袴田事件弁護団「弁護士列伝VOL.3

角替清美(つのがえ・きよみ)袴田事件
1972(昭和47)年 静岡県生まれ
三島北高校からアイオワ州立大学卒業。2008年、弁護士登録。
沼津市で、セラ法律事務所開業
2女の母。

 

偏差値34、猛勉強で米アイオア州立大学航空工学部へ

 私は高校時代まで、どちらかと言えば勉強が苦手で、運動ばかりしていました。高校ではソフトボール部に所属しインターハイにも出場しました。高校3年のインターハイが終わると受験勉強が待っていますが、実はそのとき偏差値34だったのです。それでもどこかへ入らなければいけない。それで京都女子大学の英文学部に入ったけど、もともと英文学なんて得意ではないし、このままでは卒業できないと思っていました。
そんなときにテレビでNASAの航空開発の番組を、たまたま見ました。妹が高校のソフトボール部時代に知り合ったアメリカの友人のところに遊びに行ったら、「こっちは航空開発の本場だよ。こっちに来れば」と言われ、アメリカ行きを決断しました。
アメリカの大学に編入するには、英語の基準をクリアしないと英語学校に入らなければいけない。そんな余裕はないので、日本で猛勉強して行きました。

 

理系のエンジニアから、弁護士への転身

 アイオワ州立大学の航空工学部を卒業し、その後、液晶ガラスを成形しているアメリカの会社に、エンジニアとして就職しました。1年の3分の1くらいは日本の工場に来ていて、そこで主人と出会いました。やがて、日本に異動になりました。大きい会社で待遇もよかったのですが、会社が数百億円儲かったといってもどこかピンとこなかった。それと、アメリカの現場で働いている人たちは、20年働いても30年働いても時給制で雇われているのです。非常に不安定な雇用を目の当たりにしていました。深夜勤手当は、1時間でわずか25セントなんですよ。現場とエンジニア、ブルーカラーとホワイトカラーの差をとても感じました。
やがて日本に異動になりました。日本では、そのうちに日系ブラジル人などを安い賃金で雇い始めるようになっていました。ちょうど小泉改革の頃で、イラクの人質事件もあり、あの時の「自己責任バッシング」にめまいがする様なショックを受けました。

 

労働問題がきっかけ、弁護士への転身を決意。「わたしも受かるかな?」

日本はどうなるんだろうと非常に不安で、私には何かできないのだろうかと思っていたときでした。司法試験が大学院制になるので、翌年は合格者が1500人に増える最後の年と聞いたのです。1500人なら私も受かるかな、みたいな(笑)。それで会社を辞めました。きっかけは、労働問題に関心があったからです。

ある予備校の「2年間合格コース」という87万円のコースを受講し、1回目の司法試験受験は失敗し、2回目で合格しました。その予備校に申し込みに行ったとき、言われました。
「この司法試験は、東大法学部の方でもなかなか受かる試験ではないので、ちょっと無理ではないでしょうか……。技術系のお仕事されていたのなら、弁理士を目指すのはどうですか?」
こっちは90万円持って申し込みに来ているのに、「はあ?」と思いましたよ(笑)。私は「とにかく申し込みます」と言って、弁護士を目指しました。2年間はとにかく猛勉強でした。特に1次試験には、理系の論理的思考が役立ちました。論文は、主語述語が必要な英語をずっとやっていたので、それを使うことが有効だったと思います。

司法試験に合格して司法研修の後に沼津に帰って弁護士を開業。民事、刑事ともに扱っています。刑事事件の否認事例で無罪を勝ち取った経験もありますし、現在争っている事件もあります。ほかには、行政事件も担当しています。教職員が懲戒免職になった事案とか。その他、離婚訴訟や交通事故、明け渡し、主には民事事件ですね。
もちろん、袴田事件弁護団に参加しました。

 

弁護団入りのきっかけは支援者の集会でした

 2回目の司法試験を受けたあと、静岡市清水区で袴田事件の支援集会があって出かけました。当時、熊本典道さんがカミングアウトした、ちょうどその頃でした。小川秀世弁護士が講演されていましたね。それを聞いて、なんでこんな証拠で有罪になっているのか、これはおかしい、と素朴に思いました。そこで、
「司法試験に受かったら、私も弁護団に入ります」
と宣言しました。弁護士登録を済ませて、約束通り第2次再審請求申立ての直後に弁護団に入りました。
とはいえ最初は、この現代日本で裁判所や検察が間違ったことをするわけがない、という思いが強くあり、きっとどこかに確たる有罪の証拠があるのだろう、くらいに考えていました。まさかこんなに酷い嘘がまかり通っているとは、当時は思いもしなかったのです。
でも、知れば知るほどおかしい、酷い話なんですよね。もう馬鹿馬鹿しくなるほどですよ。たとえば自白調書を読むと、「この自白調書だけで無罪でしょ」「何、この自白調書」、普通に考えれば誰でも無罪の結論を出すに決まっています。

 

即書類にする、アメリカで身についた習慣

 弁護団活動の中で心掛けていることですが、自分が何か提案したい時は、下書きの様なラフなものでもいいので形にして皆に示すということです。私は、先ほど言ったように元々頭のいい方ではないので、弁もたつ方ではないし、でも、そうやって形にすれば、取り扱ってもらえるのではないかと思うからです。
そういう所は、アメリカでの仕事の経験が役立っていますね。アメリカの会社では、いくら英語が話せるとはいえネイティブにはかないませんから、しかも新米だったから、私の意見を議論してもらいたければ書類等の「モノ」を提出しなければ検討してもらえない。そういう経験を積んできました。

 

支援者も一役買ったDNA鑑定

 2014年3月に静岡地裁で出た再審開始決定で大きなポイントとなったDNA鑑定は、支援者の山崎さんが強く主張していたことです。そんな支援者の声に突き動かされて、これは何とかしないといけないと立ち上がりました。2011年1月に筑波大学の本田教授に依頼し、すぐに小川秀世先生と一緒に会いに行きました。すると、
「これだけ血がついていたら、鑑定できるよ」
ということでした。それで鑑定を依頼し意見書を書いてもらうことになるのですが、それ以来、DNA鑑定は私の担当となりました。以来、本田教授の仕事ぶりを拝見することになったのですが、科学者としての誠実さ、客観性へのこだわり、そして誇り高き姿勢に敬服しています。プロたるもの、こうでなければいけないと教えられている気がします。

 

意見が分かれた「ねつ造」説

 「5点の衣類」のねつ造説は、小川秀世先生が強く主張されていたけれど、弁護団の中でもなかなか受け入れられなかったようです。私が弁護団に入った頃にも、まだその議論がされていました。再審請求審の補充書を書くときも、ねつ造という言葉を使って押すかどうかで意見が分かれました。私はどっちつかずでしたが、随分と論議が重ねられました。
生意気を言わせてもらえば、裁判官も検察官も弁護士も優等生で来ています。学校の先生から教わった正しいことを言ってその世界で認められてきたから、保守的です。あまり突飛なことを主張して否定されたくないという思いがあるのではないでしょうか。「ねつ造」という、これまでの裁判用語からすると飛躍がある感じを受ける言葉には、抵抗があります。
裁判官についてもそうで、無罪判決や再審開始決定に必要以上に臆病になるのは、そのような育ちのせいもあると思います。裁判官にも、検察官にも、もっと自由に、自分の気持ちに正直に判断して行動してもらいたいですし、彼らがそのように行動できるように、私たちが変えていかなければならないと思います。自由な行動をして、彼らが失うものは、せいぜい出世くらいではないでしょうか。自由を失ってまで守るものではないです。

 

第2次再審請求審、勝訴の手ごたえを感じていました


 再審請求審では証拠開示がなされ、犯行着衣とされたズボンの調書も新たに出されました。私と小川先生で、ズボンの製造業者に会いに行きました。このズボンに記された「B」について検察側は「サイズ」と主張し、だから袴田さんには穿けたはずだという。でもその会社の担当者は、当時捜査官に「記号のBは色を表示します」と説明したと断言したのです。ですから、「Bは色」という製造業者の供述調書があるにもかかわらず、検察はそれを提出せず隠していたのです。
しかもその担当者が言うには、再審請求審でその調書が証拠開示された後、検事がやって来て「色というのは勘違いじゃないか」とただすので、「絶対間違いない」と応えたということでした。それなら証人として法廷に来てもらい、証人尋問をすることにしました。裁判所に証人尋問の請求をすると、検察側は、
「必要ない」
という一点張りです。
ところが、しばらくすると、その製造業者から電話があり、
「先生、検察から電話があって、調書を取りたいから検察庁まで来いというんですが、どうすればいいですか?」
と相談されました。証人尋問に反対しているのに、その一方で「調書を取るから来い」という。ふざけた話で、追い詰められた検察のトラップです。
「そんなもの、行く必要ないですから」
と私は応えました。そして裁判所に「こんなのは不当なやり方だ」と申し入れをしました。そんな忘れられない出来事もありました。
腹が立つ反面、これは弁護団が検察より優勢に立っているのだな、という印象が浮かんできたのです。一方で、日本の裁判の良くない部分ですが、そんなことをしたら裁判所が「何をやっているんですか。やめなさい。」と警告すればいいじゃないですか。でも、しないんですよね。どうすればいいんでしょうね。

実のところ私は、第2次再審について勝訴の手ごたえを感じていました。弁護団の中にも同様の感触を持っていた弁護士が何人かいたと思います。2013年12月に、ひで子さんが静岡地裁で意見陳述をしました。あの日の村山裁判長の訴訟指揮を見て、裁判長は検察に「再審開始決定を出すから、覚悟しておきなさい」と、暗にそういう意志表示をしたと、私は手応えを感じ、受け止めたのです。

こんなこともありました。検察官が、審理が終わるギリギリの段階で意見書を提出してきたのです。形勢不利な状況での悪あがきだったと思います。弁護団は、決定が出る直前に「そんなもの出してくるな、排除しろ」と訴えつつ、こちらも一応、反対意見書を準備していたのです。西嶋弁護団長が「こちらも意見書があります」と言ったところ、村山裁判長が団長を制して、即ジャッジ。
「裁判所は期日を双方に確認しながらやってきました。検察が今頃になって意見書を出すのは遅いと思います。検察官、これは持ち帰ってください。」
と、突き返したのです。そんな訴訟指揮、初めて見ました。明らかに村山裁判長は検察に対して怒っていました。それで手ごたえを感じたのです。

 

再審開始決定前日の決意

 これはかなりの確率で再審開始決定が出ると予想できるから、出たときに袴田さんをどうするかということのプランを事前に考慮しておかなければいけない、と私は弁護団会議で意見を述べましたが、でも不評でした(笑)。
とはいえ、まだ開始決定が出たわけではありません。決定の前日に私は、
「あす万が一棄却されても、私は一生、死ぬまで袴田さんの事件に関わっていくぞ」
と覚悟しました(笑)。私は袴田事件のためには時間も労力もお金も惜しまない、と決めています。

 

ついに再審開始決定、「あれ、拘置の執行停止もついてるよ」

 決定前、弁護団の弁護士はみんな、「棄却された場合すぐに即時抗告のための書類を作らなければいけない、そういう準備こそ必要だ」、と言うものだから、私は、決定の日には大量の記録を全部スーツケースに詰めて準備して行きました。そうしたら、みんな手ぶらで来てるじゃないですか。私だけ大荷物を抱えてきていて。「はあー?」と思いましたよ(笑)。

目が覚めるような画期的な決定でした。弁護団は浮かれてしまって、誰も「執行停止」がついているって気づかなかったんですよ。そうしたら、決定書をコピーしていた小川央先生が弁護士会館で、
「あれ、これ執行停止がついてるよ……」
「えっ? ほんとだ。すごいすごい!」
って(笑)。マンガみたいな話ですよ。その後の打ち合わせで、「執行停止がついてるぞ」という話に驚きを隠せません。村崎先生が、
「これは執行停止決定なんだから、今日中に袴田さんを取り戻さないといけないよ。取り戻しにいきましょう」
すると、
「バカなこと言ってんじゃないよ。今日は出られっこないんだから」
と一蹴する意見やなんやでドタバタです。それまで、最悪の事しか考えていなかったので、皆あたふたしていました。
そうこうしているうちに、戸舘先生から報告。
「朝日テレビが、皆さんの分のグリーン車席を用意するから、ひで子さんと一緒に東京まで同行したいと言ってますけど、誰が行きますか?」
すぐに、みんな「ハイ、ハイ、ハイ」って(笑)。なんだか、訳が分からない状況でした。

 

弁護団、素早い対応で検察の「拘置の執行停止」を阻止 「あっ、今袴田さんが出てきた」

 そんな感じで、あたふたしながらも、弁護団は速やかに3つのグループに分かれました。静岡に残って地検と静岡地裁に申入れするグループと東京・霞ヶ関に行って高検と高裁に申し入れするグループ、そして、東京拘置所に行くグループ。

東京高裁に向かったグループです。
よくよく条文を見ると、検察は執行停止を止められない。しかし、検察は直ぐに東京高裁に要求を出すことはすぐに予想できました。高等裁判所の職権で「拘置の執行停止の停止」、つまり「職権で釈放しないでください」「身柄を止めおいてください」と上訴するはずです。東電OL事件のゴビンダさんのときがそうでした。そこで、高裁に急ぎました。決定書の写しもつけて、高検から職権での請求が出たら棄却するように申し入れました。それがよかった。検察の訴えは直ちに棄却されましたから。

もう1つは静岡地裁に行くグループでした。
検察の「職権で拘留せよ」という請求は、まず地裁にします。村崎先生の話だと、地裁に行って「そんなもの棄却!棄却!」と声を上げていたところ、地裁の書記官が出てきて対応してくれました。
「もう、皆さんの気持ちはわかっています。裁判官も皆さんの気持ちはわかっていますから、大丈夫ですよ。」
ホントかどうかは分かりませんが(笑)、そう言われたそうです。実際、すぐに検察の請求に棄却決定が出されました。それに対して、検察側は東京高裁へ抗告しました。それも棄却されました。そんな動きが静岡と東京でありました。

そして、東京拘置所に行っていたグループ。
小川秀世先生も最初は東京高裁グループに居ましたが、袴田さんがどうなっているか分からないということで、拘置所に向かいました。その小川先生に、電話しました。
「小川先生、今どうなっていますか?」
「いや、よくわからないけど……、あ、いま袴田さんが出てきた」
テレビ映像を見ると、袴田巖さんが半袖シャツで東京拘置所から出てきている。私たちは「え?もう!?」っていう感じで、まだ実感がわかない状態でした。この日はほんと、ドタバタしていました。
その日、ホテルで初めて袴田さんと会いました。疲れ切っていたのか、袴田さんは何もしゃべりませんでしたね。そのときと現在では、袴田さんの様子は、表情がまったく違いますね。あのときは無表情でした。

 

即時抗告審の検察 破れかぶれの本田DNA鑑定批判

 その後の検察の動きは、筑波大学の本田先生のDNA鑑定を何としても潰したかったようでした。まるで批判になっていない、ためにする批判でした。血液細胞の選択的抽出法やバナジウムを入れたPCR法が信用ならない。加えて没理論で酷い中傷まで繰り出しました。本田先生はデータを改竄している、鑑定対象に自分のDNAが入っているなどと。破れかぶれになっている。多数の学者を動員して本田鑑定を攻撃させましたが、科学論争になっていない。本田鑑定の追実験をして確認するわけでもなく、ただ評論しているだけですから。検察側の動きは「本田教授を貶めたい」という一念、それだけでした。

法医学に従事する学者って、99%が捜査機関から仕事を依頼されます。彼らにとっては、検察はお客さん。警察や検察ににらまれると仕事が無くなってしまうそうです。だから法医学者は検察の考え方に付き合って、なかなか検察に不利な鑑定は出さない。単純に「論より証拠」とはいかないのが現状です。
本田先生も法医学者の一人です。本田先生は弁護側に立つわけでもないのです。特に弁護側に味方しても何もいいことはない。お金だってほとんど払っていません。
本来であれば捜査機関がお客さんですから、本田先生が真実を曲げてまで弁護団に便宜を図る理由は無いのです。
本田先生は純粋に科学者として誇りを持っています。鑑定人尋問でも、自分の損得勘定を捨てて、科学者精神でやっていることがよく分かりました。偉いと思います。本来そうでなければいけないし、そでなければ鑑定を依頼する意味がないじゃないですか。

 

無罪判決に対する検察官の上訴権を禁止すべきですね。

 私が思うに、検察官上訴制度がいけないんですかね。検察官が裁判官の判決や決定に異議申し立てできることが、裁判官を委縮させるように見えます。最近、アメリカの裁判所がトランプ大統領の処分を覆して話題になっていますが、どうして日本の裁判官はそういう裁判官みたいに自由じゃないんでしょうか。検察官の主張に合理的な疑いがあるかどうか、それだけを自由な心証に基づいてジャッジするのが裁判官のはずです。
アメリカの裁判官が自由だからといっても、冤罪がなくなるわけではありません。でも、少なくとも自分の良心に基づき本気で判断できるじゃないですか。日本の裁判官って、外圧やわけのわからない忖度があって、「ホントはそんなこと思っていないでしょう?」ということを書いています。「自分が信じているのではなくて、そう書かされているんでしょう!?」って。それが、一番つらいところですね。
せめて、検察官の上訴ができなくなれば、そういう委縮効果はなくなります。再審だけでなく全ての裁判で、無罪判決に対する検察官の上訴権を取り上げるべきだと考えます。

 

「再審無罪が確定するまではお酒を飲まない」と決めています。

 どうでもいいことですが、平成21年の夏から、「袴田さんの再審無罪が確定するまではお酒を飲まない」と決めています。この事件の弁護団をやっていると、お金が入ってこないばかりか出て行く一方です(笑)。しかも手間暇はかかるし、で、モチベーションを維持するためには、「すべて終わったら楽しいことがある」という目標があった方がいいと思ったからです。
本当は、ワインとか酎ハイとかカクテルとか、好きでいくらも飲めますけど(笑)。ですから、早く再審無罪にしてもらわないと。私の飲酒の権利も侵害されていますよ、誰か私の代理人になって検察官を訴えてくれないですか、ほんと(笑)。

 

こんなことがまかり通る国に生きていたくないじゃないですか

 でも真面目な話、袴田さんのためはもちろんですけど、私たち、こんなことがまかり通る国に生きていたくないじゃないですか。こんな裁判所に裁かれて生きているなんて御免ですよね。それを、自分たちのために直したいのです。袴田さんは、そのチャンスをくれているという感じですね。
袴田事件の裁判の経緯を踏まえれば、常識的に考えて再審無罪です。袴田さんを死刑囚に戻すことは到底考えられませんよね。もしそうなったら、日本の裁判所は世界の笑いものですよ。
裁判所は、この50年間、ずっと間違えてきました。でも、遅すぎても、「Better late than never」です。過ちを直さないのではなく、手遅れになっても直す、その様な姿勢を裁判所は見せてくれると信じています。そして、私たちは、そのような裁判所の姿勢に希望を感じて生きていけるのです。