工事中
袴田巖さんの再審公判が続いている。私たちは、次々に飛び出す「まさか!」の事実、裁判の実態を目の当たりにしている。メディアの報道がヒートアップしてはいるが、表面的に撫でているだけ。そもそも取材している記者が事件報道にじっくりと取り組む仕組みになってはいない。1年から3年くらいで転勤を繰り返すのだから、腰を落ちつかせての取り組みは土台無理。それで良しとしているメディアとは一体何か。社会問題の報道を娯楽番組にして耳目を集めれば、番組視聴率が取れ、購読者が増えるというのか。
司法を監視する私たち市民が知らなければならないことが、メディアの報道で伝えられることは期待できない。従って、私たち再審無罪を要求している袴田巖さんの支援者がそれを声高に言うしかないのである。
これまで袴田事件とは警察の捜査が行き詰まり、無理やり袴田さんを犯人に仕立てあげた事件とされてきた。他のえん罪事件と同様、捜査当局は自分の無謬性や面子を護るために自白を強要し証拠を隠すだけでなくねつ造までして有罪判決にこだわった。警察・検察を仲間だと錯覚して彼らの後ろ盾となった裁判所は、検察の主張をご丁寧に添削・校正して有罪宣告を繰り返してきた。
警察の見当違いの見込み捜査、加えて違法な「取調べ」で虚偽の「自白調書」が作られ、血痕無き「血染めのパジャマ」が物証として有罪の根拠とされた。そして犯行着衣パジャマ説が立ち行かなくなると、5点の衣類をねつ造してあくまでも巖さん犯人説を強行してきた。そういう事件として扱われてきた。
ところが、そんな認識を根本から覆さなければならない事情が次々と発覚、又は事実の見直しを迫られる実態が明るみに出てきた。それは、弁護団が再審公判で主張している外部犯人説である。ただ、弁護団の立論はそこまで。だが、外部犯人説をつぶさに検討してみる。と、そこからの論理的演繹によって導かれる信じがたい犯罪が浮かび上がる。警察の謀略である。
警察は真犯人を知っていた。真犯人から見逃してくれるよう要請を受け、借りを返さなければならなかった。それが動機。そして真犯人として袴田さんを生贄にした事件が袴田事件である。端的に言うと、警察の謀略事件の替え玉事件としてでっち上げられたのが袴田事件ということだ。
私たちは主張してきた。こがね味噌一家強盗殺人放火事件と袴田事件とは別の事件であると。「一家4人が惨殺された袴田事件」などという表現は不当であり、「袴田事件」とカッコを付けることも、「いわゆる袴田事件」と「いわゆる」を付けることも、そもそも必要もない。それぞれの加害者と被害者とが違うのだ。
こがね味噌一家強盗殺人放火事件の加害者は氏名など不詳の複数人、多分暴力団関係者であろう。被害者は殺された専務一家の4人である。それに対して強盗殺人放火事件の替え玉として仕組まれたのが袴田事件。加害者は真犯人を見逃し隠そうとした警察(検察)であり、被害者は袴田巖さんである。たまたま巖さんに白羽の矢が立てられた。「ヨソ者でボクサー崩れ」という差別意識からだ。
が、実は少しでも犯人らしいイメージが被せられれば誰でも良かったのだ。誰でも良かったという意味では被害者は警察からナメられ凌辱された日本国民一般である。そういう意味で、替え玉事件としての袴田事件の真相が、全面的にではないのが残念ではあるが、白日の下にさらされ告発されるときがやってきたのである。
① まずは、現場で発見された雨合羽である。犯人が身につけて犯行現場に向かい、途中で脱ぎ捨てた物とされていた証拠である。みそ工場で働く従業員に支給されていてみそ工場にあったことから、犯人は従業員であることを指し示しているというわけだ。
ところがである。犯行後、放火されて現場は全焼したのに、中庭に脱ぎ捨てられたはずの雨合羽は焼けていない。焼け落ちた家財や建具、ガラスなどの残骸の上にのっていた。焼けた残骸に接している箇所だけが焦げている。凶器とされたクリ小刀の鞘がポケットから見つかったという警察発表。念の入ったおまけまでついていた。
これをどう見るか?誰かが火災の後そこに置いたとしか考えようがない。それ以外の解釈があるだろうか。置いたのは誰か?消化作業に必死だった従業員や付近の住民なのか?消防士の仕業か?それとも警察の捜査員なのか?賢明な貴方にはお分かりであろう。「ホシは工場に住み込みで働いていた従業員の誰かだ」、焼け残った雨合羽にそう言わせていることは容易に分かる。事件後の現場検証に加えて、味噌工場と社員寮も捜索している。
② そして、裏木戸は通り抜け可能で表のシャッターは施錠されていたという見立て。それを前提に、裏木戸から外に出たところに金の入って小袋が二つ落ちていたという警察の発表である。裏木戸から東海道線の線路を渡って30m行くとみそ工場(社員寮がある)につながる。これも社員寮の住人が犯人だということを暗示している証拠になっている。
発見したのは警察官であった。裏木戸の外には、カンヌキのかかっていた戸を無理に開けて消火作業に入ろうと人が集まっていた。野次馬を含めて、誰も地上に落ちていたはずの金袋に気づいてはいない。二袋といっても強奪されたのは三袋である。ポケットがないので、警察は犯人が両手に持っていたままだったという。そのうち二つを現場から出たところに落とし失くしてしまった。そんな強盗犯がいるだろうか?そもそも被害者宅には相当の金品があり、数個の金の入った小袋は甚吉袋という手提げ袋に収納されていて、甚吉袋は複数個あったのだ。そのうちの小袋三個を甚吉袋から出して、取るに足らない金額を持ち去ろうとするなどというのは、およそ強盗の仕業ではない。慌てていたからだと言われるが、隣家にも気づかれていない状況で、何も慌てる必要はなかった。
実際には、裏木戸はカンヌキで施錠されており、表のシャッターは鍵がかかっていなかったのだ。また、発見したとされた捜査官は自分が発見したわけではなく、「お前が発見したことにして報告書を書いておけ」という上司の指示に従っただけと、後日告白している。弁護団はこの発見者である捜査官を証人として呼び出すよう何度も裁判所に要求したが、「その必要はない」とはねつけられ続けてきた。
以上のことは、警察の捜査は証拠のねつ造から取り掛かったことを示している。初動の段階から巖さんを犯人に仕立てあげようと小細工を始めていたのだ。その悪事を如実に教えてくれる事例なのである。
③ 家族4人が殺された状況である。とても単独犯とは考えられない手口であった。4人が次々にメッタ突きに刺された。そして焼かれた。殺人というより、処刑(リンチ)というべき殺され方であり、「猟奇的殺人」(清水警察署長の弁)という奇怪な手口であった。この様子については稿を改めて【No.2】で記述する。
ところが、密接していた隣家では助けを呼ぶ声や叫び声など、物音ひとつ聞いていないのだ。火災が延焼して初めて異変に気が付いたのである。巖さん一人でこんなことが実行できるはずもない。暴力で他人を殺傷するプロ集団が用意周到に計画し、完全犯罪を狙ったとしか考えようがない。
これは「袴田事件」ではない。「味噌会社専務宅強盗殺人放火事件」である。
犯行があった6月30日の翌日か翌々日のこと。巖さんと親しくしていたWさん宅に刑事が来て、「犯人は袴田巖に違いない。お宅に顔写真が有ったら提出してくれ」と言って、巖さんの写真をアルバムから剝ぎ取って持ち去ったというのだ。Wさんは当時のことを覚えていて、その不可解を繰り返し証言している。犯行の翌日には、巖さんを犯人と決めつけていたのだ。
7月4日の社員寮捜索で、巖さんの部屋の押し入れにあったパジャマを任意提出で持ち去った。そして大量の血痕が付いていたとマスコミ記者に情報提供した。これは、汚いトリックであり後々まで尾を引くことになる。トリックというのは、こういうことだ。実際にはパジャマには返り血もついていないし、放火に使ったとされる油もついてはいなかった。後日発表された科警研の鑑定では、そういう結論である。だが、警察の悪知恵は「大量の血と油が付いたパジャマ」というデマをまことしやかに語ることに積極的価値を見出したのである。
まず、マスコミ記者たちを騙した。記者もその情報を鵜呑みにした。誇大に宣伝するかのような「血染めのシャツ発見」という大見出しを立てた新聞もあった。明らかな誤報である。この大々的な誤報で、読者ばかりかたいていの人は騙された。袴田さんが犯人と断定され、凶悪犯と決めつけられてしまった。
記者が簡単に考えてみればそのトリックに気が付いたはずだ。現認しなければ記事を書けないと言って、パジャマの現物を見せてくれと要求すればよかったのだ。何故なら、それは決定的に重要な証拠になるだろうが、疑問だらけなことに直ぐ気が付くからだ。
考えてみていただきたい。大量の血と油が付いていたならば、任意提出ではなく強制的に差押えたはず。またその場で、巖さんは逮捕していなければならないはず。そもそも、巖さんが犯人であるならば、血染めのパジャマを押し入れに入れたまま着用、または保管しておくはずがないだろう。まともなジャーナリストが少し踏み込めば、警察が何を企んでいるかということに神経を集中させ、警察情報の垂れ流しが誤報になる可能性を懸念せざるを得ないはずである。
全く問題意識がなく、警察に迎合して点数稼ぎするしか能がない報道は、警察の共犯となって巖さんに襲いかかっていくことになる。警察の謀略の共犯である。報道の中立の看板は見えない。マスコミ報道は本来権力を監視するのが使命であるが、実際には権力の手先に成り下がっている。もし、マスコミ報道が客観的で冷静であれば、おそらく袴田事件はなかった。検察は起訴すらできなかったであろう。マスコミをまんまと騙した警察は高笑いである。
その背景には当時の警察と暴力団との抜き差しならぬ癒着があった。労働争議が起これば、まず暴力団が出動して抑圧する。それ以外にも警察は民間の暴力を利用していたのである。その恩義を返さなければならない。犯罪を大目に見たり、時には隠蔽してやる。小説や映画のテーマにもなっている歴史に刻まれた罪であり恥辱である。
常識的に事件捜査の方向性を検討すれば、暴力団関係者に当たるのが順当である。実行者たちは、高跳びといってどこかへ姿をくらます。事件後、高跳びした鉄砲玉を捜すことから始めるのが常套手段。そこに捜査の手を伸ばしたのであろうか?その記録は?
おそらくは真犯人に頼まれて断れなかった。普段の恩返しか恩を売ったのかは不明だが、双方の了解があったであろう。しかし、そんなことは絶対に隠し通さねばならない。工場の従業員に罪を被せ、何が何でも通そうと必死であったに違いない。巖さんの受難はここから始まったのだ。
事件の初動捜査から都合の悪い証拠を隠蔽するとともにねつ造証拠をばら撒いた。新聞は警察の手先となって誤報虚報を繰り返した。捜査当局は従業員などからの証言を偽造するなど、新聞の誤報を利用して正義を演じとおした。5点の犯行着衣は、犯行着衣パジャマ説がもはや通用しなくなりそうだった段階で登場させた窮余の一策であった。他には有罪証拠はなかった。「捜査当局がそんなことをするはずがない」という神話を裁判官は絶対に信じてくれる。マスコミも信じるだろうし、また国民も疑いを持つことはなかろうという確信に支えられての強行であったと思われる。事実、大半の裁判官は騙され、報道は「科学的操作の勝利」などとほめ讃えたのであった。通常審の地裁・高裁・最高裁までウソが通用した。そして第一次再審請求審も警察のペースが崩れることはなかった。
ところが、悪事は1966年から48年間大手を振るってきたが、千里を走った悪事はついに命運が尽きた。2014年3月末の第二次再審請求審の静岡地裁決定が立ちはだかった。「有罪証拠はねつ造されたもので、それをやったのは捜査当局以外に考えられない」と指摘、警察の犯罪はここまでの運命だった。ついに真実の一端が明らかにされたのである。
巖さんが犯人ではないということが裁判官によって宣告された。再審請求が認められたということだけでなく、拘置と死刑執行の停止をも決定、巖さんは即日解放されたのであった。地裁の再審開始決定は内容的には無罪判決である。48年の長きに渡った監獄生活、逃れようがない独房で死刑執行の絶望的恐怖から生還した。
今現在、再審公判が始まり審理中である。検察は古びて使い物にならない「巖さん犯人説」を、新しい可能性論という服に着替えさせることによって復活させようとしている。それもこの上ない執拗さで。それは何故か?こがね味噌強盗殺人事件の出自に原因がある。国家権力にとってどうやっても国民の目から隠し通さねばならない「権力の謀略」であったということである。国民の生命と暮らし、平和な秩序を守るための警察組織が、それと正反対の悪魔と化したことが分かれば、民主国家の根幹を揺るがす。その責任を取らなければならなくなるからだ。
袴田事件の本質は、こがね味噌強盗殺人放火事件の替え玉事件であり、警察の謀略だったという点にある。警察追外には捜査権もなければ事実を解明する手段もない。真犯人を探そうにも半世紀も前の事件であり関係者の殆どが鬼籍に入っているし、時効にもなっていることだ。だが、事実を見る目と常識的な想像力があれば、誰もがこの結論に達するであろう。
他にも根拠となる証拠はあるが、上記で列挙した事項で必要にして十分な告発となると思われる。論を補強してくださる方がいらっしゃれば、ぜひお願いしたい。
(2024年1月 文責:猪野)
2024年がやって参りました。
昨年お世話になった皆様に心の底から感謝申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
また、能登半島地震などによって被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。新年早々辛いニュースが続きますが、これから皆様にとって幸福がたくさん訪れますよう、お祈り申し上げます。
今年はきっと、巖さんが真の自由を取り戻し、ひで子さん、また弁護団の先生方、支援者の方々などに素晴らしい幸福が訪れることでしょう!
私も微力ではありますが、無事に無罪判決が下されるまで、気を抜かずがんばっていきます。
2023年は、後半の数ヶ月だけなのだが、袴田事件に関わったことでとても濃密な年だったような気がする。3月まではまだ大学生だったことが遥か昔のことのようだ。まずは2023年を振り返ってみる。
今からちょうど一年前、私は京都の下宿先で一人、大学の卒論を出し終えて卒業を待つだけの無為な日々を過ごしていた。
大学生活はそれなりに楽しかった。
しかし、卒業したとてやることもない。就職が決まった友人は引っ越しやら手続きやらに走り回り、私はカーテンを閉めた部屋で一人。誰かと話すことも笑うこともなく、友達は本と酒だけ。
秋頃まではそれなりに就活もしていたのだが、どうにもこうにも上手くいかず…そんな中で、もともと患っていたうつ病が次第に悪化、気付けば心は粉砕骨折していた。
この頃はスマホもほとんど見なかったので、袴田事件再審決定のニュースも知らなかったか、もしくはさほど気に留めてはいなかった。
4月、清水の実家に帰ってきた。
数ヶ月間は精神的にかなり不安定で、ほとんどベッドから出なかったと思う。あまり記憶はない。
ほとんど引きこもっていたが、図書館だけには通った。大好きな小説もたくさん読んだが、同時に、事件系のルポルタージュ本や、裁判や刑法など、司法関連の本も手当たり次第によく読んでいた。
私はもともと事件などに興味があって、ただ面白そうな本を趣味として読んでいただけにすぎない。法学部出身でもないし、勉強をしていたわけでもない。だから司法などについては完全な素人だし、今も基本的には怠惰でいろいろと意識の低い人間だ。
8月か9月頃だったか、袴田事件再審の初公判期日が決まりつつある頃の新聞記事を見て、「そうか、静岡地裁でやるのか」と思った。そんなことすらわかっていなかった。
見た瞬間に行くことを決めた。歴史に残る重大な再審に、どうせ暇な私が、行かない理由もなかった。その足で図書館に行き、関連の本をあるだけ全部借りてきた。いくつか書籍を読み、こんなに酷いことがあるのか…と衝撃を受けた。袴田事件の全貌を知れば、こんなの最初からすべてがおかしいと誰でもわかるではないか…?
私は本当に何も知らなかったのだ。
袴田事件も含む過去の冤罪事件は、「ミス」や「間違い」だと思っていた。「捏造」や「隠蔽」によって無実の人を「意図的に」陥れる、そんな荒唐無稽なことが現代の日本にあるなんて、想像すらできなかった。
袴田事件の無罪判決をこの目で見届けなければいけない、何だかそう感じた。清水の人間として、事件を知らなければいけない、風化させたくない、という勝手な使命感のようなものも抱いていた。
そして迎えた2023年10月27日、袴田事件再審初公判。午前8時半頃の静岡地裁前は支援者に報道陣に大賑わい。静岡地裁前で横断幕や旗を掲げる、各地から集まった大勢の支援者。初めて生で拝見したひで子さん。闘う人々は皆若々しく、くらりとするほどの熱気を感じた。
傍聴券は外れ、さてこれからどうしようかときょろきょろしていたところ、支援者の方に声をかけていただいた。そこから他の支援者の方ともお話しさせていただき、記者会見までしれっと居座っていたのだった。
あの日の何とも形容しがたい熱狂はまだ忘れられない。私も何かしたい!という思いが溢れた。
しかし、私は正直、支援者という立場に立つことには迷いがあった。支援者の熱さに恐怖すら感じてしまったのもあるし、そもそもこのような支援団体=過激というようなイメージもあった。
まあ、ある意味ではそれは正しい。社会を動かすのはいつだって非常識で型破りな人間なのだ。この再審だって、そんな方々がいなければ実現していなかった。しかし、基本的には皆穏やかで知的で魅力的な方々であり、今まで大変よくしていただいている。私は支援者の皆様のことを心から敬愛している。
今私は、「支援者」を名乗れるのかどうかはわからない。それは単に自分の未熟さ故である。すでに再審が始まっている今、物凄い支援者の方々が揃っている中で、私にできることなどあまりない。何かしたい。でも何をするべきか。私に何ができるか。そんな思いは、ずっと頭の中をぐるぐるしている。でも、とりあえず使えそうな私の武器は3つはあるかな、と考えた。
支援者の方々の平均年齢は高めで、23歳の私はいつもポツンと浮いている感じになる。若いというだけで広告塔になるのなら、好きに使っていただいて構わないと思っている。また、やはりジェネレーションギャップを感じることは多い。しかしそれはお互い様なので、なるべく持ちつ持たれつになればと、かなり生意気に発言させていただいている。
また、支援者の方々ではスマホやパソコンを使える方も少ない。やはりここは若者として、インターネットはどんどん活用していきたいと思っている。
私は、清水の事件現場からそう遠くない場所で、事件を知らないまま暮らしてきた。
初公判のときに、「清水出身”なのに”すごいね」と声をかけられて、首をかしげたことがある。私は「清水出身”だから”来た」つもりだったのだ。しかし、清水に住みながら、袴田さんが釈放されたというニュースを先入観なく眺めることができていた私は、とても恵まれていたのだと後々気付いた。清水、特に事件現場付近では、今も風当たりは厳しいらしい。
実際に、事件当時から清水在住で、未だに袴田さんが犯人だと思っている方とお話ししたことがある。私には、まだこんなことを言っている人が存在する、ということ自体が信じられなかった。悔しくて、精一杯”弁護”したが、話はずっと平行線。なんだか泣きたくなった。
当時を知っていれば無理もないことなのかもしれない。しかし、清水の人だからこそ、この事件から目を背けてはいけないのではないか?それでいいのか、清水人。私はそう思う。
まあ、武器かはわからないのだが、少なくとも文章を書くことは好きである。昔から本を読むことと文章を書くことが好きで、小さいときから夢はずっと作家だった。大学時代は文芸サークルで小説の執筆に取り組んでいた。このサークルの仲間の存在が、まだもう少し夢を見ていてもいいかな…と思わせてくれている。
そういえば、昨年の夏に書いた小説で、有難いことに静岡市主催の文芸賞の大賞をいただけた。これも自信に繋がる。
今もこうして袴田事件に関して文章を書くことが楽しい。私の言葉が誰かの役に立てているなら嬉しい。もっと勉強し、深く考え、言葉で社会を動かしてみたい、それが私の野望だ。
そして、ブログ「清水っ娘、袴田事件を追う」を立ち上げることにした。最初は単純に、私の目線から見たこの再審を、文章として記録しておきたいと思ったのだ。ついでに世の中に向けても発信していきたい。
袴田事件に興味がある方々はもちろんだが、私はやはり「恵まれた」若い世代を引き込んでいきたい。「Z世代」などと言われる私たちは、もう「袴田事件=冤罪事件」のイメージの中で生きている。あとは知るだけだ。
しかし、全く興味のない人を引き込むのはなかなか難しい。私の発信を見てくださっている方は、おそらくもともと袴田事件に興味を持っている人ばかりだろう。何か新しい策を講じなければ、とは思っている…。
公判や集会に顔を出し、ブログを書き、手作りの名刺もどきを配り、などしているうちに、すっかり支援者の一員のようになってしまった。大変有難いことに、支援者の方々からブログの記事を褒めていただくことも多い。浜松にも行き、袴田家にお邪魔させていただき、先月は巖さんとお友達にもなれた。支援者の方々に少しずつ認めていただけているのかな…?と勝手に思っている。
こうして活動することは、言葉を選ばずに言えば、ただ「楽しい」「面白い」。様々な分野について勉強になるし、日々充実していると感じる。袴田事件に飛び込んだことは、私の人生にとって本当に貴重な経験になると思う。
しかし、私が今こうして活動できているのは、ひとえに巖さん・ひで子さんや、弁護団や支援者の方々などの血の滲むような努力の結果である。いつ何時も、皆様の長年の努力への敬意だけは忘れない。新参者の私が、うまい汁を吸うことは絶対に許されない。それを踏まえたうえで、無罪判決が出るまで、私自身も全力で走り抜こうと思っている。
さて、2024年の抱負を述べておく。私は今年で24歳になる。将来も見据えていかなければいけない年齢でもあり、まだやりたいことを無鉄砲にやってみたい年齢でもある。年女という節目の年でもあり、大きく飛躍できる一年にしたいと思っている。
①無罪判決を勝ち取った時、みんなで祝杯を挙げる!!!
弁護団長の西嶋先生は大のお酒好きとか。弁護団や支援者の中にも嗜む方がいらっしゃると思います。酒の中でも祝い酒というやつが一番おいしい。だから、無罪判決が出たらみんなで祝杯を上げたいな。それが私の今年叶えたい夢だ!
②貪欲に、がむしゃらに。
様々なことにチャレンジし、好奇心旺盛に走り回り、たくさん学び、今年はもっとアクティブに頑張っていきたい。もちろんがむしゃらだけではだめなので、戦略も立てつつ、主体的に行動していこうと思う。
裁判が落ち着いたら、袴田事件についてもっと知りたいとも思っている。私が知らない間に、誰がどのように動いて、再審開始、そして後の無罪判決まで導いたのか。私は単純にそれが知りたい。関わってきた人の人生が知りたい。
また、この活動の中で、書くことを仕事にしたいという気持ちがだんだん強くなってきた。実力はもちろん必要だが、使えるものは使う、行けるところは行く、できることはやる、どこに落ちているかわからないチャンスを掴み取りたい。私の座右の銘は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。改めて肝に銘じ、たくさん成長できる年にしたい。
③太く、長く続ける。
活動を始めてからここが一番の課題。できるだけたくさん、そして継続的に活動を頑張りたい。
私はADHDを持っている。もちろんそのせいだけではないが、オン/オフの切り替えやタスクの管理、情報整理なんかがとても苦手だ。おまけにうつ病もパニック障害もあって、心身ともにまあ常に不調といえば不調である。一度集中してしまうとそこからずっと追われている気分になったかと思えば、ぷつっと一週間以上電池が切れたようになったりする。
投薬でもある程度マシにはなるが限界もあるので、自分の中でルールを明確に決めて、生活の基盤を整えていく必要がある。無罪判決まででも、まだまだ長い闘いだ。それに、そろそろ甘えていられる歳ではないこともわかっている。一生付き合っていかなければならない障害なので、結局は自分で何とかするしかない。今年こそ頑張ろう!
④人生を楽しむ!
とはいえ、やっぱり楽しく生きたい!いろいろ挑戦したい。冒険したい。好きなことをとことんやってみたい。ギリギリ若気の至りで許されるうちに、ある程度恥も外聞も捨てて、やりたいことは全部やってみたい。そんな一年にしたい。
そんなわけで、2024年、張り切って参ります。無罪判決まであと少し、頑張っていきましょう。今年もよろしくお願いいたします。
今月7日、我らが西嶋弁護団長が逝去されました。享年82才でした。
突然の訃報に驚きを禁じえません。
袴田さんの再審無罪に辿り着こうとしている矢先のこと、残念で残念でなりません。
私はずっと、先生の古武士を思わせる立ち居振る舞いを見上げてまいりました。
先生の凛とした面影を胸に、志半ばの袴田さんの雪冤、再審無罪に向けて微力をくすことが先生の遺志を受け継ぐことだと心に刻みます。
先生は、1990年から袴田事件弁護団に加わり、2004年には弁護団長に就任。大所帯の弁護団を率いてこられました。2014年3月には再審開始決定を勝ち取り、死刑の執行停止と拘置所からの解放という成果を出しました。その後東京高裁では再審開始決定が棄却されましたが、最高裁では5人の判事のうち2名は再審開始決定を支持。が、3人の判事が高裁への差し戻しを主張したので舞台は高裁へ。高裁での決定は再び再審開始となり、検察が抗告を断念したことで、現在静岡地裁で再審公判が始まっています。西嶋先生のリーダーシップによって、再審無罪の扉がこじ開けられる最後の段階まで船は進んできたのです。
先生は1941年九州福岡市にて生を受け、中央大学法学部を卒業されて1965年に弁護士登録。労働事件での弁護活動を目指して活動を開始されました。事務所の先輩上田誠吉弁護士に誘われて八海事件にも携わり、それをきっかけに刑事弁護の世界に舟を漕ぎ出されのです。大事件を次々に手掛けてこられました。仁保事件、そして江津事件からは再審事件にも関わるようになりました。徳島ラジオ商事件、丸正事件、島田事件と続けられ、そして袴田事件弁護団に加わられたのです。
同時に、日弁連の役員として死刑廃止や刑務所拘置所での待遇改善、そして再審法改正のための活動にも参画なさってきました。
その辺りの経験は、このホームページの『袴田事件弁護団列伝 冤罪事件弁護の泰斗、西嶋勝彦』を参照してください。
同僚や部下として共に仕事をしてきた方々から先生の仕事ぶりと魅力を伺ってきました。みなさん、口を揃えて仰るのは「仕事の割り振りや指示がテキパキしていて怖いほどでした。でも一緒に仕事をするのがとても楽しかった」という趣旨のことばかりです。先生の一貫した弁護活動へのたぎる情熱の然らしめるところで、それが人間西嶋勝彦の真骨頂とお見受けいたしました。
「おくれた戦中派人間」と自己紹介なさいます。酒をこよなく愛され、俳句に親しまれた風流人でもありました。新年に頂いた年賀状に記されていた句を一首
小春日に駿河路通い車椅子
西嶋先生、弁護団と私たち支援者の雪冤闘争を最後まで見守り続けてください。
(文責:猪野)
2023年11月20日(月)、静岡地裁にて、袴田事件再審第3回公判が開かれた。
前回はあいにくの雨だったが、この日は見事に快晴。
支援者たちも意気揚々である。
◎9:45 当選番号発表
見事当選!
今回は27席に対して108人が並んだということで、倍率はぴったり4倍。なかなかの強運である。
今回は検察側からの「5点の衣類」についての立証ということで、どんな論理を展開してくるのか、鼻で笑ってやろうと楽しみにしていたのだが……、ほとんどうまくついていけなかった。
いや、理解ができなかったわけではない。一応事件の知識はそれなりにはあるので、一つ一つが明らかにおかしいことはわかる。
しかし、検察官に堂々とした態度で捲し立てられると、何だか全体としての一貫性や説得力を感じて、“検察がそんなことをするはずがない”という言い分をすっと納得してしまいそうになるのである。
だんだん検察側のペースに乗せられ、反論する気力すら奪われ、何だかパラレルワールドに迷い込んでしまったかのように、どんどん気が狂っていく。
しかも、法廷内はずっと蒸し風呂のような暑さ。閉廷まで耐えただけでも自分を褒めたい。
今メモを読めばいろいろと指摘できるのだが、法廷内では何が何だかわからなかった。これはあの場にいた人にしかわからない感覚だと思う。
これが検察の底力なのだろうか。
これを毎日取調室で続けられたら自白してしまうなと思った。
重要なのは内容ではなく、検察官という威厳だけで充分なのかもしれない。
こうやって冤罪が作られていくのかもしれないな…とぼんやりとした頭でずっと考えていた。
それではここから傍聴記です。
【袴田事件再審第3回公判傍聴記】
◎11:00 開廷
検察官は前回同様、神経質そうなメガネの男性、目がぎょろっとしたメガネの男性、若い華奢な女性の3人。
弁護団はおそらく13人とひで子さん。
◎検察側冒頭陳述
神経質そうなほうのメガネの男性検事が、淡々と文面を読み上げていく。
今回の主張は「みそ工場の1号タンクから(事件から1年2カ月後に)見つかった5点の衣類は、被告人が犯行時に着用し、犯行後にみそタンクに隠したものである」ということ。
1年2カ月間もの間発見されなかった理由は、タンク内は薄暗く、ビニールシートが被せてあったために「誰も気付き得ない」上に、また工場側からの強い要請によって「みその中までは調べていない」、ということである。
そして今回の主張の概要は、
(1)5点の衣類が犯行着衣である
(2)5点の衣類は被告人のものである
(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた
(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した
(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能
の5点。1点ずつ説明が行われる。
(1)5点の衣類が犯行着衣である
検察側の主張は、
①血の付き方や破れ方が自然
②血液型が被害者と合っている(一番抵抗されたであろう専務の血液型であるA型が多くついている~など)
だけ……!?
ここが一番重要な部分だと思うのだが、驚くほどあっさりと終わった。
(2)5点の衣類は被告人のものである
①袴田さんの衣類に酷似している
衣類を1点ずつ取り上げて、従業員らが証言する特徴との比較や、製造元や販売店など購入ルートなどを長々と説明していた。
「酷似している」からといって、「袴田さんのものである」証拠には全くならないのに。
②袴田さんの実家から共布(ズボンの裾を切り取った布)が見つかった
袴田さんの母・袴田ともさんの証言が都合よく使われている印象。
警察が共布を見せたとき、ともさんは「巖のものだと思う」と説明している。
その後の取調べでは、ともさんは「こがね味噌から送られてきた荷物の中に布が入っていた」「引き出しにしまっておいた」「共布だと言われれば、そのようにも見える」などと供述した。
しかし確定審では、ともさんが「はっきり覚えていない」と証言したことを、嘘をついているかのように説明した。
見覚えのない共布が、いきなり家の中で見つかったと言われた母親の供述は、はたしてどれほど信用性があると言えるのだろうか。
そもそも、共布が本当に実家にあったとしても、ズボンが袴田さんのものである証拠がない以上は、この共布も袴田さんと結びつかないのであるが。
③緑色パンツは袴田さんの母親が買ったものである
見つかった緑色パンツは「ムーンライト」という商品名のものである可能性が高く、母親の袴田ともさんは、緑色のパンツを地元の衣料品店「清水屋」で購入して巖さんに送ったことがあり、「清水屋」は「ムーンライト」を扱っていたため、つまりこれは「ムーンライト」である可能性が高い……とのこと。
「ムーンライト」と「可能性」という単語ばかりが耳につく。直接的な証拠はなし。
④事件後に誰もこの衣類を見ていない
実は緑色パンツは、事件後に実家に送られてきた衣類の中に入っていて、次兄が弁護士を通じて差し入れしようとしたところ断られ、次兄の家で保管されていたのである。
それは確定審で証拠として提出されたのだが、「信用性がない」と切り捨てた。
5点の衣類の一つとして緑色のパンツが報道に出たとき、次兄と母親、姉のひで子さんらはこれはねつ造だ、と喜んだらしいが、未だに嘘だと言われているのである。
また他の5点の衣類は証拠として提出されていないことや、従業員が事件後にこれらの衣類を見ていないという証言も理由として挙げられた。
◎12:05~13:10 休廷
(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた
「シャツの右肩に血痕と穴がある」こと、「袴田さんが右肩を怪我していた」ことからも、被告人が犯行時に着ていたと言えるとのこと。
〈争点〉として、上に着ていたシャツの穴は一つで下に着ていた半袖シャツの穴は二つである点や、穴の位置が合っていないと弁護側が主張している点を挙げた。
そして〈留意点〉として、様々な場合があるから不自然ではない、むしろ弁護人は物事を単純化している、と切り捨てる。
また、元々犯行着衣とされていたパジャマの右肩にも穴と血液反応があるという〈争点〉に対しての〈留意点〉で、被告人が怪我の位置に合わせてわざと穴を開けた可能性もある、だとか。
え、それは暴論すぎないか?
あとあの、最初から「争点と留意点」のコーナーあったんですけど、「留意点」って何なんですかね?
(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した
事件後に5点の衣類をみそ工場内で隠す必要性に迫られたとき、袴田さんが自分の作業スペースであったみそタンク内に隠すことは「自然な発想」だと言うのである。
え!?いつかは絶対に見つかるみそタンク内に隠すのが自然な発想!?
しかも近くにはボイラー室があったのに……?
そしてまた争点と留意点のコーナー。
事件当時の1号タンクのみその量について、弁護側は80kgと言うが、実際は160kgか200kg、少なくとも衣類を隠すのが可能なほどはあったという。
このタンクには、8トン以上のみそが入るので、80kgも200kgも誤差みたいなものだと思うのだが。
また事件後の7月4日の警察の捜索で発見されていたはずだという点は、隠された時期が7月4日から仕込みが行われた7月20日までである可能性もあることや、捜索の際に工場側からみその中は捜索しないでほしい、上から見るだけでいい、と強く要請されたことを挙げる。
(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能
やはりここに一番力が入っていてボリュームたっぷり。
ある程度納得はできる言い分ではあるが、綺麗に言葉だけを並べていて、薄っぺらい……という印象。
ほとんどが「もしねつ造なのだとしたら」という仮定のもとに話されている。
偏見かもしれないが、「したかどうか」に対して「仮にしたとすれば~」と答える人はだいたい嘘つきなイメージ。あと「わざわざそんなことする理由がない」って言う人もだいたい嘘つき。
※あくまで偏見です。
まず、弁護側のDNA鑑定は信用できないこと、衣類の血痕に赤みは残り得ること、弁護側のねつ造だという主張には根拠がないことを挙げて、ねつ造疑惑は真っ向から否定。
ねつ造が非現実的で実行不可能である主張は以下の7点(!)。
①袴田さんのものに似ている衣類を用意するのは難しい
用意するには事前に従業員に詳しく特徴を聞く必要があるし、同じ特徴で使用感のあるものを用意するのは難しい。また、ねつ造するなら元の衣類を処分する必要があるが、それも難しい。
②販売ルートに矛盾がない
ねつ造だとすれば販売ルートや製造時期などに必ず矛盾が出るのにもかかわらず、警察が詳しく捜査をしている。
③警察がみそ工場に隠すのは難しい
みそ工場に侵入するのも工場側に協力してもらうのも非現実的だし、隠せるタイミングは2週間にも満たない期間で、その間にこれほどの準備をするのは難しい。
④ねつ造だとすれば、共布に関する母親・袴田ともさんの証言は警察にとって都合が良すぎる(?)
この理論はよくわからなかったのだが……。
死人に口なし状態でともさんの発言の揚げ足をとって、娘であるひで子さんの前でよく言えるな、と心が痛んだ。
⑤わざわざ5点もの衣類を用意する必要がないし、ねつ造ならもっと上手くするはず
5点も用意すれば矛盾が多くなる危険性があるし、弁護側が指摘する血痕などの偏りは意図的に作る理由がなく、むしろ犯行着衣であることの証拠になる。
これは確かに一理ある。ねつ造にしてはいろいろと下手すぎるからだ。
しかしこれが確定審で採用されて、死刑判決が下されたのが現実なのである。
⑥5点の衣類が犯行着衣であることは、自白(犯行着衣はパジャマ)と矛盾しているから、当時の検察の考えに反する
5点の衣類が発見された1967年8月時点の裁判では、ねつ造をしなければいけないほど検察側は追い込まれていなかったし、むしろねつ造によって自白の信用性が失われる危険性があるので、ねつ造する理由がない。
⑦ねつ造はリスクが高すぎて非現実的
袴田さんのものに似た衣類を探し、血痕や損傷をつけ、みそタンクに隠し、実家に共布があったように偽装する、といった一連の行為は大規模すぎて非現実的だし、判明すれば検察・警察の信用が失われるため、リスクが高すぎて考えられない。
以上で冒頭陳述は終了。
凄い。根拠も何もないほとんどただの意見を、こんなにもだらだらと法廷で話せる勇気に尊敬。
この時点ですでに14:20。しかし実際の時間以上に長く感じた……。
◎検察側立証
(1)5点の衣類が犯行着衣である
若い女性検事の登場。嫌々やっているのかなと同情していたのだが、まるでNHKのアナウンサーのような堂々とした話し方。
当時のみそタンクや工場内の画像、工場内の見取り図、調書などを出しながら、当時の捜索状況などについて丁寧に説明していく。衣類の血痕の付着状況についても画像を出して説明。
◎14:50~15:20 休廷
(2)5点の衣類は被告人のものである
ぎょろっとした目のメガネの男性検事が登場。見た目とは裏腹に声は優しげ。
袴田さんの衣類に“酷似”していることを、当時の証言を大量に読み上げて説明していく。
袴田さん自身は「似たようなものを持っている」「自分のものかどうかまではわからない」「自分のものならクリーニング屋が名前を入れている」などと証言している。
しかしクリーニング屋は、「袴田さんが持ってきた記憶はない」「名前を入れたことはない」と証言している。
その後、従業員の「似たような衣類を見たことがある」「袴田のものに間違いない」「事件後は見ていない」というような、ほとんど同じ証言が何十人分か続く……もういいって!
だから、「酷似している」=「袴田さんのもの」にはならないでしょ?
だいたい、なんで他人の服の小さい特徴まで覚えてるの?
なんで他人のパンツを見て「間違いない」って言えるわけ?
次に、購入ルートの捜査、家宅捜索の流れなどの、警察の調書を読み上げていく。
あの、検察が警察の作った調書を証拠として使うのって何の意味もないのでは?
そして袴田さんがズボンを穿けなかった点について、糸密度だとか収縮率だとか説明している中で、しれっと、ズボンのタグの「B」の表示は「生地の色」、「Y」は「痩せている人用のサイズ」を示すと言った。
あれ?ずっと「B」は肥満体用のサイズだと主張していたのではなかったのか……?
また、確定審での次兄への証人尋問を読み上げ、質問に対して黙ってしまった部分を「次兄、沈黙」と何度も繰り返して強調。
何だか、そんないじめみたいなことして楽しいんですかね。
(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた
また女性検事の出番。
袴田さんの右肩の怪我と、衣類の右肩の穴の位置について調書や画像で説明していく。
その中で、またしてもしれっと、検察が行ったみそ漬け実験の結果、茶色く染まった布の写真が出されて、軽く流して一瞬で消された。
あれ、幻……?布の色の話には触れられることはなかった。
17:00 閉廷
ここで17時になり裁判官により閉廷が促される。
小川先生がすっと立ち上がって、「衣類の色について触れていないが、また改めて触れるのか」と質問する。先生も疲弊されていたのか、いつになくきつい口調。
検察官は若干しどろもどろになりながら、年明けには触れるとして、17時すぎに閉廷。
お疲れさまでした、私含め皆様。
……本当に疲れた。体力も気力もすべて持っていかれてしまった。
ひで子さんが第2回公判を「裁判らしい裁判」と評した意味が分かった気がする。あそこには、何か明らかに異常な空気があった。
さすがは検察である。
堂々とした口調には、いくら矛盾点があろうと受け入れてしまうような圧倒的な威圧感があった。そして都合の良い部分はうんざりするほど長く話すのに、都合の悪い部分は一応触れはするが一瞬で終わらせる高等テクニック。
検察は悪を裁くヒーローである一方で、天才的な冤罪職人にもなれるのだ。
◎17:20頃~弁護団記者会見
最初にひで子さんが、「母親は嘘を言うような人間じゃない」「母も兄も頑張ったから、今の再審開始がある」と述べ、「これじゃ冤罪はなくならない」と悔しさを滲ませていたのが印象的だった。
検察側が立証に力を入れるのは構わないのだが、すでにこの世にいないご家族を都合よく利用するのは、あまりにも残忍だと思ってしまう。
小川弁護士は、検察側の主張は弱いところばかりだと指摘し、「枯れ木も山の賑わい」と表現した。特に5点の衣類が犯行着衣であるという立証の薄さや、衣類の色についての説明不足があり、ある意味で安心と述べられた。
西嶋弁護団長は、「警察がそんなひどいことはしないなんて、よく白々しく言えたものだ」と呆れる。
県民として恥ずかしいことだが、静岡県がいかに冤罪大国であるかは周知の事実である。
今後の弁護団の方針としては、5点の衣類一つ一つやその他矛盾点などを丁寧に突いて、ねつ造以外にあり得ない、という方向を目指すようだ。今回の検察の主張は弱い部分が多く、「十分に反論できる」とのことである。
◎18:30頃、記者会見終了。
今回の検察側の主張を受けて、弁護団がどのように反論していくかが楽しみである。
第4回公判は12月11日(月)、検察側立証の続きと、弁護側反証が行われる予定。
第3回公判の2日前の11月18日土曜日、第72回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)に参加させていただく前に、袴田家に初めてお邪魔させていただけることになった。
巖さんとはこれが初対面。ひで子さんとは何度かお会いはしているが、しっかりとお話しさせていただいたことはなかった。
浜松駅に降り立ったのはおそらく初めて。
同じ県内とはいえ、静岡は横に長いので浜松はかなり遠い。在来線で2時間近くかかる距離だ。県外へ旅に出るような気持ちでのんびり電車に揺られる。
道中、ひで子さんの半生を描いた漫画『デコちゃんが行く』を読んでいたのだが、これは完全に失敗した。
せっかく気合を入れたメイクが台無しにならないように、今にも溢れ出そうな涙を堪えるのにとにかく必死。家で読んでいたら普通に号泣していただろう。
そんなこんなで浜松に到着。
外に出た瞬間、寒い!とにかく風が強い!
これが噂には聞いていた「遠州のからっ風」というものか。
この風の中で生きてきたのも、ひで子さんの強さの秘訣の一つなのかもしれない。
手土産のお花が吹き飛ばされないように両腕で抱きしめながら、いざ袴田家へ。
袴田家は、浜松駅から歩いて十分ほどの、白い3階建てマンションの3階部分である。
このマンションは、ひで子さんが巖さんと暮らすために30年ほど前に建てられたもので、見事夢が叶い、巖さんと共に穏やかに生活されている。
3階まで階段を上ると、かわいらしいピンク色の大きなドア。
そこがひで子さんと巖さんの暮らす家である。
出迎えてくださったのは、袴田さん支援クラブ代表の猪野待子さん。献身的にひで子さんと巖さんの支援をし続けている、ものすごくパワフルな美人だ。
中に入らせていただくと、広々としていて見晴らしの良い、綺麗で素敵なお部屋である。
そこに、巖さんがいた。
何度も画像や映像で見たことのある巖さんが、穏やかな表情で目の前に座っていた。
緊張しながら挨拶をして、握手をしていただいた。
柔らかく温かい手だった。
巖さんは年齢を聞かれると、23歳だと答えるという。巖さんと同い年の23歳だということ、清水から来たことなどを伝え、巖さんとお友達になりたいと伝えてみた。
私の声は聞こえているのかいないのか、たまに何となく返事のようなものがある程度で、なかなか会話にはならない。
まだお友達にはなれなかったようだ。巖さんに認めてもらえるまで浜松に通い続けるつもりだ。
しかし、メジロの絵を添えた手紙を手渡すと、受け取って無言でじっと見つめていた。そして、外出するときに上着のポケットにしまってくださった。
巖さんは、小さい頃近所で火事が起こった際に、飼っていたメジロの鳥籠だけを抱えて逃げて震えていた、というエピソードを聞き、それで下手ながらもメジロの絵を描いてみたのだ。
何か昔のことを思い出していたのだろうか。表情からは何も読み取ることはできなかった。
しかし、受け取ってくださったことが非常に嬉しくて、危うく泣いてしまうところだった。
48年にも及ぶ死刑囚としての獄中生活が、巖さんの人生と精神を蝕んでしまったことに対して、もちろん胸が痛む感覚もあった。
しかしそれ以上に、巖さんがちゃんと生きて目の前にいて、肌のぬくもりを直に感じることができた、その感動のほうが大きかった。
どうしてひで子さんはあんなに強くいられるのだろう、とずっと不思議だった。しかし、その理由が何となくわかったような気がする。
巖さんが目の前にいるだけで、なんだか自然と笑顔になってしまうのだ。
そのような、人としての魅力が巖さんにはある。
巖さんが出かけてしまってから、ひで子さんとお話しさせていただいた。
時間がなくてあまり多くはお話しできなかったのだが、私のような若輩者にも、非常に低姿勢に優しく接してくださった。
『デコちゃんが行く』に快くサインもいただけました!すごく達筆……!
いつ見ても若々しいひで子さんが、戦争も経験し、巖さんの無罪を求めて長年闘い、90年間も生きているという事実を、私はまだあまり呑み込めていない。
実際にお話ししていても、こんなに元気な90歳が現実に存在するのだろうか…?と疑ってしまうほどだ。
「本当に色々と大変だったでしょう……」と私が言うと、ひで子さんは、
「57年もあれば、みんな多かれ少なかれ大変なことはあるよ。私はたまたま巖が巻き込まれちゃっただけで」
と平然と明るく言ってのける。
いやいやいやいや!と思わず突っ込んでしまう。
ひで子さん、歴史的に残る大きな死刑冤罪事件ですよ?そんじょそこらの苦労と一緒にできるものじゃないですよ?
しかし、ひで子さんは「悲劇にしたくない」とおっしゃった。
私はその言葉を咄嗟には理解できなかった。
巖さんやひで子さんの身に降りかかった苦しみを、悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。
しかし、実際に袴田家に伺って巖さんにお会いしたからこそ、あとになってその言葉の意味するところが何となくわかるような気がした。
警察・検察や裁判所、再審制度などに対して、一番怒りを感じているのはひで子さんのはずである。
しかし、巖さんが生きて帰ってきて、一緒に暮らすことができるということに、一番幸せを感じているのもひで子さんなのである。
だからこそ、過去を振り返るのではなく、常に前を向いて歩くことができるのだろう。
ひで子さんの言葉には、あとになってずんと重みがのしかかってくる。
また浜松で、「袴田さん支援クラブ」や「見守り隊」の方々とも多くお会いした。
皆あたたかい方ばかりで、その努力とやさしさのおかげで、ひで子さんも巖さんも穏やかに暮らせているのだろうと思った。
一度殺人犯のレッテルを貼られてしまうと、たとえ再審無罪を勝ち取っても、故郷に戻るのはなかなか難しいと聞く。
その点で、未だ死刑囚であるにもかかわらず、巖さんが浜松で暮らすことのできる環境を作っているひで子さん、また支援者の方々の努力は偉大だと思う。
清水、特に事件のあった横砂周辺では、未だに風当たりの強さを感じることがある。
巖さんにとっては思い出したくない場所かもしれないが、清水でも巖さんをあたたかく歓迎する基盤があったらいいな、と少し考えた。
とにかく、この日はひで子さん、巖さんをはじめ、浜松の支援者の方々などに大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
2023年11月10日金曜日。静岡地裁にて、袴田事件再審第2回公判。
今回は見事傍聴券が当選して、裁判を生で見届けることができた!
この日の静岡はあいにくの雨。
天気のせいか、単純に二回目だからなのか、人もカメラも前回よりかなり少ない。
◎9:45 当選番号発表
思わず、「当たった~!!!」と叫んでしまった。
今回並んだのは89人。3人に1人くらいは当選する計算になるが、一緒にいた5人のうちの4人が当選した。すごい強運!
今回は検察官の主張①(犯人はみそ工場関係者であり、袴田さんが犯行を行うことが可能だった)に対しての弁護側の反証。
長い間指摘され続けてきた点が丁寧に説明されていたので、事件を知っている人にとっては、特に新しい情報というものはない。
しかし、くり小刀、雨合羽、ブリキ缶、ゴム草履などの実物が現れたのには驚いた。
当時の現場や調書の写真も数多く見ることができて、実際に起きた事件なのだということを再認識させられた。
また、当たり前なのだが、検察と裁判官という相手が実際にいるということを目の当たりにして、ああ、これは闘いなんだな……と身に沁みて実感した。
◎10:30頃~ ボディチェック
二階に上がると大勢の裁判所職員の方々。
筆記用具以外は何も持ち込めず、荷物を預けたあと、全身くまなく金属探知機を当てられる。唯一反応した腕時計も入念にチェック。ここまで厳重な警備だとは思っていなかったので驚き。
裁判傍聴自体初めてというのもあってわくわくしていたのだが、法廷前に貼られている紙の
「住居侵入 強盗殺人 放火」「被告人 袴田巖」
というおどろおどろしい文字に一気に身が引き締まる。
◎11:00 開廷
それでは11時になりましたので~、と案外ぬるっと開廷。
席は指定席で、弁護側の後ろ。弁護団の先生方のお顔は重なってしまってあまり見えなかった。
逆に検察のお顔ははっきりと見える。メガネで鋭い目つきの男性2人と、かわいらしい若い女性の3人。どんな気持ちなんだろう、本当は嫌だろうなあ、などと気になってしまった。
最初に、検察が起訴状における被害者(専務)の年齢の誤りを訂正。…今更?
その後弁護側が、事件の4日後の1966年7月4日の「従業員H」の名前が記載された新聞記事を、すでにこの時点で警察が袴田さんを犯人と決めつけてリークした証拠として採用しなかったことに異議を申し立てたが、地裁は棄却。
一般的に、公判外での供述や報道内容などは「伝聞証拠」と呼ばれ、ほとんどは採用されないようだ。確かにこれは確たる証拠にはなりえないし、新聞が適当に書いただけと言われればそれまでだが、悔しい。
◎弁護側冒頭陳述
田中薫弁護士が、犯人はどこから侵入したのか、どうやって4人を殺害したのか、奪ったとされる金はどこに行ったのか、などを問いかけるように述べ、改めて犯人はみそ工場関係者ではないこと、単独ではなく、外部の複数犯であること、強盗目的ではないことを主張した。
まず、ポケットに鞘の入った雨合羽は本当に落ちていたのか、くり小刀が凶器なのか、雨合羽から人血反応があったという鑑定書が再審になって初めて出されたことを指摘。
また、放火に使われたとされる工場にあった混合油や、被害者宅から工場までの間に落ちていた金袋、みそ工場の風呂場の血痕を7月23日に見つけたと主張していることなど、犯人はみそ工場関係者と主張される点についての疑問点を挙げる。
そして、検察側の主張するような行動を袴田さんがとれたとは到底考えられないと締めくくり、冒頭陳述は終了。
雨合羽の鑑定書が再審で初めて出されたという点に対して、検察は「隠したわけじゃなく開示されなかっただけだ」と反論。
隠したとは一言も言っていなかったのだが……。
◎弁護側立証
当時の調書や写真、図を用いながら、一つ一つ反証が行われていく。
・現場状況
まず、現場の図や当時の写真を多く使いながら、事件の状況を確認していく。
私は事件現場には何度か足を運んでいるので、特に事件前の被害者宅の写真を見て胸が苦しくなった。焼けてしまって、今ではそのほとんどが残っていない。
・パジャマ
7月4日に任意提出された袴田さんのパジャマの写真が出される。
ぱっと見では染みがついているようには見えない綺麗なものだった。しかしこれがいわゆる「血染めのシャツ」なのである。
・雨合羽
雨合羽が発見された時刻が、事件当日6月30日の「午前11時」に線が引かれ、「午前4時」と書き直されていること、その後の実況見分調書では雨合羽の記述がないこと、7月6日付で初めて雨合羽の写真が出てきたこと、また消火の際に工場員が雨合羽を着たという証言があったことなどを指摘。
と、ここで、雨合羽とポケットに入っていたという鞘の実物が登場!
モニターに写して見せるが、雨合羽は何となく黒っぽいくらいでほとんど確認できず。
◎12:15~13:15 休廷
・くり小刀
いきなりくり小刀現物が登場!
刃渡り12㎝ほどと知ってはいたものの、実物のあまりの小ささには心底呆れてしまう。
人を4人も殺害したものだなんて到底思えないし、これで人を刺そうという発想にも至らない。被害者4人は40箇所も刺され、肋骨まで切れているのだ。
しかし実物は「凶器」という言葉には全く似合わない、おもちゃのような代物だ。しかもくり小刀から血液は検出されていない。どうして凶器として認められたのか、不思議で仕方がない。
・混合油
警察は普通、放火ならまず油などの特定をするはずなのに、特定をしないまま7月4日には工場内にあった混合油と断定した。しかも、専務の遺体の近くにはガソリンの入った缶があったのにもかかわらず。
鑑定では混合油が放火に使用されたかどうかは不明だという結果が出ている。
ここでまた現物の登場。工場の混合油が入っていたブリキ缶(高さ50~60㎝ほどか)と、混合油を運んだとされるポリ樽(こちらはレプリカ)。
このブリキ缶の側面から数カ所の人血反応があったということだが、もし犯行に使ったのなら絶対に触れるはずの蓋や、巻いてあった縄からは血液は検出されていないのである。
検察が「つまり人血反応は捏造だと言いたいのか」と聞いたが、
田中先生が、「いいえ、捏造と申しているのではありませんよ。側面だけに人血反応があったという点が不自然だと申しているのです」と嫌味っぽく切り捨てる。
◎14:25~14:55休廷
・金袋
奪われたとされる金袋とその金額、また被害者宅に残されたままだった甚吉袋の中の金袋の中身や、現金、通帳、貴金属類などをすべて確認し、改めて強盗ではないことを指摘。
預金もものすごい額が残っており、宝石のついた指輪等も、乙女心がときめくほど大量にある。もしも私が犯人なら絶対に盗りたい。
・取調べの録音テープ
袴田さんが自白を始めた1966年9月6日(とされている)の取調べの録音が流される。
内容は、「犯行後にどこから出たのか」を松本警部が尋ね、袴田さんが「裏(木戸)です」と答えるが、警部が「裏木戸は閂がかかっているのだからありえないだろう」と威圧的に否定する場面である。
生々しい録音が流れ、検察側がさっと強張ったように見えた。自分たちの先輩として、どう感じているのだろうか。
最後に田中先生が、「他の従業員に気付かれずに工場を出て、一人で被害者宅に侵入し、くり小刀一本で4人を殺害し、工場に戻って混合油をポリ樽に移して運び、再び被害者宅に侵入して放火し、また工場に戻るという行動が、いったい袴田さんにとれたでしょうか」と、心に直接訴えかけるように、静かに検察官に問いかけた。
田中先生が語り出した直後から、検察が明らかにそわそわと体を動かし始める。かなり動揺しているように見えた。
・ゴム草履
ここで犯行時に袴田さんが履いていたとされているゴム草履の実物が現れた。
黄色に鼻緒部分が青色の、普通のペラペラのビーサンである。
このゴム草履は犯行時に履いていたとされたのにもかかわらず、当時警察が鑑定したところ血液も油も検出されなかったために、57年間証拠として日の目を浴びることがなかったものだ。
つまり、重大な無罪の証拠になりうる。
最後に、検察側からの質問。
「検察が何を捏造したと言いたいんですか!?」と声を荒げる検察官に、
「捏造なんて一言も申しておりません!」と強く主張する田中先生。
田中先生、問いかけるような静かな語りから、皮肉めいたきっぱりとした物言い、また怒気を含んだ口調まで、一人何役かと思うほど、とにかくメリハリがすごい。何を言われてもコロッと洗脳されてしまいそうだ(笑)
にしても、今回は「捏造」という言葉は一切用いられていなかった。弁護側は非常に落ち着いた口調で、客観的証拠に基づき淡々と指摘をしていた。もっとガンガン攻めてほしい!と物足りなく思ってしまうくらいに。
え、検察官、話聞いてなかったの?と私ですら思った。
最後に次回の日程を確認して終了。
次回、第三回公判は11月20日(月)、検察側が主張②の「5点の衣類」についての主張を行うとのこと。
◎15:50頃 閉廷
終わってどっと疲れを感じたが、意外と時間が早く過ぎたような気もした。初めての裁判で緊張するかと思ったが、それほど厳かな空気だとは感じられなかった。
しかし、やはり実際に裁判を見てみて、事件に対する実感というものが強くなったように思う。
一番大きかったのは、これはれっきとした闘いなのだという体感を持てたことだ。
支援者や弁護団の方しかいない場で事件について話していると、もうすでに無罪判決は確定しているような和やかさが常にある。
しかし、実際には検察という敵がいて、判決を決める裁判官がいる。本当に無罪になるのかどうかも、いつ判決が下されるのかもわからない。
裁判に関しては応援するくらいしかできることはないのだが、なんだか、私ももっと気を引き締めなければ、という思いになった。
そして闘いは袴田さんのためだけではなく、この事件でお亡くなりになった被害者の方のためでもある。
事件現場付近は当時の面影を残して今もうら寂しく、被害者四人は現場近くのお墓で静かに眠っている。早く真相が解明され、被害者の方々が少しでも安らかに眠れることを心から願っている。
また、考えてみれば当然のことなのだが、当時の調書がすべて肉筆で書かれているという事実に驚きを感じた。
冤罪は警察・検察組織全体、司法制度全体の問題である。
しかし同時に、冤罪を作り上げたのは一人一人の人間でもある。
そしてその罪は、現在の検察官一人一人にはない。
人間である以上、間違えることはある。だから、もし過去に過ちがあったのなら、すぐ素直に認めれば良いだけの話ではないか。私はそう思う。
◎17:30~ 弁護団記者会見
最初に西嶋勝彦弁護団長が、第二回公判について「明確な弁論だった」と評価した。
ひで子さんは「弁護士さんが捜査資料をよく読みこんでいることがわかった。改めて弁護士さんの力の強さには感謝しております」と発言。
この言葉を聞いて角替先生の目から涙が……先生、素晴らしかったです。お疲れ様でした。
ひで子さんは、だらだらとした初公判とは違って、今回は「裁判らしい裁判だった。とても良い裁判だった」と感想を述べられた。
角替先生や水野先生は、再審というものの難しさについて語られた。
今回の裁判で証拠となるものは、検察が検察のために集めた、有罪の方向への材料しかない。つまり弁護側は、有罪のために集められた証拠の中から無罪の証拠を探すという、非常に困難な作業をしなければいけないということである。
今回、弁護側は公判内で「捏造」という言葉も用いていないし、意見を主張するのではなく、客観的な証拠に基づく指摘を一つ一つ丁寧に行っていた。
検察側は何だかずっと焦っている様子で、「捏造ではない」とずっと言いたげだったが、そもそも誰もそんなことは言っていないのである。
もちろん弁護団は捏造を疑っているし、本当はそう主張したいだろう。
しかし、捏造かどうかを評価するのはあくまで裁判官であって、弁護側は検察の主張の矛盾点を詰めていって、最終的に「捏造しかありえない」という判断を目指す方針である。
また村崎弁護士は、司法の世界では未だに非常識がまかり通ることを訴え、袴田事件は「司法の汚点」として、司法制度を変えていく闘いでもあると訴えた。そして報道の責任もある、反省してほしい、と語気を強め、記者の方々は心なしか居心地悪そうにしていた。
◎19:00頃 記者会見終了
初めて裁判を傍聴することができて、長くて濃い一日だった。
改めて、弁護士の先生方やひで子さん、また支援者の方々のバイタリティには尊敬する。
私も私なりに、何か力になれるように頑張ろうと、いっそう強く感じる日になった。
第3回公判は11月20日、検察側の主張②、5点の衣類についての立証が行われる。
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