのであります。当時私にとっての生とは、調官の意のままになることでした。(まま)

袴田さんの自白は、緊急避難であったことが解ります。自分の身に危険が差し迫ったとき前後の事情や論理性などは一旦棚上げして、自己防衛に最適な手段を即座に選択したのです。(緊急避難は、法律的にも、倫理的にも擁護され非難されることもありません。緊急避難で人を殺傷してしまったときも、正当防衛として罪にはなりません。)

被告の悲鳴の訴えは裁判の過程で警察官や検事の証言で否定され、裁判所に聞き入れられることはなかったのでした。トイレにも行かせずに取調室で排尿させられたという訴えは公判では認められず、白を切った警察官のウソが通りました。しかし、公判での認定を覆す証拠が出てきたのです。47年後に県警がないと言ってきた録音テープが県警の倉庫から発見され、開示されたところ、取調室で排尿させられる様子が音声としてはっきりと残っていたことが明らかになりました。
このように袴田さんの主張を見ると日常的な暴力や脅迫が行われていたに違いありません。元プロボクサーであるため、顔を殴られることに一般の人ほど抵抗はなかったし、ダメージを避けるテクニックもあったはず。拘置期限が迫った自白前の3日間は異常に長く過酷な自白の強要(取り調べ)が続きました。元プロボクサーで、年間19回もの最多試合回数記録を持つファイターの袴田さんが死を予感したほどの極限状態の中、意識は朦朧としていて警察官の暴力によるすねの打撲傷をいちいち覚えていなかったとしても何ら不思議はありません。また、消火活動でけがをした中指の傷と同様、身に覚えのないすねの傷を消火作業中にけがをしたと一貫して袴田さんが主張してきたのも理解できます。2日間で劇的に変化する傷は治りかけの傷であり、傷の回復の様子から数日前に蹴られたような傷であろうと推測できます。70日以上前の事件当日の傷でないことは明らかです。

6 素朴な疑問

1) 履物によって傷のでき方は違う?
自白調書で「専務に蹴られた」という傷が事件から70日後の起訴当時8,5cmのかぎ型の傷として残っていたになったといいます。しかも、1年2か月後、みそ樽から発見されたズボンには右足前面に2.5cmx4cmの裏地に達するほどのかぎ型の損傷がありました。冤罪事件に特有な現場の実相は極めて曖昧なままですが、調書によれば、土間に降りて追いかけてきた専務は逃げられなくて観念した袴田さんに蹴りを入れたことになっています。その時専務は裸足か履物をはいていたのでしょうか?裸足なら爪先で蹴るのではなく足底で蹴るのが普通。もし爪先で蹴れば、まともに脛骨に当たり蹴った方が負傷することになるわけです。でも足底で蹴った場合、傷は鈍器で殴られたような傷になるはずで写真とは明らかに違うし、ズボンもカギ裂きなどできはしません。よほど余裕があって、履物に履き替えて追い掛けてきたとしたら、スリッパか突っ掛けのような物。仮にそうだとしても事件当夜から70日後にまで残るほどの傷ができるとは思われないし、本気で相手を倒そうとした場合、突っ掛けのような固定しない履物で思いっ切り蹴るのは躊躇します。
2) 蹴りではなく払うのが柔道?
被害者の専務は袴田さんより 大柄で柔道の有段者でした。追いつめた被告のすねに蹴りを入れたというのがいかにもウソくさい。しかも相手はよく知った部下の従業員です。この時点では何もしていない相手にただ逃げたというだけで、いきなり宣戦布告をするでしょうか?
狭い現場で追いつめた相手を倒すには足を払うのが柔道の技であるはず。もし蹴ったとしても、すねはないでしょうし、返って自分が負傷しかねません。格闘家なら最も有効な戦術を瞬時に決断したことでしょう。相手を倒すのに最も有効な場所は太もも。躊躇なく思いっ切り蹴ることができるし、キックボクシングでも太ももにダメージを与える戦法はよく見るからです。

7 裁判所よ、真実と向き合うチャンスを無駄にしないで!

「あったことをなかったことにはできない」として元官僚が時流に立ち向かい、政権の誤りを告発して喝さいを浴びたのは記憶に新しいのですが、真実がゆがめられる社会に未来はありません。冤罪事件では「黒か白か」 真実は1つ。真実を裁くはずの司法が、ウソがまかり通る世の中を許したり、真実と向き合うことを避けたりすることは、司法の死を意味します。警察の記録にもなく、証拠としての信頼性に乏しい理由が袴田さん有罪・死刑の重大な決め手になったのです。袴田さんを48年間、17,388日もの間、獄中に監禁する理由になったのです。

無実の人を罪に陥れたのは警察だが、被告の無実の叫びに耳を貸さず、真実と真摯に向き合わず、警察の犯罪に与(くみ)した裁判官の責任は重い。袴田さんは静岡地裁による「再審開始決定」によって釈放されたとはいえ、未だ『確定死刑囚』です。静岡地裁村山判決にもあるように「5点の衣類」は捏造の証拠です。捏造の証拠をいくらDNA鑑定をしたとしても結果は明らかです。東京高裁がDNA鑑定の手法の是非などにいたずらに時間を費やして、せっかくの真実と向き合うチャンスを逃すことは許されません。
高齢の袴田さんと家族のためにも、一刻も早く、再審を開始し、再審の場で真実を明らかにしなければ、司法の誤りは永遠に正されず、世界中の笑いものになってしまうのです。

2017年8月15日

注1) 着る必要のない雨合羽:調書によれば白色のパジャマを夜陰に隠すために変装して専務宅に侵入したことにな
っています。しかし、犯行着衣がパジャマから「5点の衣類」に変更後もこの矛盾は無視されたまま、雨合羽を着て、サンダルを履いて木に登り、専務宅に侵入したことになっています。その年の6月30日は台風一過の熱帯夜、無類の汗かきの袴田さんが選択するはずのない選択が問題もなくスルーされたのです。
注2)血液反応が出ないゴム草履:犯行着衣の1部として押収されたゴム草履は被告が普段から常時使用していて、犯行時にも履いていたという重要証拠でしたが、静岡県警の捜査の結果油性も血痕も陰性であった為、証拠から排除されました。被害者4人をメチャクチャに40数回も刺し、取手のないポリバケツにガソリンを入れて線路を超えて運んだにもかかわらず、どちらも陰性だったということはゴム草履をはいていたものは犯人ではないことを証明しているのです。