冤罪事件弁護の泰斗、西嶋勝彦
袴田事件が発生する前年、1965年(昭和40年)に弁護士となった西嶋勝彦弁護士は、1年目から重大冤罪事件を相次いで担当。その多くで無罪判決を勝ち取ってきた。「無罪請負人」の確かな手法は、弁護士仲間はもちろん、多くの関係者からの信頼を得ている。現在は「袴田事件弁護団長」としての活動に全力を傾注する。袴田再審事件の即時抗告審の見通しと、これまで担当した事件の数々のエピソード。
「袴田再審事件は、来春までの決着を目指します。」
死刑制度の廃止、誤判の原因究明をする第三者機関の設立にも多忙の日々。
◆西嶋勝彦(にしじま・かつひこ)袴田事件弁護団団長◆
1941(昭和16)年 福岡市にて出生
1959(昭和34)年 福岡県立修猷館高校卒業
1963(昭和38)年 中央大学法学部卒業
1965(昭和40)年 司法研修所卒業(17期)。東京弁護士会登録
1986(昭和61)年 東京弁護士会副会長
1987(昭和62)年 日弁連常務理事
1988(昭和63)年~2006年 日弁連拘禁二法案対策本部事務局長
1998(平成10)年 東京弁護士会常議員会議長
2009(平成21)年~2011年 法務省・不服審査検討委員
これまでに、八海事件(1951年)や仁保事件(1954年)、波谷事件(1977年)などの重大事件をいずれも無罪に導き、また、徳島ラジオ商事件(1953年)、島田事件(1954年)では、再審無罪を勝ち取った。現在、袴田巖氏の再審事件弁護団団長を務めている。お茶の水合同法律事務所所属。
主な著書に『世界に問われる日本の刑事司法』(共編著、現代人文社)、『死刑か無罪か――えん罪を考える』(共著、岩波ブックレット)などがある。
「再審を開始する」との文字を見たとき、込み上げてくるものを抑えられませんでした。
袴田巖さんの弁護団長として、私は後楽園ホールのリングに上がって挨拶したことがあるんですよ。凄いね、あそこは。血や汗が四角いリングのマットの上に点々とあって。半世紀以上も前に、袴田さんがここで激闘を繰り広げていたのかと思うと、感慨深いものがありました。男の闘いの痕跡が、リングの上には刻まれているんですね。そして袴田さんは、いまなお闘っている。その事実を私たちは、真摯に受け止めなければなりません。
2014年3月27日、袴田さんの第2次再審請求に対し静岡地裁が、再審開始決定を出しました。袴田さんの姉・ひで子さんと小川秀世弁護士、私の3人で決定書をめくっていたのですが、やがて「再審を開始する」との文字を見たとき、込み上げてくるものを抑えることができませんでした。
そこには、「死刑および拘置の執行を停止する」とも書かれてあったのですが、気持ちが昂ぶっていて、最初、その意味がよくわからなかった。ですがそれは、死刑囚である「袴田さんの身柄そのものの拘束をすぐに解け」という画期的な判断だったのです。実はその年の2月、いよいよ決定が近づいたころ、「単に死刑執行を停止するだけではなく、身柄の釈放もせよ」との申立を弁護団は地裁にしていたんです。
第二次再審請求審では、手応えを感じていました。
私たちは、再審開始決定の前年あたりから、ある程度の手応えを感じていました。静岡地裁が、「新証拠を提出されますか」「証人請求を維持されますか」などと言ってきたからです。「それをしていると遅くなりますよ」というようなニュアンスがあったので、私たちは、審理が終わりに向かっている気配を感じ、維持しなくても決定を出せると判断、「請求はしません。撤回します」ということにしたのです。そして、年内に最終意見書を提出しました。
その前にはDNA型鑑定で、犯人のものとされる血液が、袴田さんのDNA型と一致しないとの結果も出ていました。そうした経緯があり、私たちは手ごたえを感じていました。
とはいえ私たちには、第1次再審請求の苦い経験があったので、もちろん油断することはありませんでした。あのときは、検事が証拠開示をまったくしないし、裁判所も勧告をしないし、証人調べもしなかった。新しい事実の調べの書面を提出しても、軽くはねられていたんです。鑑定書を出せば本来、鑑定人を尋問して心証をとるべきなのにそれをしなかった。
この1次再審のときに比べれば2次再審は、100%ではありませんが、検察官に要求した証拠開示を裁判所が出させるように努力してくれて、鑑定人の尋問もあった。そうした積み重ねが行われていた。これらも、手応えの一つです。
再審開始決定の理由は、DNA型鑑定がよく言われますが、それだけではないのです。それ以外に、弁護団や支援者が行った5点の衣類の味噌づけ実験や、念のためにということで、裁判所は旧証拠をすべて改めて見直して、いかに証明力が弱いかということを書き加えています。だから、単にDNA型だけで決定が出たわけではないんです。
出てくる証拠が、どんどん袴田さんの無実を証明していくんです。事件直後の聞き込み捜査なども分析すると、袴田さんが最初から消火活動に加わっていることがよくわかる。ところが、調書が増えていくに従って、証人たちの言い分が次第に変遷していく。捜査側のシナリオに従っていったんですね。
一番大事なのは、初期の捜査資料。詳細は別の機会に譲りますが、まだ誰が犯人かわからない段階での警察の資料を分析すると、袴田さんが犯人ではないことははっきりしてるんですよ。
浜田先生の鑑定では、自白調書は全て「無実の証拠」とされました。
1次再審の際、奈良女子大学名誉教授の浜田寿美男先生(法心理学)に、自白調書45通の分析をしていただきました。私たちの従来の発想は、この調書に任意性と信用性があるか、いかに取調べが酷かったか、ということでした。しかし、浜田先生の観点は次のようなものでした。この自白調書が、
「無実の者が強制されて嘘の自白をしていった過程を表したものか、それとも、真犯人が耐え切れなくて真相を告白していった取調べの過程を反映しているものか」
という二律背反のテーゼを立てて、鑑定したのです。すると、袴田さんの調書は、「明らかに、嘘の自白を作り上げられた過程だ」と、その決定的な例を挙げているんです。一例をあげると、袴田さんが盗んだとされる小袋の存在を、袴田さんは知らなかった。小袋を入れた甚吉袋と思っていた。どう考えても、袴田さんが真犯人ということはあり得ない。
45通の自白調書は、1通しか裁判所に採用されていませんが、浜田先生は、「残りの44通も、無実を表す新証拠である」との位置づけをして、鑑定書を書いたんです。つまり、1通の調書のみで有罪とされたが、45通全体が無実を表す新証拠であるとの主張を、理路整然と示してくれたんです。
この主張に対し、1次再審の静岡地裁の棄却決定は、一言も触れなかった。即時抗告審の東京高裁は、「その分析は、裁判所がやるべき判断事項であって、心理学者が自由心証の領域に踏み込んでいる」という言い方をして排斥した、けしからん奴なんだよな。特別抗告の最高裁も同じような状況でした。
第2次再審請求では、取調べ録音テープの分析を浜田先生にお願いしています。2014年の再審開始決定が出る前に、録音テープは1本しかなかった。ところが、即時抗告されたあとには48時間分が出てきました。そこには、以前に提出された1本が含まれていた。つまり、選択して抜き出して出してきて、あとは「ない」と言っていた。本当にけしからんことですよ。
取調べの音声は、足りない部分がかなりあります。決定的に足りないのは、自白に転じたその瞬間です。録音や録画は、はじめから終わりまで全部提出しなければ意味がない。自白が整った後のテープでは意味をなさない。一部のみではむしろ逆効果というか、被告人にとっては不利な証拠になってしまうこともあります。
とりわけ裁判員裁判の時代には、そういうテープ以前にどういう取調べが行われているか、これが大事になる。理路整然としたテープを最初から聞かされると、「これは犯人だ」となってしまう危険性があるんです。プロの裁判官だって騙されてしまうこともあるでしょう。最初から最後まで、テープ全部を公開しないと、画竜点睛を欠くことになってしまうんです。
弁護士1年目から八海事件(最高裁で無罪)に携わり、立て続けに冤罪事件の弁護に立ってきました。
1965年、私は東京合同法律事務所に入り、弁護士としてのキャリアをスタートさせました。事務所の先輩である上田誠吉さんに誘われ、1年目から八海事件(1951年)に携わるようになりました。八海事件は、第2次控訴審の無罪判決(1959年)が覆され、私が弁護士になった1965年に、第3次控訴審で死刑判決が出されたのです。八海事件の被告人だった阿藤周平さんが広島拘置所に収監されていて、そこに仁保事件(1954年)の被告人もいました。広島に通ううちに、仁保事件の弁護団にも加わり、上告審を担当しました。幸い、両事件とも無罪を勝ち取ることができました。
仁保事件でも、袴田事件と同じように取調べの録音テープが開示されていました。その中に、被告が「痛い、痛いっ」と叫ぶ悲鳴のような声が入っている。取調べでの暴行が疑われるシーンです。最高裁の弁論で私がそのことを指摘すると、河井信太郎検事は、
「これは取調べで、矛盾するような痛いところを突かれて被告人が『痛い』と言ったんだ」
と、あり得ないような苦しい弁明をしたのを、鮮やかに憶えているな(笑)。
その仁保事件のころからの知り合いだった高野孝治弁護士に依頼され、今度は、二審で無期懲役となっていた江津事件(1962年)の上告審に携わるようになりました。しかし、最高裁は1972年に上告を棄却。ここから、私にとっては初めての再審へとつながっていきました。
同じころ、日弁連の人権擁護委員だった関係で、既に10年ほど動きがなかった静岡県の丸正事件(1955年)の再審も担当。さらに、島田事件(1955年)や徳島ラジオ商事件(1953年)、そして袴田事件(1966年)の再審に関わっていくことになりました。
徳島ラジオ商事件を担当しているときには、最後の博徒といわれた大親分が、子分の虚偽の供述によって、別の組の組長殺害を教唆したとされる波谷事件(1977年)も弁護しました。これは、最高裁で有罪判決が破棄、高裁に差し戻され無罪になりました。
このように、立て続けに冤罪事件の弁護を担当するようになり、現在に至っています。再審無罪の事件や、最高裁で破棄差し戻しで無罪になった事件など、そうした私の活動が次第に弁護士仲間や、時には、獄中にも広く伝わったようです。
ある時、元暴力団組長の刑事事件を弁護したことがありますが、彼は満期出所した後、同じような出所者のために仕事や住居の世話をするNPO法人「オリーブの家」を熊本で立ち上げ、いま一生懸命に働いていますよ。これは非常に嬉しいことですね。
私の刑事事件の中心は死刑事件や冤罪事件ですが、ほかに、被疑者被告人の身体拘束について、留置場や拘置所、刑務所の改革の問題にも取り組んできました。警察と法務省が「拘禁二法」というとんでもない法律を出してきたあたりから加わって、2006年まで日弁連の拘禁二法案対策本部事務局長として活動しました。
携わる刑事事件のうち、6割が再審冤罪事件、4割が刑務所改革などの刑事政策です。また、日弁連の担当委員会の一員として2020年までに死刑の廃止を目指して活動しています。そのためには刑法改正が必要で、国会議員にも奮起を促していきたいと考えています。
また、私はいま日弁連で、誤判の原因究明をする第三者機関を作るという運動の責任者をやっています。これを実現させるまで手を緩めるわけにはいきません。裁判所は、なかなか自分達の誤判の原因究明をしようとしない。検事は「取調べがもっとうまくいっていれば有罪にできた」「初期捜査が不十分だから無罪になった」などと言う。とんでもないことです。第三者機関が記録を十分に読み込み、裁判官を呼び出して、「どうしてこういう証拠調べをしなかったのか」というような追究をしなければいけません。フランスでは、第三者機関がそのような活動をして、改革に結びつけています。
冤罪事件では有罪の証拠で塗り固められ、無罪の証拠が隠されてしまい、弁護は非常に難しいものです。
袴田事件の再審請求に関わることになったのは、こういう経緯です。担当していた島田事件の再審無罪(1989年)を勝ち取ったころ、袴田事件は第1次再審を請求していました。島田事件が終わったので、袴田事件の弁護団に加わったのです。そして、静岡地裁での棄却決定(1994年)後に、弁護団長に就任しました。
有罪の証拠に塗り固められ、無罪の証拠が隠されている冤罪事件の弁護は、非常に難しいものです。
たとえば、供述だけで成立している有罪判決で、供述そのものを崩すためには、供述の基本になっている状況から矛盾点を突いていくしかありません。最初は、本人の言うことしか頼りになるものはない。記憶を喚起してもらい、どういうことがあったのか、なぜ、そういう供述が出てくるのか、です。また、犯行現場は動きませんし、犯人がまだわからない状況なので、作為の入る余地は少ない。まず、そこから始めるのです。そして、
「強要された自白通りには、こういう状況はできないのでは?」
などと、経験を積むうちに矛盾する部分が見えてくるんです。
袴田事件の弁護団長として、30人近い弁護団の意思統一を図ることに最も気を遣いますね。異なる意見を持つ各弁護士の中にあって、私が一番留意しているのは、声が大きい人の意見に従うということはしない、ということ。いま何が必要なのか、どうすれば効果的なのか。それを議論し、吟味し、方針を決定。それを弁護団に理解してもらうよう努力しています。
たとえば、即時抗告審でDNA型鑑定を覆そうとして、検察側が同じような鑑定を裁判所にやらせようとしていることに対し、私たちは「その必要はない」と1年以上抵抗しました。しかし東京高裁は、鑑定の手法についての実験を指示。その結果が出て、この9月には鑑定人の尋問が行われます。無意味に時間がかかるので、弁護団は原則的にこの実験に反対でしたが、尋問で矛盾点や手法のおかしさについて尋問する機会でもあるので、いまは前向きに取り組んでいます。弁護団の中にも異論はありました。しかし、実験をしようとする裁判所の流れは止められません。ですから、流れに乗った上で、最善を尽くそうとしています。
今年9月に予定されている鑑定人尋問で、9割方は審理の進行が見えてきます。それまでの間に、証拠開示の要求を続けつつ、まだ出し切れていない証拠を提出しようとの議論をしています。その一つが浜田鑑定であり、ほかにも、従来の有罪証拠でまだ反論し尽くしていないものがあるので、それを出そうと議論しています。
来年春の決着を目指しています。
現在の証拠の状態を客観的に俯瞰すれば、再審開始決定を東京高裁が覆すことは、よほど証拠無視などの意図がない限り、難しいでしょう。裁判所は慎重に考えているでしょうから、結論からいえば、即時抗告は棄却されると見ています。開始決定は、非難されるべき非合理な点はないんですよ。
もともと即時抗告審は、戦後の刑事訴訟法の改正のときに手つかずで、古い構造のままなんです。その一例が、検事の即時抗告を認めていること。本来の趣旨は、不利益な決定を受けた請求人が、上級審の判断を二度受けられる、というものです。苦労して通った開始決定に対し検事が文句言える、というものではないんですよ。
翻ってみれば、現行憲法下の再審は請求者の利益のために作られている制度です。検事の防御のためではないのです。ということに鑑みれば、袴田さんの再審開始決定を取り消してはいかんですよ。
私たちがいま考えているのは、今年中に最終意見書を提出して、今年度内に決着をつけたいところです。
即時抗告が棄却されたとき、検察はもう特別抗告できませんよ。してはいけません。あとは再審公判で審理すればいいんです。再審請求審と即時抗告審でこれだけ審理を進めてきたのだから、再審公判は1回か2回で済むはず。ただそれは、どこまで検事が抵抗するか、にかかっていますね。再審公判といっても、起訴状の朗読から始まるんですよ。
私がかつて担当した徳島ラジオ商事件の再審公判では、こんな信じられないことがありました。犯人とされた富士茂子さんが亡くなった後の死後再審だったのですが、論告で検察が求刑をするかどうか、まさかそんなバカなことをするわけがないだろうと思っていたんです。すると検察は、
「懲役13年を求刑する」
と述べたんです。もう富士さんは亡くなっていないのに、いったい誰に向かって求刑しているんだということですよね。時に、考えられないようなことをしてくる、それが検察なのです。
司法の舞台で最善を尽くしますが、世論を変えていくことも重要ですね。
最後に言いたいのは、私たち弁護団は司法の舞台で最善を尽くしています。同じように重要なのは、世論を変えていくということです。徳島ラジオ商事件のときは、参議院議員だった市川房枝さんや、作家の瀬戸内寂聴さんらの協力もあり、「どう考えても、この事件はおかしい」という雰囲気が街全体に広がっていきました。仁保事件でも、地元の大きな協力がありました。
袴田事件でも、各支援団体が積極的に動いてくれていて、大きな力となっています。さらに大きな支援の輪を広げ、世論を動かせればと思っています。
いずれにしても、袴田事件は大詰めを迎えています。必ずや、いい結果を出せると信じています。その暁には、大好きな日本酒で祝杯を上げたいですね(笑)。