袴田事件を調べれば調べるほど、袴田事件が日本の典型的な冤罪事件であることに気が付きます。警察・検察(捜査機関)が偶然ミスを犯してしまい、袴田巖さんが犯人と間違われてしまったわけではありません。たまたま起こったエピソードでは決してないのです。起こるべくして起こった背景があります。
警察、検察、そして裁判所だけが問題ではなく、それに止まらず日本社会が、日本国民みんなが抱える根本的な病弊に突き当らざるを得ません。日本の根深い問題です。世界からはバカにされ、蔑まれているのですが、それに気づいている人は少ないのが現状です。その一例を紹介することから始めます。

「日本は中世のようだ」

2013年6月、スイスのジュネーブで開かれた国連の拷問禁止委員会でのことです。モーリシャスの委員が日本の司法制度を取り上げました。長時間にわたる取り調べやそこに弁護士が立ち会えないことなど容認できない問題があり、「日本は中世(人権や民主主義が誕生する以前の王様が支配していた時代)のようだ」と発言。これに対し、日本の上田秀明外務省人権人道大使が反論、「日本は決して中世の時代ではない。この(刑事司法)分野では世界で最も進んだ国の一つだ」。その反論には場内から失笑が湧き起こりました。そのとき、上田大使は「笑うんじゃない!何で笑うんだ?黙れ!黙れ!(Don’t laugh! Why are you laughing? Shut up! Shut up!)」と怒鳴ったので、さらにこの日本人は何もわかっていないと軽侮されたのでした。
上田大使は日本国と日本人の考え方を代表していると思います。上田大使だけでなく日本国民の大多数も日本の司法制度が中世からさほど進んでいないということに気が付いていません。言い換えれば、人権(Human Rights)感覚、人権思想に無自覚だという致命的な問題から自由ではないのです。会議で「黙れ(Shut up!)!」などと怒鳴ること自体がアウト。そんな高慢な態度が、自由で民主的なコミュニケーションを否定するものです。

国際社会から人権蹂躙を非難されています。

国際連合は日本の人権を軽視している制度について、毎年のように警告を発していることをご存知でしょうか。残虐な死刑制度に始まり、人質司法と呼ばれる自白の強要や異常に長い起訴前の勾留期間、代用監獄の問題などを指摘、「先進国とは思えない」と批判され続けています。この事実を新聞テレビなどのマスコミが全くと言っていいほど取り上げずに隠しているので、国民的認識にまで至っていないのです。日本の常識は世界の常識ではありません。私たちは、島国日本が「中世」を未だに引きずっている状態から脱し得ていないという認識から出発しなければならないのです。
日本の警察は、捕まえようと思えば誰でも逮捕できます。微罪の別件での逮捕は日常茶飯事、拷問まがいの自白強要と自白するまで釈放されない人質司法、検察に有利な証拠のみで行われる裁判で99.9%の有罪率が控えているのです。その後の刑務所での懲役では、事細かな規則に縛られ徹底的に従順さを強制されます。言い換えれば、人間の尊厳を抑圧することによって社会的秩序を維持する仕組みなのです。
社会の秩序を維持し防衛するためには、個人の犠牲もやむなしという原理は、歴史的過去にあったどこかの全体主義国家や北朝鮮のような軍事独裁国家を支える考え方にほかなりません。国連から日本が名指しで非難されるのも当然のことです。

人権とは、人間の尊厳を確保する権利、ようやく獲得した歴史の宝物

あなたは「十人の犯罪者を確実に罰するためには、一人二人の犠牲者(無実の罪人)が出るのはやむを得ない」というように考えますか?それとも「十人の犯人を逃がすとも、一人の無辜(無実の人)を罰するなかれ」と考えますか?前者は、公益(実は形だけの秩序維持)のためなら人権蹂躙もやむなしという考え方。後者は、人権は何者にも侵されず公益に優先するという考え方です。日本人にアンケート調査をすれば意見は分かれますが、前者が後者を圧倒することでしょう。戦後の民主教育といっても、「他人に迷惑をかけてはならない、その限りで自由がある」という絶対的な人生観を常識として教育されてきているからです。しかし、前者を支持するのは、まだ中世の残滓から自由ではないことの証明なのです。後者は、近代人権思想の広がりとともに世界の常識として定着しています。

近代社会は人間性の解放から始まり、その歴史は権力者の圧政から人間の尊厳を闘い取ってきた歴史でした。ロックやルソーが提唱した人権とは、人間が生まれながらにして備えている権利であり、いかなる法律や契約によっても奪われることのない天賦の自然権であり、誰もが生命と自由を享受できる権利をいいます。法律や契約によって奪われることがない権利ということは、法律や契約によって初めて保障されるものではないのです。法律や契約がなくとも、それ以前に、生まれながらにして備えている自然の権利、これが人権の根源的な定義です。
それが具体化されると、日本国憲法が規定する基本的人権となります。「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」という有名な第11条の規定です。これは国家の目的は国民の基本的人権の確保、その保障にあるという宣言なのです。人権はさらに選挙権などの公民権にまで具体化され、自由と民主主義の社会を基本概念として支えるに至ります。人間の尊厳を第一とする人権思想に立脚しなければ、自由も民主主義もないのです。人権なき自由、人権なき平等、人権の尊重なき民主主義社会はありえません。

人類史の進歩を象徴する人権思想

自由の女神イギリスにはマグナカルタに始まる人権を勝ち取る歴史があります。絶対王政に対して市民革命を起こして近代市民社会を実現したフランス革命、イギリスの植民地であったアメリカは自由平等を掲げて独立戦争によって合衆国を樹立。これらの近代史を象徴する闘いは、権力者の圧政に対する人権を確保するための戦いでした。武器を取り流血によって勝ち取った人権保障の象徴が、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言にほかなりません。
現代の国連が目指すところも同じです。国連憲章(Charter of the United Nations)にも世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)にも明記されているのは、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利」を守ることです。6千万人以上の戦死者を歴史に刻んだ第二次世界大戦の後で独立した国々の憲法も人権を宣言することを基調とし、日本国憲法も人権の尊重を高らかに宣言しています。人権とは、長い時間をかけて、また夥しい流血によって、ようやく人類が普遍的に獲得した宝物。特別な地域や国に限定されることなく、世界中の人々が人間らしく生きていくために不可欠の価値観なのです。人間の歴史を文明の進歩と捉えるならば、その中心にそびえたつのは(物質的生産力や豊かさの向上ではなく)、まごうことなく人間の尊厳を人権として歴史に刻み込んだ栄光の記録です。

何故、人権をもちだすのか 冤罪袴田事件を切開する武器=人権思想

袴田事件の捜査や裁判について語るべきところ、何故に最初から世界史や倫理社会の復習をしてきたのか、理由があります。捜査の異常性を指摘したり、裁判官の判断の問題点を批判するとき、批判の武器、評価の物差しを明確にしておかなければならないと思ったからです。袴田事件(冤罪事件一般)における最深部の暗黒は、人権を蹂躙した問題であるという点にあります。「著しく正義に反する」といっても、その内容が問われます。従って、この人権をどう捉えているかということが批判の軽重を決定するのです。刀の切れ味が問われます。この課題、薄っぺらな人権感覚では太刀打ちできないのではないかという気がかりから、まず初めに司法捜査とは一見関係ないような分野に踏み込んだわけです。
政治権力は、国を守るためと言って戦争を始めます。過去の侵略戦争はすべて祖国防衛戦争という大義名分を掲げました。現代でも、国連憲章では侵略戦争を国際法違反として認めないので、戦争はすべて自衛のための戦争と言いくるめられて遂行され、軍隊はすべて自衛軍を詐称。実態とは全く逆の名前が付くのです。同じように、政治権力が国内に向かって暴走するとき、公共の秩序(福祉)を大義として牙をむくのです。公共の(福祉)や公益と言っても、本来のそれは一人一人の人権を確保するための方策にすぎません。人権が公共の秩序よりも優先されるのは当然としなければ、権力の暴走を止めることができないのです。
個人の人権が公益に優先する、この主張に同意できる人は少数だと思います。が、よく考えてみてください。「十人の犯罪者を確実に罰するためには、一人二人の犠牲者(無実の罪人)が出るのはやむを得ない」という考え方は、一見仕方がないと思われがちです。しかし、一方で一人二人の無実の犠牲者がいるということは、他方では、一人二人の真犯人がいて処罰から免れているということです。これでは悲劇が追加され二重の過失となるのです。
犯罪捜査に完璧はあり得ないので、場合によっては真犯人を取り逃がすこともあるでしょう。でも、その代わりに無実の人を犯人に仕立て上げることまでは必要ありません。必要ないばかりか、それは捜査当局(公権力)の犯罪です。「十人の真犯人を逃がすとも、一人の無辜を罰してはならない」という考え方、推定無罪の原則、これらの人権を確保するための原則は、同時に公益を利することにもなるのです。捜査機関の面子や表面的な逮捕、有罪率が高いことが公益ではありません。
こがね味噌専務一家四人の殺人放火事件も未解決なのです。真犯人は分からずじまいで時効が来てしまっています。これは捜査機関のミスで迷宮入り事件ですが、新たに司法機関(警察検察裁判所)は過ちを重ねるのです。袴田巖さんを犯人に仕立て上げた事件をねつ造、それで事件を解決できなかった汚名を雪ごうとしました。体面を取り繕おうとして罪を重ねたということなのです。言うまでもなく、捜査機関の「汚名挽回」は公益には決してなりません。

人権蹂躙もはなはだしいガラパゴス的「人質司法」

警察・検察が最も重要視するのが、被疑者(犯人の疑いがある人)の自白です。犯人として目星をつけた人を逮捕、勾留して取り調べに入ります。取り調べと言ってもその実態は自白の強要です。「自分がやりました」と罪を認めるまで釈放されず、長期間にわたって拘束され続けます。それが日本の刑事司法の暗闇、「人質司法」と言われる問題です。そこに世界からの非難が集中しています。ガラパゴスといったのは、世界中で日本という島国にしか存在しないからです。
被疑者を直接取り調べるために認められる逮捕・勾留期間を別表に示しますが、日本だけが異様に長いことは一目瞭然。警察が容疑者を拘束できる期間の上限が、日本は23日間。それに対してアメリカ2日間、カナダは1日、ドイツ2日間など、比較になりません。先進国では、逮捕してから2日(国によって異なります)以上勾留した後の自白は裁判で証拠として採用されないからです。外国では、自白よりも客観的証拠を集めることに注力し、自白には頼らない操作方法が主流となっています。

憲法38条では、「自白の強要」を禁止しています。

「憲法38条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

要するに、①警察検察は自白を強要してはいけない、②裁判所は、強制された自白、長期間の勾留の後の自白を証拠にしてはならない、③裁判では、自白だけで有罪にすることはできない、という憲法の決まりなのです。
この憲法上の規定は、それまでの拷問によって自白を取って罪に陥れる捜査方法を反省した上で、人権を保障するため。もちろん、外国では常識です。しかし日本の実態は、不当に長い23日間も拘束(憲法違反です)してとにかく自白を取るという自白偏重主義、その自白を補強する証拠集めるという手順が捜査方法として受け継がれているのです。このような身柄を人質にとっての捜査、これが「人質司法」です。そして、起訴された後も罪を認めなければ保釈もされません。
刑事司法の原則に、推定無罪という考え方があります。裁判で有罪判決が出るまでは被疑者または被告人は無罪と推定されるので、不当に拘束することは禁止です。が、実際はその逆で「推定有罪」の人権侵害がまかり通っているのです。検察官から「逃亡の恐れあり」とか「証拠隠滅の恐れあり」などという理由をつけられて拘置請求され、裁判所は事務的にそれを認め、弁護人からの保釈請求を却下します。長期間にわたる未決(判決前の)拘留が始まるのです。
さらに、懲役や禁固刑に服する場合、刑期満了前に仮釈放されることが多いのですが、無実を主張し続けると、仮釈放が著しく困難になるのです。「自分の犯した罪を反省していない」と評価されるからです。無実であろうとなかろうと、罪を告白しないと、最後までひどい仕打ちを受け続けるのが「人質司法」なのです。
その結果、無実の人が警察に逮捕された場合、警察の言いなりに罪を認めてしまう方が、無実を主張し続けるよりも得をする(事実上の刑が軽くなる)ことが多いのです。特に痴漢などの比較的軽い犯罪では、自白してしまえば即釈放ですが、否認すると「人質司法」の餌食となります。裁判の結果は無罪となっても、長期(時には1年以上)にわたる勾留で市民生活は破壊され社会復帰が困難となるのです。要するに、罪を犯したかどうかではなく、警察や検察に素直に従うかどうかで処遇が決まる。それが「人質司法」の実態で、映画『それでもボクはやっていない』(周防正行監督2007年1月公開)にも描かれています。

世界が驚く「代用監獄」

日弁連によれば、代用監獄制度とは

「警察の留置場は、本来、逮捕された被疑者を裁判所に連れて行くまでの間、一時的に留め置く場所で、 10日間や20日間、あるいはそれ以上もの間、被疑者を勾留するための場所ではありません。法律上、 被疑者を勾留する場所は法務省の管轄する「監獄」であるにもかかわらず、やむを得ず「監獄」に勾留 することができない場合には、監獄法の規定によって、警察の留置場を「監獄」の代わりに使用できるとしたこと、これが、「代用監獄」という仕組みです。」

この代用監獄は警察が被疑者を自白に追い込むためには都合の良いシステムなのです。本来、捜査取り調べと被疑者の身柄確保とは別。法務省管轄の拘置所が被疑者(犯罪の嫌疑を受けて捜査対象となっているが起訴されてはいない人)や被告(起訴されている当事者)を強制的に勾留します。それに対して取り調べは強制ではありません。不利益なことは証言しなくてもよいという黙秘権があります。捜査官には質問する権利がありますが、被疑者にはそれに回答する義務はないのです。犯罪の立証責任は捜査当局にあり、被疑者はそれに協力する義務はありません。
拘置所に収監されていれば、早朝から深夜に至るまでの取り調べは困難です。警察署にある留置場(代用監獄)に収容しておけば、何時でも何時間でも取り調べに引っ張り出せて便利なのです。また、被疑者の寝起きから食事など生活全般を捜査官が支配し管理できるので、様々な被疑者への虐待(人権侵害)が引き起こされているのです。被疑者を精神的肉体的に追い込んで自白を強制するために好都合な代用監獄制度が、冤罪の温床になっています。
代用監獄制度は世界中を探しても、日本にしかありません。日本にだって、こんな制度に固執する理由はないのです。国連からは、はっきりと代用監獄を廃止せよという勧告を受けています。

マスコミ報道が「人質司法」を支えています。

新聞テレビなどのマスコミは「人質司法」を批判的に報道することなく、そのシステムの重要な一端を担っているのです。これが大きな病弊と言わざるをえません。警察が被疑者を不当に追い込むばかりか、加えてマスコミ報道が嵩にかかって襲いかかります。
袴田事件では、「血染めのシャツ発見」とセンセーショナルな見出しが躍ったのですが、警察の誇大宣伝にのっただけのことでした。実際のシャツには小さなシミがあっただけ、シミの成分が血液かどうかもわからないものだったのです。しかし、新聞紙上では、「もうこれで犯人は決まり」とダメ押しです。記者は警察や検察の発表をそのまま、あるいはもっとセンセーショナルな記事にします。推定無罪の原則などどこ吹く風、まるで真犯人を血祭りに上げるかのように世論を煽り立てます。これも重大な人権蹂躙の犯罪、客観性を装っているだけタチが悪いと言わなければなりません。
被疑者逮捕となると、推定無罪の原則を放り投げて被疑者を真犯人扱いで大きく報道。これで犯人と決めつけられ、社会的に抹殺されるのです。一斉に警察の発表を裏付けなしでそのままニュースにします。捜査に疑問を挟むような報道は皆無。被疑者が自白でもしようなら、「よくやった捜査官」とばかり警察をほめたたえ、あたかも警察の広報のようになります。そればかりか、家族親戚、近所、過去現在の友人などに取材攻勢をかけて報道し、親戚家族までを社会的に葬りさろうという勢いです。
報道に接した人はみな被疑者を真犯人と思い込むように誘導されるのです。警察はその記事を被疑者に見せ、「もう観念しろ」と自白の強要に拍車をかけます。無罪を証明する有力な証人が、そんな雰囲気の中で被疑者に有利な証言を翻してしまうのも無理ならぬこと。「極悪人を助けるのか」と非難されてしまうからです。被疑者の家族は袋叩きにされ逃げ出すしかなくなります。
しかも、後から無罪判決が出ても、マスコミ報道は冤罪に加担したことを謝罪しません。反省もしません。これまで何度も、警察の広報と見間違うような報道を批判されてきています。でも、一向に変わらないのです。マスコミとは、本来的に人権の守護者のはずです。市民の立場から権力を監視し、人権侵害があった場合には激しく警告を発するのが社会的役割。権力側に寝返って国民を煽り立てるなどとは言語道断と言わざるをえません。もし、報道に正義が、人権思想があったならば、日本の司法は「中世」のままではいられなかったのではないでしょうか。冤罪事件の数も極端に減っていたことでしょう。

自白の強要、自白を重要視する捜査

憲法第36条で、拷問は禁じられています。
「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」という条文です。映画に出てくる拷問は、両手両足を縛って棒や鞭で殴りつけるシーン、あるいは柔道場で投げ技や絞め技で痛めつけるシーンです。ここまでやるケースは殆どなくなっているとは思いますが、強要、強制、脅迫によって被疑者を追い込む、長期の勾留で痛めつけることは今でも続いています。
それは、前述したように被疑者から何としても自白を取るためです。警察が犯人とおぼしき人物として推認する人を逮捕し取り調べにかけるのですが、その際、不思議なことが起きます。被疑者は犯人らしいというだけですから、ひょっとしたら違うかもしれない。犯人は他にいるかもしれないという考えを排除してはならないのです。が、そうすることはありません。頭から真犯人と決めつけて取り調べるわけです。それも組織的に上から「犯人は決まっている、自白を取れ」という命令が下ります。ですから、被疑者が素直に犯行を自供せずに否認したりすると、罪を押し付けようと暴走することになるのです。

警察の内部資料から抜粋します。このような教育がされています。

3 粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要
調べ官の「絶対に落とす」という、自信と執念に満ちた気迫が必要である
4 調べ室に入ったら自供させるまで出るな。
○被疑者の言うことが正しいのでないかという疑問を持ったり、調ベが行き詰まると逃げたくなるが、その時に調べ室から出たら負けである。
11 被疑者には挨拶・声をかける
留置場内で検房時等必ず被疑者に声をかけ挨拶する。
12 被疑者は、できる限り調べ室に出せ
○自供しないからと言って、留置場から出さなかったらよけい話さない。
どんな被疑者でも話をしている内に読めてくるし、被疑者も打ち解けてくるので出来る限り多く接すること。
○否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ。(被疑者を弱らせる意味もある)
愛媛県警平成 13 年 10 月 4 日付適性捜査専科生用「被疑者取調べ要領」から抜粋

さらに、袴田事件の捜査会議では、こんな指示がありました。

8月29日静岡市内の本件警察寮芙蓉荘において本部長、刑事部長、捜一、鑑識両課長をはじめ清水署長、刑事課長、取調官による検討会を開催し、取調官から取調の経過を報告させ、今後の対策を検討した結果、袴田の取調べは情理だけでは自供に追込むことは困難であるから取調官は確固たる信念を持って、犯人は袴田以外にはない、犯人は袴田に絶対間違いないということを強く袴田に印象づけることにつとめる。

狭い取調室の中で朝から晩まで「お前がやったんだろ」「いい加減に白状しろ」、取り調べに当たる捜査官は机を叩きながら、大声を張り上げます。「今自白すれば保釈もありうる。裁判になっても罪は軽くなる。自白しなければ、いつまでも釈放されないぞ。」「みんなお前がやったと言ってるぞ」・・・と、威圧と利益誘導が延々と続くわけです。
袴田巖さんは、逮捕されてから20日目、勾留期限に切れる3日前に自白させられています。その時の酷い状況について手記や手紙に書いています。

「その後は連日連夜の拷問と卑劣な術策を用いて、完全な病人でありました私を騙しうちにして調書一通デッチ上げたのであります。それからというものは、一通の調書のあることを理由に、生命に直接係る暴行を駆使してうむをいわさず、次々と推測による架空調書を捻出したのであります。」1977年集会へのアピール
「取調べ当時私の健康状態極めて悪く、この状態では私自身の生命をも守ることが困難であったのだ。右の理由からやむを得ず、先ずは、清水警察の手から逃れることが急務であった。」1975.12兄への手紙
「この間、私はほとんど自己を喪失させられていたことが後で分かった。ただただ、密室内で死を強制され、またしばしば殺されるのではないかという疑念と確信みたいなものが迫って来たのをおぼろげながら覚えている。」1980.5手記
「全身がむくみ、ところどころに青痣が走っている。その体は両手を広げたままぶっ倒れる。はれあがった目をうつろに開け、結んだ口から血を流している自分の姿。」1982.11手記
「私は、過度の衰弱からもうろうと、ただうずくまっていただけだ。・・・「ああ頭が爆ぜる、頭が爆ぜる」。ありのままを申し述べると、どなられ小突かれるから、口があっても物言えぬから、鼓膜が破れる程に終日どなられるから、頭の奥が爆ぜる。
常に私は意識なく、分別なく調べ室に引き出される。血がにじみぐらぐらする、階段を引かれ押されて昇り、降りて行く。」1983.1手記
「九月上旬であった。私は意識を失って卒倒し、意識をとりもどすと、留置場の汗臭い布団の上であった。おかしなことに足の指先と手の指先が鋭利なもので突き刺されたような感じだった。取調官がピンで突ついて意識を取り戻させようとしたものに違いない。」1983.2手記

袴田さんは「殺されるか」と思ったというのだから、凄まじい。連日12時間以上の取り調べを続けたのに否認を続ける巖さんに、焦った警察官たちは一体なにをしたのか?自白は止むにやまれぬ「緊急避難」以外の何物でもないのです。取り調べの録音テープが証拠として提出されたのですが、自白前の数日間のものは隠されているのです。それでも、トイレに行かせないで「自白したら行かせてやる」と強要、最終的には取調室内に便器を持ち込んでそこにさせている様子が録音されていました。
何日もこのような拘束が続けば、ほとんどの人は精神的に耐えられなくなります。本当に罪を犯していないなら自白するなんてありえない、などと簡単に考えることはできません。PC遠隔操作事件をご存じでしょうか。誤認逮捕が後から判明した4人のうち、2人が虚偽の自白をしていたのです。この事実に世間はビックリしましたが、ある警察官に言わせれば「誰だってオレにかかれば一日で罪を認める自白をするよ」と自慢します。そんなことが許されているわけですから、「中世」だと言われるわけです。

弁護士の立ち合いを認めず、面談も制限

起訴されてからは、裁判の公平性を保もつために弁護士を付けることが必須です。雇用するお金がない場合は、国選弁護人といって国が弁護士を手配してくれるのです。ところが、起訴される前の段階(長い場合は逮捕されてから23日間)は国選弁護人が付けられません。したがって、被疑者の取り調べに弁護士が立ち会うことを法的に規定していないのです。これも外国の法曹関係者には驚きです。
しかも、弁護士の面会(接見といいます)も制限してもよいことになっています。「捜査の都合」でほとんど接見を拒否するか、ほんのわずかな時間しか与えないのです。袴田事件の場合、捜査官の取り調べ時間は1日平均12時間、延べ280時間であったのに対して、その間の弁護人との接見時間はたった3回、ものの32分間でした。警察、検察の取り調べという仮面での自白強要がいかに常軌を逸して暴走しているか、うかがい知れるというものです。

警察が容疑者を拘束できる期間の上限(日弁連調べ)

カナダ:1日
フィリピン:1.5日
アメリカ合衆国:2日
ドイツ:2日
ニュージーランド:2日
南アフリカ:2日
ウクライナ:3日
デンマーク:3日
ノルウェー:3日
イタリア:4日
ロシア:5日
スペイン:5日
フランス:6日
アイルランド:7日
トルコ:7.5日
オーストラリア:12日
イギリス:4日(テロ事件を除く)
日本:23日

日本の検察の捜査について、欧米との比較(日弁連調べ)

項目日本欧米諸国
逮捕・勾留時間23日2~3日(原則)交通の便の悪い農村部で数日
勾留場所警察代用監獄(いつでも無制限に取り調べ可能)捜査官とは関係の無い拘置所(取調べには拘置所規則の厳格な制約がある)
被疑者の取調べに際しての弁護士の立会い許されない当然許される
取調べのビデオ、録音(可視化)許されない当然実施される
未決の国選弁護なし有り
未決保釈なし有り
捜査の目的自白の獲得
逮捕に必要な客観的証拠を収集し、逮捕して、長い拘留期間を利用して自白を取り、自白を利用して補強する客観的証拠を収集
客観的証拠の収集
逮捕・勾留時間は短く、被疑者の供述は弁明をうる程度であり、逮捕までに客観的証拠を獲得しておく必要がある
警察の機能自白の獲得等、供述証拠の獲得に長ける客観的証拠の獲得に長ける

99.9%の有罪率には秘密があります。

日本の刑事司法は、社会の秩序維持、社会の防衛に重点があり、その任務を担当する捜査機関の無謬性(絶対に過ちを犯さない)を看板にしています。そのために、人権には無関心。罪を摘発するのは良いのですが、暴走して人権蹂躙の罪を作ってしまうようならば話は別です。また、推定無罪の原則はお題目だけで、有罪と決めつけます。「推定有罪」の牙で襲いかかる有様です。
警察に逮捕されたらもうあなたは犯人。マスコミ報道で痛めつけられ、人質司法が舌なめずりして待っています。長期間の留置場での拘留、取り調べで自白を強要され警察の筋書での供述調書を取られます。供述調書とは名ばかりであなたの供述をそのまま文章にするわけではありません。捜査官が思うままに書いた文面に署名捺印するだけです。この調書が威力を発揮します。裁判の最後まで、結果を左右する最も重要な証拠として扱われるのですから。公判で自白を覆しても、捜査段階の供述調書の方を信用できる証拠とされ、公判廷での証言は罪を逃れるためのウソと認定されてしまうのです。
裁判所の判決では、ほとんどが検察の言いなりになります。検察官が起訴した事件は、その99.9%が裁判で有罪。検察主導の司法と言われています。裁判官は、検察、警察を無防備に信用しているばかりか、頼りにしている風に見えます。さらに、裁判官を辞めて弁護士に転身した人たちの証言として出てきますが、検察の顔に泥を塗ることは避けるのです。名裁判官による名判決とは、検察官の冒頭陳述や論告の不備を訂正して、より緻密で整合性のとれたものに再編集されたものだそうです。もし、裁判官が人権思想に立脚して訴訟を指揮し、自由心証主義を全うするならば、有罪率99.9%とは決してならないでしょう。

袴田事件に代表される日本の刑事司法の病弊についてみてきました。国際社会、国連から厳しく警告されている点は人権を蹂躙して顧みない悪弊。でも、あなたにはすべて納得していただけたでしょうか。若干の危惧があります。日本人は、事あるごとに「命の大切さ」をお題目のように唱えるだけで、人権や人間の尊厳についてまともに教育されてきていないからです。
司法当局(警察検察裁判所)一部では、日本の独自性を強調してこう正当化します。

「人質司法だの自白の偏重だのと言うが、治安の良い日本がわざわざ治安の悪い国の取り調べ制度を見習う理由などない。有罪率99.9%の刑事司法は日本の誇りだ。もちろん不十分な点はあるだろうが、どの国にも短所はある。我々は状況改善に最善を尽くしている」と。

この反論に応えられるでしょうか。
失礼なことを言って申し訳ありません。ほとんどの方は人権について人間の尊厳について微動だにしない知見と信念を兼ね備えていることと思います。袴田事件の再審無罪を勝ち取る裁判闘争は、同時に刑事司法の暗闇に光を当てる作業でなければならないと信じます。裁判官が無罪判決を出してくれる僥倖(偶然の幸運)を祈るだけではなく、冤罪事件を繰り返さないため、社会に人権意識を広げていくことが不可欠になるのです。人権思想に立脚した民主主義社会には、冤罪が大手を振って歩ける道はありません。
「悪い奴になら何をしてもいい」などという風潮はとても危険です。人権を尊重するのは、善人に対してだけではないのですから。仲良し同士の仲間を大切に思う気持ちがそのまま人権尊重ではありません。あなたの最も嫌いな人、誰が見ても極悪人と言われる人、そういう人にも人間としての尊厳を、いかなる法律や契約によっても奪われることのない天賦の自然権を認めることから人権思想は始まります。国民の人権感覚がもっとレベルの高いものであれば、刑事司法も変わります。社会も政治も経済もすべてが変わるのです。

日本国憲法の前文には、こう書いてあります。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 

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