袴田事件弁護団「弁護士列伝」VOL.4

笹森学◆笹森学プロフィール◆
1953年、札幌市生まれ。
1979年、中央大学法学部法律学科卒業。
1988年、弁護士登録(40期)、北海道合同法律事務所所属。
日本弁護士連合会人権擁護委員会袴田委員会委員。
日本法医学会会員。
日本DNA多型学会会員。
これまでに北海道空知女性連続殺人事件、足利事件などの再審事件を担当。
現在、袴田事件弁護団に所属。

孤立無援の人にこそ寄り添う

私が「徳島ラジオ商殺し事件」の冨士茂子さんの姿を見て強く思ったのは、冤罪に巻き込まれて孤立無援の被害者、孤独な弱者を応援したい、支援したいということです。冤罪事件は、無実の人を有罪にして、死刑や長期刑などの艱難辛苦にさらします。加えて、真犯人を逃すことになる。二重の意味で、冤罪は最悪な事件といえます。
私の仕事は刑事事件や再審事件だけではなく、過払い金の裁判を担当したり、地上げに賃借人とともに対抗したり、民事事件もかなり手掛けました。もちろん、社会的に弱い立場の方々の代理人としてですが。
今は他にも、刑務所で酷い処遇を受けたある受刑者が、行政処分の取り消し、国家賠償を請求している事件も担当しています。刑務所に入っている人は、たいてい孤立無援ですから。

ビル清掃の仕事を続けながら目指した弁護士

私の父親は、地元北海道大学文学部の教授(社会学)でした。ですから、大学受験に対する無言の圧力が半端ではありませんでした。口うるさくは言わないけれど、勉強ができなくてはいけないという、主観的な物凄いプレッシャーを常に感じていたのです。

そんなとき転機がありました。寺山修司の『書を捨てよ、街へ出よ』という名著に触れて、アジテーションされたのです。そして私は、内地へ行く(津軽海峡を渡る)決心をしました。ですが、父との関係で建前としては北大も受けなくてはならない。その結果、2浪をして北大と中央大学法学部に合格し、中大に進みました。

普通は北大に行きますよね。父も当然そう思っていたようです。私は、親の期待を振り切ったからには、親に迷惑をかけないことを肝に銘じました。学生時代は奨学金をもらい、新聞配達をして生計を立て、やっとの思いで卒業しました。だから、私にはどこか苦労人の屈折のようなものがあるかもしれません(笑)。

ところが今度は、「法学部で学んだからには、司法試験を受けるのだろ。当然、法曹界に進むのだろ」という、周囲の無言の圧力がまた襲ってきたように感じました。加えて、司法試験に通ったら「周りから偉いと思われるだろう」などという、不純な動機もありました。そのせいか、勉強を重ねてはいたのですが、司法試験になかなか受かりませんでした。

実は当時、司法試験の受験を諦めようか、という思いも頭をよぎっていたのです。大学卒業に5年かかり、そしてビルの掃除夫として働きながら司法試験に挑んでいました。東京駅前のビルの1階から8階までの、あらゆるオフィスを黙々と掃除して回り、日曜日には、人のいないオフィスの床をワックスがけする仕事を続けていました。

司法試験は6回続けましたが連戦連敗。かなり疲労が溜まっていたころ、ビルメンテナンスの会社から「正社員にならないか」と誘われました。法曹界は諦めてその会社のお世話になろうかと、気持ちが傾いたときもありました。

きっかけは「徳島ラジオ商殺し事件」

笹森学自信を喪失して、心身ともにフラフラの状態になっていたときに出会ったのが「徳島ラジオ商殺し事件」でした。この事件との邂逅によって、私は目覚め、再生することができたのです。あるとき、東京・神田の一ツ橋ホールで「徳島ラジオ商殺し事件」(1953年)の再審支援集会があることを知って、たまたまですが行ってみました。

冨士茂子さんに懲役13年の刑が確定し服役、1966年に仮釈放されました。その後茂子さんが人事不省の状態に陥ったとき、再審の火を消さないために姉弟が再審を引き継ぐという決起集会でした。忘れもしません、市川房枝さんや瀬戸内寂聴さんが応援演説をしていました。弁護団の弁護士が司会を担当していました。弁護士が、無実の人、弱者のためにそういう仕事をしていることを、このとき初めて実感として知りました。そのときに、新しい世界から光が届いたように感じたのです。

正確にいうと、集会で流されたニュース映像にハッとさせられたのです。そのモノクロの映像には、徳島駅前でたった一人、支援を求めるビラを配っている富士茂子さんが映っていました。そのただひたむきな冨士茂子さんの姿を目の当たりにして、心が大きく動かされました。そして、
「こういう孤立無援の人のために、弁護士として尽力したい」
「弁護士になって、ぜひこういう仕事がしたい」
「こういう仕事をするのなら、司法試験を受ける意味がある」
という思いが、強く心に刻まれたのです。何年も試験に通らず、心が萎えていたときに、この日の出来事は新しいモチベーションになりました。目が醒めました。険しい道ではあるけれど、がんばれるような気がしました。

私はこのときから、「再審弁護人」になりたいと目標を定めました。端的にいうと、徳島ラジオ商殺し事件の再審はまだ終わっていなかったので、司法試験に合格して、その弁護団に入りたいと思ったのです。

冨士茂子さんの家は電器屋さん。その使用人の少年2人が、警察で富士茂子さんに不利な供述を強要された。虚偽の供述をしてしまった。その少年が大人になって、「私は警察で嘘を言わされた。申し訳ないことをした」とカミングアウトしているのに、検察は抵抗している。そんな善悪の構図がはっきりしている事件で、社会は「ひでぇ検事だ」と激怒したのです。

遅咲きだった弁護士デビュー

笹森学そこから数年。9回目の挑戦でやっと司法試験に合格。このときは手応えを感じ自信がありました。現在の司法試験は3回しか受験できない。そのあたりで受験をやめないと人生を棒に振るからという狙いがあったのではないでしょうか。私は人生を棒に振る悪いパターンに片足を突っ込んでいた(笑)。だから、「さあ、合格してやるぞ!」と燃えていました。しかし、再審弁護人を目指すきっかけとなった徳島ラジオ商殺し事件は、既に再審無罪が確定し決着がついていたのですが。

弁護士としてのデビューは30歳のとき。物凄く回り道をしました。徳島ラジオ商殺し事件も終わっていたので、ブル弁(ブルジョワ相手の弁護士=大企業などの顧問弁護士)になって金儲けするのもいいかな、という思いもちらつきましたが(笑)、結局、初志貫徹して刑事弁護の世界へきました。

弁護士になって2年目。1972年に北海道空知地方で起きた女性連続殺人事件の再審請求裁判がありました。その弁護団に入れてもらったのですが、北海道という一地方だけで活動していても支援が拡がらない。全国的に認知されるようにならなければならない。そこで日弁連に支援要請をしましたが、色よい返事がもらえません。これは日弁連にパイプがないからだということで、日弁連「再審部会」に私が派遣されることになりました。
日弁連の人権擁護委員会にある第一部会は「再審部会」といわれ、そこから日弁連が支援する再審事件が決定され弁護団が結成されていきます。袴田事件弁護団の草創期から貢献された田中薫先生もここの委員でした。

札幌弁護士会推薦の人権擁護委員として、私は日弁連の「再審部会」に所属しました。そこには岡部保男先生とか佐藤博史先生とか、とんでもなく優秀な先生たちが揃っていて、いつも激論を交わしていました。あるときはけんか腰で、あるときは非常に理詰めで。私は圧倒されることばかりでしたが、多くを学ぶことができました。空知事件は難しい事件で、日弁連はなかなか支援を決めてくれませんでしたが、「調査中」という扱いにしてくれました。

空知事件のDNA鑑定は、本田克也先生に依頼しました。被害者に残っていた精液をDNA型鑑定し、被告の型と一致するかどうかをみれば、被告が犯人かどうか一目瞭然です。本田先生はこのとき、Y染色体をターゲットとしたDNA鑑定を、公式の鑑定で初めて採用しました。鑑定結果は結局、「体液は再審請求人のものである」、「再審請求人が犯人である」と出ました。この思わぬ結果に私は、ショックのあまり寝込んでしまうことになりました。
無実を主張する被告に「クロ鑑定」を突きつけ、有罪でそれも死刑台へ送り込むことになるわけですから、本田先生は身体が震え、鑑定書の提出を一時躊躇したと言っていました。私たち弁護団の無罪主張を逆なでするような結果が突きつけられたわけです。がしかし、かえって本田先生は依頼元に忖度することのない科学者、公平で信頼のおける法医学者であると確信しました。

スーパースター揃いだった「足利事件」の弁護団

日弁連の「再審部会」には、全国から再審支援要請が届きます。「足利事件」の支援要請も来ました。私が担当者となってよくよく調べると、この事件は菅家利和さんを犯人とするには、合理的に考えて矛盾する点が多い。日弁連として「支援すべきである」という意見書を書いて提出し、日弁連の再審支援事件となりました。その意見書を書いた担当者が支援委員会の委員にもなるのが慣わしで、私は日弁連が支援する足利事件弁護団の委員長を仰せつかったのです。
足利事件の弁護団には、前出の岡部保男先生や佐藤博史先生、そして神山啓史先生など、スーパースター級の弁護士が名を連ね、これだけで勝てるのではないかというほどの顔ぶれでした。

この事件では、被害者の半袖下着に犯人の精液が残っていました。これが、菅家さんのものではないと判明すれば、菅家さんの無実が証明されます。そこで佐藤博史先生は、刑務所に収監されている菅家さんから、髪の毛を封筒に入れて送ってもらい、DNA鑑定を実施していました。この時には下着に付着していた精液との対照ができていませんでした。そこで裁判所に鑑定を申し立て、弁護団として本田克也教授を推薦しました。

筑波大学の本田先生は元々、信州大学の福島弘文教授の下で助手をしていました。このとき福島先生は、科警研批判の急先鋒でした。ですが、何と福島先生は最終的に科警研の所長にまで出世してしまったのです。足利事件での本田先生によるDNA型鑑定は、「被害者の下着に付着していた精液は菅家さんのものではない」との結果でした。
ところが、「本田鑑定は信用できない」という意見書を書いたのが、科警研所長の福島弘文先生でした。何という皮肉でしょうか。本田先生と福島先生の証人尋問は、バチバチと火花が散る師弟対決となり、物凄いバトルが繰り広げられたのを今でも鮮明に覚えています。ただ、もう一人の鑑定人であった大阪医科大学の鈴木廣一教授の鑑定でも本田先生と同じ結果でした。それで検察は、本田鑑定は信用ならないから無視、しかし「鈴木鑑定は信用できる」と主張。鈴木鑑定だけに依拠して、菅家さんへの無罪論告を行ったのです。その理由は、本田先生が科警研の手法であるMCT-118法も追試し、当時の科警研鑑定は誤鑑定であると明言したからでした。

その頃になると、法医学者の先生方とお付き合いできるようになり、実験室を見せていただくなど、かなり勉強させていただきました。仕事の必要上、私は日本DNA多型学会の会員と日本法医学会の会員になりました。学会では、地方で起きている事件の鑑定が多く発表されています。そこは、科警研や科捜研の人たちも会員になっています。最近は弁護士の会員も増えてきましたが、当時は私だけでした。その意味では、先駆けといえるかもしれません。ここで私は、法医学界の諸先生方と知り合いその内情をつぶさに目撃するようになりました。

袴田事件とのかかわり

笹森学袴田事件の第二次再審請求でDNA型鑑定が決まって、鑑定書が出ました。ところが、鑑定人の本田克也先生と弁護団の打ち合わせに齟齬が生じることがありました。今回のDNA型鑑定の手法は先進的な方法で、通常のやり方とは異なる。応用編のようなもので理解が難しい。そこで、DNA型鑑定に詳しい弁護士として、弁護団に派遣されたのが私でした。
袴田事件のDNA型鑑定で使われる試料は、当時でも四十数年前のもので、とても古い。だから、どうしても結果が安定しないことがある。いろいろな解釈が成り立つように見える。それをどう理解していくか、議論百出したものです。

袴田事件のDNA鑑定は、本田克也先生と神奈川歯科大学の山田良広先生が実施しました。2人の鑑定人の結果はともに、「袴田さんのものではない」という結論で一致しました。ところが、山田先生は結果として警察検察に不利益となることにうろたえたのか、公判の最終段階で、鑑定書を取り下げてしまったのです。科学者として悲しいことですが、検察側に不利な鑑定結果を主張することが自分のためにならないと自覚して、自ら引いたとしか考えようがありません。
私だけの経験ではないのですが、法医学者が検察側に不利な鑑定結果を出すとき、科学以外の世界からの横槍に影響される事例を経験することがあります。「最終的にはこういう結論にはなりましたが、ま、異なるご意見もあるのではないかと思います」などと言いだし、自分の鑑定のトーンを下げる、ということが往々にしてあるのです。

そこで本田鑑定ですが、反対の意見書が検察から出てきました。それによると、
「本田鑑定には、日本でこれまで出たことがないような型が出ている。だからこの鑑定は信用できない」
といいます。しかし、弁護団がアメリカの学者に「こういう意見は正しいと思うか」と問い合わせたところ、
「正しいとは思わない。どんな分野でも、初めてのもの、最初のものはむしろ、新しい発見であると取るべき」
という返事でした。

本田先生にはかつて警察から鑑定の依頼が数多くきていました。ですが、足利事件で警察検察側に不利な鑑定を出して以来、依頼が激減してしまったそうです。さらに、検察側のDNA型鑑定は、外部の法医学者に依頼することなく、すべて科警研で行うと統一されたんです。科警研の鑑定は、キットを用いた鑑定しか実施されません。しかし本田先生を始めとして法医学の研究者は、自分の方法で研究もかねて行いますから、いろいろなアイデアを出して考えるわけです。それが科学の発展・進歩の原動力になるのですが、その道が閉ざされ、検察の都合に合わせるお役所仕事に堕してしまっていいのでしょうか。大きな疑問です。

鈴木鑑定に踊らされた東京高裁の棄却決定

第二次再審請求即時抗告審(東京高裁)で行われた鈴木鑑定は、本田鑑定を「検証」する目的で実施されました。そのレシピも裁判所から指示されていました。本田鑑定の再現実験をその指示のもとに行うはずでした。ところが、鈴木先生は裁判所から指示されたことをまったく行っておらず、他の手段で単なる本田先生の粗探しに終始しました。
本田先生の鑑定は、裁判所から血痕だけをターゲットとして鑑定することはできないかという注文に応えた方法をあえて採用しました。採取した(当然不純物が混じっている)試料から血球細胞を集める際に、レクチンの助けを借りる方法(細胞選択抽出法)を使っての抽出実験です。レクチンを使って血球細胞を分離する手法自体は血液型(ABO型)を判定する実験ではデフォルトの方法ですが、DNA型鑑定の準備段階(血球細胞を集める段階)に用いるのは独自の方法と言えます。その方法での有効性を検証することを目的にしたのが、高裁が鈴木先生に課した再現実験だったのです。
ところが、鈴木先生は高裁の指示通りの実験ではなく、裸のDNAにレクチンを直接混ぜ合わせる実験を独自に行いました。そして「レクチンにはDNAを分解する作用がある」「だから本田先生の手法は間違い」という乱暴な結論を出してきました。ためにする批判であり、そのための実験であったのです。そのことは、本田先生と鈴木先生とを同時に呼んでの対質尋問で明らかになったのですが、高裁決定に反映されることはありませんでした。検察の意見を支持し本田先生を否認というか誹謗というかするための意見書が御用法学者から何通も結審時に提出されたこともあって、その印象を否定することができませんでした。東京高裁は、鈴木鑑定に踊らされてしまったということです。

鈴木先生が「検証」をやらないのなら、ということで角替清美弁護士と筑波大学の学生が再現実験を試みたことがあります。最初から最後までビデオ撮影をして、実験は見事にうまくいったのですが、
「こいつらは本田の言いなりでやった」
「本田の指導の下で行った実験は信用できない」
と、検察に屁理屈を言われました。そしてこのことは、高裁決定にも書いてあります。その要旨は次の通りです。
「この再現実験は、弁護団や本田の指導の下で行われたに過ぎないから、改めて実験したことにはならない」
要するに、他の学者が実験して同じ結果が得られればいいのだという。だからもし、即時抗告審で、他の学者の実験結果が添えられていれば、違った結果の可能性もあったのかもしれません。

科警研が以前やっていたMCT-118という手法は当時新規の手法で、科警研しか行うことができなかった。それが繰り返されるようになり、足利事件のような冤罪事件を生みました。そのとき、「そういう方法は、誰もが支持しなければ使ってはいけない」という理論を検察も裁判所も口にすることはありませんでした。新規で独自の手法でも、検察が有罪立証に使う場合はOKで、弁護側がやると「信用できない」と否定されてしまうのはなぜか。裁判所の不公平な扱いの一つの典型と言わざるを得ません。

袴田事件、今後の見通し

笹森学最高裁の担当調査官が科学を理解できるかどうか、そこに今後の袴田事件の再審の可否がかかっているのではないでしょうか。以前は調査官と弁護団の面会が可能でしたが、今は拒否されてしまい実現していません。
現在、DNA鑑定を依頼しています。アイデンティファイラーやキットを使った方法などとともに、その先生独自の手法を並行して行い、本田鑑定実験の有効性を検討するという試みです。まだ半年くらいは時間がかかるかもしれません。本田先生がやった手法は、その汚れたものの中から血液由来のDNAを凝集させて抽出する方法。それが有効であれば、誰も文句を言えません。

袴田事件では静岡地裁の開始決定と東京高裁の棄却決定があります。最高裁が判断し、高裁決定を破棄すれば静岡地裁決定が生き返るわけです。その根拠を得るため、DNA鑑定の検証実験を行っています。新しい根拠がないと逆転しないというのは、多くはその通りですが、同じ材料を見て最高裁が逆転で再審開始決定することもあります。通常審の場合は、最高裁に弁護団と検察が呼ばれ弁論を開くはずです。
しかし、再審請求審は非公開なので、呼ばれることはありません。突然、通知が来ることになります。大崎事件もそうです。知らないうちに決定が出され、いきなり逆転されてしまいました。袴田事件でそんなことになれば、現在釈放されている袴田さんが死刑のために連れ戻されることになってしまいます。いずれにしても、いま弁護団は袴田さんの再審が始まるよう全力を挙げているところです。私たちは、袴田さんの無罪確定に向け、愚直に、淡々と、邁進するのみです。そして、世論の大きな応援は、必ず影響を与えます。ですから、一人でも多くの人に、袴田事件の真実を知っていただきたいと思います。真実は一つです。