安田好弘弁護士7月13日、金田勝年法務大臣は、西川正勝さん(大阪拘置所)、住田紘一さん(広島拘置所)の死刑を執行した。西川さんは再審請求中で、住田さんは裁判員裁判の一審で死刑判決を受け、弁護人の申し立てた控訴を自ら取下げ死刑が確定していた。死刑事件は必要的上訴を制度として導入すべきだろう。国会での答弁で法相の資質を問われた金田法相が死刑の執行をしたのである。フォーラム90は今回の執行の問題を考え、抗議していくために7月27日17時30分から衆議院第一議員会館国際ホールで集会を持ち、集会決議を法相事務所に届けた。ここに掲載した安田弁護士の講演はその集会発言である。(初出『フォーラム90』154号)
※安田好弘氏は、死刑が求刑された事件の刑事弁護を数多く担当し、死刑判決を多数回避させてきた経歴を持つ。死刑廃止主義者。 また、大手マスメディア、テレビなどの出演依頼はほとんど断るマスメディア嫌いとしても知られる。

安田好弘

 

1、7月13日の執行

7月13日に、大阪拘置所で西川正勝さんが、広島拘置所で住田紘一さんが処刑されました。西川さんは61歳、住田さんは34歳。お二人に対する死刑執行は、どちらもたいへん大きな問題を抱えていて、それについて少しお話をしたいと思います。
今回の死刑執行ですが、僕たちはあの法務大臣だったらやるだろう、時期としてもこの国会が終わった後、内閣改造前にやるだろうと危機感を持っていました。しかし、私たちの予測をさらに超えたのは再審請求中の人を執行したことです。そこまではやらないだろうと思っていたのですが、この大臣はやってのけました。その問題点についてもお話ししていきたいと思います。いずれにしても安倍内閣はこれで29人を執行したことになります。過去最大の数です。現在、死刑確定者は125人ですから、その4分の1に近い人を彼の内閣で執行したわけです。確かに、刑法では、法務大臣が死刑執行を命令するとなっていますけれども、死刑執行は閣議報告事項として報告されると言われています。また、事前報告もされているという説もあります。ですから、内閣総理大臣たる安倍晋三総理がこの死刑執行についてまったく知らされていないとは言えないと思いますし、それなりに指導性を発揮できる場面もあったのだろうと思います。この大量の死刑執行は、安倍総理の意向に反しないものであると言えるだろうと思います。ですから、安倍内閣が続く限り、容赦なく死刑が執行されると考えなければなりません。
特に、今回は休会中の死刑執行です。しかも金田勝年法務大臣の退任が目の前に迫っている中で行われた執行です。ですから、彼は、国会での質問に応じる必要もありませんし、法務大臣としての政治的責任も負わなくてもいいということですから、無責任というそしりを免れませんし、法務大臣にのみに死刑執行命令の権限を付与した法の趣旨に反する執行だと思います。

2、法を無視した再審請求中の執行

再審請求中の執行について少しお話をしなければならないと思います。かつて1999年に福岡拘置所の小野照男さんに対して再審請求中の執行がありました。私たちが知る限りでは、再審請求中の執行はこの1件だけですが、小野さん以前に4件ほど再審請求中の執行があったと言う人もいますが、確認がとれていません。
どうして、このような異例のことを金田法務大臣がやったか。今日の資料の3ページに「法務大臣臨時記者会見の概要」が掲載されていますが、そこを見ていただきながら、敢えて読んでみたいと思います。
「もし再審請求の手続き中はすべて執行命令を発しない取り扱いをするものということであるならば、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り、永久に刑の執行をなしえないということになりまして、刑事裁判の実現を期するということは不可能になるものと言わなければならないところでございます。従いまして、死刑確定者が再審請求中であったと致しましても、当然、棄却されることを予想せざるをえないような場合におきましては、執行を命ずることもやむを得ないと考えております」。
皆さんに見ていただいている文章(註)と比べて、言葉の語尾は違うものの、その内容は、全く同じです。私が読み上げたものは、1999年に小野照男さんに死刑が執行されたときに、当時の臼井日出男法務大臣が、2000年3月14日の参議院の法務委員会で福島みずほさんの質問に対して答えたものです。皆さんに見ていただいているのは、今回の執行で金田法務大臣が7月13日に記者会見で述べた言葉です。全く同じと言っても過言ではありません。これはどういうことでしょうか。一つは今から18年前に再審請求中の人を死刑執行したことが、今ゾンビのように甦ったということであろうと思います。もう一つは法務官僚が作文をしており、しかも17年前の法務官僚の作文が、未だに生きているということです。つまり死刑執行は政治家が決断しているのではなく、法務官僚が行っており、執行の説明さえも彼らが考え、大臣が記者会見で話す言葉さえも用意している。しかもそれが17年の間、廃棄されずに生き続けているということだろうと思います。これが日本の死刑執行の実態です。そうすると今回、金田法務大臣が再審請求中の死刑執行をしたのは、彼の政治的な考え方やパーソナリティの問題ではなく、いよいよ法務省が再審請求中の執行に乗り出してきたということではないか。18年間控えてきた再審請求中の執行をいよいよ復活させたと考えていいだろうと思うんです。
ところで、金田法務大臣は、現在の法律では再審請求中であっても死刑の執行はできる、法律はそういう規定だと言っています。過去の法務大臣も同じように言っていますし、法務省の官僚も同じように言っているんですけれども、しかしもう一度、本当に法律はそうなっているかということを考えてほしいと思います。私は、法務省や法務大臣の考え方は間違いだと思います。憲法32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定しています。再審もまさにこれに該当します。再審請求中に死刑が執行されると、再審はどうなるかというと、それで棄却、つまり打ち切りになってしまいます。もっとも、執行された人の相続人は再審請求ができますけれども、新たな再審請求を起こさなければならない。ですから死刑執行は、その人の裁判を受ける権利を根本的に奪うことになるわけです。つまり憲法32条違反であるわけです。それから刑訴法475条には法務大臣が命令する、6カ月以内に死刑執行命令を発しなければならないとありますが、これには但し書きがあって、再審請求をしている場合は、この6カ月間の中に算入しないと書かれています。しかし、6カ月経過後の再審請求については何ら規定をしていません。この条文の作成者は、死刑は6カ月以内に執行してしまう建前であるから、6カ月後のことについては規定する必要がないと考えたのだと思います。しかし、この6カ月以内に執行するとの規定が法的強制力がないとされている現行制度の下では、6カ月以降については、6カ月前と同じく再審請求中の人は死刑を執行しないと解釈すべきであると思います。誤って死刑を執行してしまう危険を回避しようとするこの条文の趣旨は、6カ月経過しようとしまいと同じです。条文上は、6カ月経過すれば再審請求中であっても死刑執行できるとは何処にも書かれていないのです。しかし、法務省及び法務大臣は、先に述べましたとおり、6カ月経過後は、再審請求中であっても死刑執行をすることができると解釈しています。しかし、それは条文解釈の一方的な解釈にすぎませんし、6カ月以内に執行しなければならないという建前の下にはじめて成り立つ解釈だと思います。再審請求中の死刑執行については、憲法で保障されている裁判を受ける権利、あるいは人権尊重の考え方から、また誤った死刑執行を防止する趣旨から、今一度、議論しなおし、法律上、死刑執行禁止を明示すべきであると思います。
先ほど読み上げましたように、法務大臣は再審請求中の死刑執行の正当性について、「もし再審請求中なら死刑執行できないということであれば、いつまでも死刑執行できなくて法の実現が不可能になる」と言っています。しかしそれは大きな間違いだと思うんです。再審請求は開かずの門であると言われているように、再審請求には、証拠の新規性及び明白性というたいへん厳しい要件が課せられています。確定審で取り調べられたことのない新たな証拠で、しかも、その証拠から無罪または軽い罪に当たることが明白でなければならないとされています。ですから、再審請求すること自体がそもそも困難なわけです。簡単に再審請求を申し立てすることはできません。私どもはよく再審請求をするためには新しい証拠、そして明白な証拠、つまり明白性と新規性がないといけないと話し合っています。新しい証拠で、その証拠によって無実であることが分かるものでなければならないという条文があるんです。つまり、そう簡単に誰も再審請求できないんです。しかも、刑訴法447条2項には、「何人も、同一の理由によっては、更に再審の請求をすることはできない」とあり、連続して再審請求をすることも禁止しています。ですから、「再審請求中に執行できないならば永久にできない」というのは前提として誤りです。もし、このような規定があっても、乱訴的な再審請求がなされ、結果として死刑が執行できないという事態が生じるならば、それはそれとして、立法問題として議論し、法律を変えるか、あるいは法律にさらに付け加えるかすべきだと思います。法務大臣や法務官僚がご都合論で法律の解釈をし、再審請求中の死刑執行をするというのは、およそ許されるべきではないと思います。
さらに先ほども読み上げましたけれども、彼らは再審が棄却されることが明らかな場合は執行できるのだと最後に付け加えています。しかし、これは法律の規定を完全に無視しています。三権分立のもと、再審は唯一裁判所だけが判断することになっています。行政が判断することは許されていません。しかし今回、再審が認められるかどうか、再審の理由があるかどうかを法務大臣あるいは法務官僚が判断して執行するというわけですから、これは明らかに越権行為です。ですから今回の執行は、法律の解釈を、死刑執行ができるように歪め、越権行為をした上で、死刑を執行したわけですから、大きな問題である以前に、犯罪的な行為ではないかと私は思うわけです。
さらに申し上げなければいけないのは、この法務大臣、法務官僚の認識は完全に間違っていまして、死刑事件の再審の実態を全然理解していないと思います。ちょっと調べてみましたところ、免田栄さんの再審は第6次再審でようやく認められています。島田事件の赤堀政夫さんは第4次再審です。名張の奥西勝さんのケースですと、第9次再審中に病気で亡くなっています。しかも名張事件については第7次再審で、一旦再審開始決定が出ているんです。徳島ラジオ商事件ですと第6次再審です。こういうことが再審の実態なわけです。つまり、再審請求を繰り返さないと再審は実現しないというのが今の日本の実情なのです。法務省はこの事を十分に知っているにもかかわらず、「理由もなく繰り返す」と非難しています。とんでもない実態無視だと思います。
さらにもう一つ実態として申し上げなければならないのですが、私どもが死刑事件を担当していて分かるのですが、死刑事件には、冤罪が非常に多いんですね。統計的にみても免田さんと同じ時期に再審無罪になった死刑事件が4件あったわけです。戦後の死刑事件が約450件ぐらいしかなかった中での4件の冤罪ですから、たいへん高い冤罪率です。そこだけみてもお分かりになると思うのですが、死刑が問われる事件というのは、多くは殺人事件が伴い、現場は悲惨で凄惨で見るに堪えない状況です。その現場を見た捜査員はどう思うでしょうか。「こんなことをやる人間はたいへん悪い奴だ。強い犯意でやったに相違ない。用意周到な計画の下にやったのだろう。このようなことをやる人間は、もともと反社会的で危険な存在だったはずだ」。こういうふうに見てしまうわけです。現場の凄惨さに見合った犯行態様と犯人像を作り上げてしまうのです。そして、その認識に合わせて被疑者・被告人の供述は作られていくわけです。
しかし実際に逮捕された被疑者・被告人はどうかというと、本当に消え入りたいほどの思い、反省・悔悟の思いの中にあって、自分はその時、どういうつもりであったと言って、取調官に対し抗弁したり弁明したりするなんてことは、およそそのような力はありませんし、仮にあったとしても、自分自身に抗弁したり弁明したりすることは認めないわけです。その結果、非難されるままにその非難を受け入れる、あるいは捜査官が作り上げた解釈をそのまま受け入れる。せめて、そうすることが、せめてもの反省の証しだと思うわけです。ですから事実と違うことが証拠としてどんどん作られていってしまいます。私もよく経験するんですけれども、強固な犯意があったかどうか、計画的であったかどうかという点については、ほとんどの場合、現実と違う事実になっているわけです。そして本当はどうであったのかということをようやく言えるのが、死刑が確定し、自分がやったことを客観的に見ることができて、そして事実を検証することができてはじめて、「あ、この判決は間違っている。自分のやったことと違うことが書いてある」と気づくわけです。それでようやく再審請求が始まるんです。ですから、再審請求をするには相当な時間が必要です。しかも、それを手助けしてくれる弁護士はおらず、自分でたどたどしくやり始める以外にありません。とらわれの身であって、自由に証拠を探すことができるわけではありませんので、同じ証拠で再審を訴え続けるしか方途がありません。法務省は、こういう実態を知っているはずなんですね。しかし、彼らは、「ためにする再審」と言って、死刑確定者の人たちのする再審を「延命の手段だ」と言うわけです。死刑事件の実態をあえて捨象して、今回の法務大臣のような弁明をしているわけです。これが、今回の西川さんに対する再審請求中の死刑執行の問題だと思います。

3、審理はつくされてはいない

それから住田さんについてです。住田さんは裁判員裁判で死刑が宣告され、弁護人が即日控訴したんですね。弁護人は被告人とは独立して控訴権を持っていますから、本人の意思に反しても控訴できるわけです。過去には本人に控訴する意思がないため控訴しなかった弁護人もいましたけれども、今は本人の意思に反してでも控訴をするというのが弁護人の共通認識になっています。このケースでも本人の意思を無視して弁護人が控訴をしたわけです。
住田さんの事件は前科がなく、被害者の方が一人という事案でした。被害者一人のケースですと、よほどのことがないと死刑にはなりません。死刑が議論されるのは、だいたい被害者が二人からのケース。単純殺人ですと、被害者が二人でも死刑にならないケースが多いと言われているのですが、住田さんの場合は被害者が一人で死刑判決だったわけですから、弁護人とすれば当然、上級審でもう一度判断してほしい、従来の死刑基準からすると重すぎると考えるのがあたりまえです。しかし住田さんは自分から控訴を取り下げるということをしました。
私も同じようなケースを体験して思ったことですけれども、それは裁判員裁判が持っている欠陥に原因しているのだろうと思います。裁判員裁判の法廷では、裁判官・裁判員がひな壇に9人ずらっと並んでいます。被告人からすれば、それだけでも圧倒的な雰囲気です。そして検察官が複数人並び、そのすぐ後ろに被害者遺族の人と補佐人。被告人を厳しい目で見つめる目があります。反対側に弁護人が1人か2人、そして被告人。被告人は本当に法廷の中で存在自体が小さくそして孤立している状態です。しかも5?7日で審理が終わり、判決が出るという状態です。被告人の話を十分に時間をかけて聞いてくれることもありません。そして、あっという間に死刑判決が出る。そういう中にあって、被告人は、裁判に期待を抱くことができるでしょうか。法廷に出ることでさえ、たいへんな苦痛であろうと思います。裁判員裁判は、控訴あるいは上告して争ってまでして公正な裁判を得ようという意識、意欲そのものを潰してしまっているのではないかと思うわけです。
裁判員裁判では連続的に1週間あるいは10日間ぐらいのスケジュールで判決が出てしまうのですが、その間被告人には当時のことを思い出し、見直して、誰かに話をする機会もないわけです。このような短い期間では、被告人は、傍聴人と接触したり交流する機会がないということです。今までは公判は1カ月に1?2回のペースでしたので、その間に傍聴人が被告人に手紙を出し、あるいは拘置所に出かけて行って面会をして、交流が始まることが多くありました。そういうなかで死刑事件の被告人は、ようやく自分を取り戻すと言うんでしょうか、自分を見直し、自分のやったことに正面から向き合う。もちろん被害者にも向き合う勇気が出てきて、はじめて反省・悔悟の気持ちが生まれ、そしてもう一度やり直してみよう、あるいは謝罪して一生生きていこうという気持ちが生まれてくるわけです。しかし、そういう機会を裁判員裁判は完全に奪い取っているわけです。ですから裁判員裁判の悪い面が、控訴の取下げという今回の結果を生んだと言えると思います。
法務大臣は記者会見で、「記録を精査し、再審事由や上告理由があるかどうか調べ、そして死刑執行の命令を出した」と言っていますが、記録を精査したと言うのならば、住田さんのケースは、一審しか審理されていないことがすぐ分かるはずです。まったく審理不十分で、住田さんには審理を受ける権利が保障されていなかったということが分かるはずです。法務大臣が説明している中身を見ますと、重要な部分が欠けているんです。「個々の事案について関係記録を十分に精査し、刑の執行停止」これは心神喪失の場合など刑の執行停止が法律に規定があることです。「再審事由の有無等について慎重に検討し、これらの事由等がないと認めた場合に初めて死刑執行命令を発すること」ができ、自分はそうしたと言うわけです。しかし、そこには、欠けているものがあります。過去の法務大臣は、「再審事由」の次に、「恩赦の事由」という言葉を入れていました。死刑確定者は恩赦を受ける権利を有しています。日本が批准している国際人権規約のB規約第6条には、死刑確定者には恩赦を求める権利があると書かれています。しかし、彼は、それすらも理解しておらず、恩赦という言葉を言い忘れてしまっているわけです。今回、住田さんのケースですと、上告審まで審理されていないということ、過去の死刑適用基準からすると死刑判決は重すぎることからすれば、それを是正するには恩赦しかなかったはずなんですけれども、それを彼は完全に忘れてしまっていたわけです。
私どもはこういう不幸をなくすために、自動上訴制度を設けるよう訴えています。本人が望むと望まざるにかかわらず、死刑という極限的な刑罰を科すためには、十分に三審まで審理を尽くすということを制度として保障するようにと要求しているわけですが、こうした要求について彼らはまったく耳を貸そうとしていないわけです。

4、今後の課題

今回の執行については、日弁連や駐日EU代表部からも抗議声明が出されており、さらに全国の弁護士会やドイツ、フランスの大使などからも、これから抗議声明が出てくるだろうと思います。しかし法務省、法務大臣はそれらを一顧だにすることなくさらに死刑を行ってくるだろうと思います。
そういう中にあって、私たちは何をやっていくかということです。死刑廃止にとって、現在もたいへん厳しい状況にあります。圧倒的多数の人が死刑存置を支持していますし、死刑廃止は、政治課題になろうともしていません。とりわけ、強固な排斥主義が台頭し始めていますし、安保法制、共謀罪等々、治安法制がますます強化されています。このような状況の中で、どのようにして突き進んでいくか、本当に、真剣に考える必要があると思います。私たちの運動を常に客観視して、多面的な視点で捉えることが必要だと思います。私は、私たち少数派が少しでも前進することができるとするなら、一歩一歩、死刑が廃止される方向に、つまり具体的には死刑が少なくなる方向に、言葉としては、死刑制度が緩和される方向に、そして多面的に物事を動かしていくしかないだろうと思うんです。死刑廃止か存置かという対立軸ではない、そして死刑廃止とは違う考えに基づく、もう一つの選択肢、終身刑の創設と死刑全員一致制を考えなければならないと思いますし、先に申し上げた必要的上訴の創設を求めていくことも大切ですし、恩赦の権利化や死刑確定者に対する必要的弁護制度の創設も求めていく必要があると思います。こういう個別具体的な要求実現の運動を、死刑廃止・存置という対立軸の運動とは別の視野と問題意識でやっていく必要があると思います。そして少しでも死刑の判決を少なくし、執行を少なくし、そして死刑の是非について冷静に考えられる、判断できる土壌、環境を作っていく必要があると私は思っています。
皆さんも同じ思いだと思います。手を取り合ってやっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。