袴田事件、私のDNA鑑定は揺るがない(上)

東京高裁と静岡地裁の異なる判断の背景にあるものは何か。鑑定人の本田教授が語る

本田克也 筑波大学教授

 

DNA鑑定のすべてを否定した東京高裁の判決

4年にも及ぶ審理の末、いわゆる「袴田事件」の即時抗告審における東京高裁の決定が公表された。結果は、静岡地裁が再審開始を認めたのに対して、再審を認めないという正反対の決定である。その理由として、地裁決定で新証拠とされた「DNA鑑定」の信用性を否定するということがクローズアップされたのであったが、この結果を見て、みなさんはどう思われたであろうか。

同じ証拠をみて判断が異なるというのは、どちらかが正しくどちらかが間違いではないか、と思う人もあろう。地裁より高裁の方が上級審であるから高裁の方が正しいのでは、と思う人もあるかもしれない。地裁の方が時間をかけて入念に事実を調べているため、むしろ真実に近い判断がなされることが多いから、むしろ地裁決定が正しいのでは、と思う人もあろう。また、「DNA鑑定」の成否などのような専門性の高い内容を、そもそも裁判所が判断できるのであろうか、という素朴な疑問を持つ人もあるかもしれない。

結論から先に述べれば、静岡地裁ではDNA鑑定の結果を事実としてしっかり調べ、全体のデータの中から有用な情報を引き出した判断がなされているのに対して、東京高裁の判断はDNA鑑定は疑わしいという前提のもとで、そこに用いられた方法の問題点、さらには鑑定人の人間性についての疑惑をできる限り見つけて、DNA鑑定のすべてを否定した結論になっていることがわかる。

功を奏した?検察官の説得

こうしてみると、前者は真実を明らかにしたいという事実に立脚した客観的判断であり、後者は裁判官がどういうわけか抱いてしまった鑑定人への疑惑を証明することを目指した主観的判断である、ということになる。

いったいなぜ、裁判官が「DNA鑑定」に疑惑をもってしまったのか、私にはわからない。個人的に裁判長と過去に関わりがあったわけではないし、裁判の過程で裁判官と関わりがあったわけではない。それどころか今回の高裁での審理では、私は裁判所からいかなる問い合わせも、資料の請求も受けなかったのである。

私が裁判所と関わったのは、審理もほぼ終了した昨年の9月末に行われた証人尋問の一回のみである。とすれば考えられるのはただ一つ、検察官が大変な努力をして、多量の文書の提出によって本田は信用できないと裁判官を説得し続けたことが功を奏したのではないか、ということである。しかし真実は多数決でわかるわけではない。

裁判というものは真実を明らかにするもの、と一般の人は信じているかもしれない。また、かつての私もそうであった。しかし裁判で問題にされるのは書面であり、あるいは尋問によって得られた言語表現であり、客観的事実が扱われるわけではないから、証拠そのものの真偽を明らかにすることはほぼ不可能なのである。

にもかかわらず、東京高裁は裁判官にとっては単なる文献的な知識しかないのに、DNA鑑定の証拠は果たして本物かどうかという、解決困難な議論を強行してしまったのである。

なぜ、袴田さんは再収監されないのか?

それにしても不思議なことがある。それは、再審請求が棄却されながら、どういうわけか袴田さんの再収監がなされなかったことである。つまり地裁決定の後半部分だけは維持されたのであった。ただ、地裁の場合は再審を認めたうえでの、すなわち無罪であることが前提にされた上での判断であり、高裁が理由にしたところの、健康上や生活上の問題からではない。

本来なら再審請求が棄却された以上は、収監されなければならないはずである。それがなされなかった理由はたった一つ、今回の高裁の裁判は袴田さんが無実であるかどうかとはまったく別の次元での裁判であり、その判断とそもそも袴田さんが無実であるかどうかとは切り離して考えられている、ということである。

実は、この決定に今回の高裁審理の本質が表現されている。一言で言えば、決定の「非論理性」ということである。

非論理性で貫かれた4年の裁判

どういう非論理性か? それは、今回の裁判は実は新証拠とされた「DNA鑑定」論争が目的であり、袴田さんの事件とは無関係に論争されたということである。そして、「DNA鑑定」は袴田さんの事件の本質とは無関係であると裁判官が認めていたからこその、非論理的な決定であったのであろう。

こう考えると、東京高裁の裁判長は判断できないような論争に約4年も費やして、無駄な裁判を行ってしまったことがわかる。しかし、もっと不思議なことは、約4年もかかって論争した内容は、まったく決定文には盛り込まれていないのである。まるで、高裁での「DNA鑑定」論争はなかったかのように、検察官の意見書からの部分的引用のみが並べられており、それに対して行われた弁護側の反論はまったく無視されているのである。

特に、高裁での鑑定人尋問で私が質問に答えた内容は、まったく採用されていない。非公開の裁判であるから、中身は何もなかったことにできるところに怖さがあると思ったが、すでに本田に対して「信用できない鑑定人」という先入観を持っていたとしたら、当然だったかもしれない。とすれば、証人尋問は、単なる形式に過ぎなかったとも言えるのである。

これに対し、検察側から推薦された専門家の意見の方は、意図的ともみえる曲解や中傷を含んだものであったにもかかわらず、すべて鵜呑(うの)みにされている。まるで裁判官という名の検察官がもう一人いたかのようである。

事実を無視した判決

裁判官は科学や技術、研究やDNA鑑定については素人なのであるから、両方の意見を公平に聞くべきではなかっただろうか。しかし、結果から見れば、DNA鑑定を否定するために、裁判官がとても理解できないような専門性の高い内容であっても、検察側の見解はそのまま採用し、結果として間違った説明をしているとしたら、問題である。

判決に必要な論理的な判断は、客観的な事実に基づいて行わなければならない。だが、、今回の高裁判決は、主観的な疑惑に基づいた論理が多々、展開されてしまっている。つまり、事実を無視した判決になってしまっているのである。

 

誤った「細胞選択的抽出法」の検証実験

具体的に述べてみよう。今回の高裁審理の論点の最たるものに、鑑定人の私が考案した「細胞選択的抽出法」という方法がある。高裁ではこれに着目して、この方法が有効かどうかを議論しようして、別の専門家を立てて検証実験を行った。

ところが、その専門家はきちんと検証実験を行わず、そこに使われたたった一つの試薬(抗Hレクチン=)にのみ着目し、誤った使い方(細胞を集めるために用いるのではなく、鑑定に用いた濃度よりもはるかに高濃度でDNAに直接作用させて有害性を調べる実験)を「検証」という名のもとに行ってしまったのである。

(注)レクチンとは、植物の種子などに含まれる細胞を凝集させる物質である。鑑定に用いた抗Hレクチンは、すべての血球の細胞膜に含まれるH抗原を識別し、血球凝集を起こす試薬で、血液型判定で通常に用いられている試薬である。抗Hレクチンによる血球凝集反応は、血液型判定の常法として確立した方法である。また今回のDNA鑑定に用いた「細胞選択的抽出法」というのは、抗Hレクチンなどを用いてDNA抽出の前処理段階に細胞凝集過程を置く方法である。

結果として、「細胞選択的抽出法」の検証はまったく行われていない。したがって、「細胞選択的抽出法」の有効性を否定する根拠はなくなったはずである。しかし決定文では、(検証実験は)「本田鑑定と同様の手法を忠実に再現することによって,その信用性を検討した手法によっているものではない」としたうえで、「オーソ抗H レクチンがDNA 分解酵素を含むとの限度では十分信用できる」と認めているのである。

そもそも、「細胞選択的抽出法」を独自の方法であると認めたからこそ「検証」を行ったはずなのに、それをやらなかったとしたら、「独自の方法であり、誰も再現できていないから疑問」と言えるはずはないであろう。「再現できなかった」のではなく、「再現しようとしなかった」のであるから。

この方法は、簡単にかつ数時間で実施できる方法であるから、それを弁護士に再現させたビデオのDVDも裁判で上映し、証拠として提出しているのに、「再現実験は本田の指導、監督の下で行ったものであって、第三者による検証とは位置づけられないものである」(決定文)とされた。「細胞選択的抽出法」の発見者の指導を拒否して、どうしてそれを検証できるのだろうか。疑問があるならできるかどうか試してみればいい。しかし試さないで疑問を持たれ続けているのはどうしてなのだろうか。

国際雑誌で認められた有効性

そもそも、この方法の有効性はすでに国際雑誌(Forensic Sci Genet,2014,10,17-22)に掲載されており、国際学会では何度も発表してきている。それどころか、法医学鑑定のために細胞選択を行うための機器もすでに発売されている(機器名DEPArrey, 製造元Menarini Silicon Biosystems) のであり、その詳しい原理は企業秘密とされ公表されていないが、「細胞選択的抽出法」の技術は世界の法医学界が求めていることは明らかである。

決定文では「本田の『細胞選択的抽出法』という鑑定手法には科学的原理や有用性に深刻な疑問がある」と述べられている。「科学的原理」に関する疑問とは何か。先を読むと、「レクチンはDNA型鑑定に必要な白血球だけを凝集させるものではなく、遠心分離で白血球と他の細胞を分離できたとの研究報告は見当たらない」と書かれている。

しかし私は、「レクチンはDNA型鑑定に必要な白血球だけを凝集させる」などと言ったことは一度もないし、100%分離できないことについては、データを提示しながら何度も繰り返し説明してきている。また、鑑定には相対的に優勢な型の判断を行えば何の問題もないと、データを示して説明している。ならば、ここを本田はどのように説明したのか。「レクチンはDNA型鑑定に必要な白血球を確実に凝集させる」である。

「白血球」は血液の一部であり、DNA鑑定ができる細胞であるから、少なくともそれが凝集できれば白血球(血液)からのDNA鑑定は可能であるし、何ら深刻な問題ではないことになる。(研究報告が)「見当たらない」ことも問題ではない。「見当たらない」からこそ検証させたはずなのに、検証してもらえなかったのではないか。やってみれば可能なことは、すぐ証明されたはずである。

この文章にとどまらず、決定文全編に貫かれていることは、裁判官は「疑問」を一切解決しようとしないまま、また鑑定人尋問に関しても、自分自身が抱いた疑問の正しさが否定されないように、鑑定人に一切、「疑問」について質問しないまま(実際の鑑定人尋問では聞かれていないことが、決定文にたくさん盛り込まれている)、書かれているということである。まるで、決定文はあらかじめできていたかのようである。それ自体が独り歩きした疑惑を客観的な問題であると断定し、「DNA鑑定は信用できない」と述べていくのである。

 

袴田事件、私のDNA鑑定は揺るがない(下)

 

「鑑定データを意図的に削除」という誹謗と中傷

裁判官の抱いた疑惑の独り歩きの最も最たるものは、「本田は、本件チャート図の元となるデータや実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は既に原審時点において、見当たらない又は削除したと回答しており、その他のデータや実験ノートについても、当審における証人尋問の際に、すべて消去したと証言するに至っている」という決定文の文章である。

「証言した」ではなく、「証言するに至っている」というと、追い詰められた挙句の果てに、都合の悪いデータを意図的に削除する不正を認めたかのように読まれてしまうが、このような事実はない。地裁では追加データを何回も請求されたが、あるものはすべて提出してきた。

鑑定ではマニュアル通りやっているだけなので、実験ノートは作るまでもないのであることは裁判でも証言してきた。そもそも高裁の裁判官は原審(地裁)から関わっているわけではないのであるから、「原審時点において」と書くことはできないはずである。

30年間の研究・実績に基づく命懸けの鑑定

私自身としては、30年間の研究や鑑定実績に基づいた命賭けの真実の鑑定である以上、何ら隠す必要などない。鑑定試料の代わりになるような、特殊なデータも持っていないのであるから捏造することも、その必要もないのである。

請求していないものがこれまでに出ていないからといって、「不正があるから出していないのでは」と邪推するのは、鑑定人への冒涜(ぼうとく)にほかならない。しかし高裁からは一度も追加データを正式に請求されたことはないことは断言しておきたい。

私は裁判所から依頼されて鑑定をやっただけであり、その結果が裁判官の主観にそぐわなかったからといって、不正鑑定人のレッテルを貼られてはたまったものではない。

また「当審における証人尋問の際に、すべて消去したと証言」とあるが、これは2017年の9月27日の尋問終了間際、裁判長から最後の最後になって「カラーのデータが鑑定書に添付されていませんが」と尋ねられ、「そうだったですか? 付けたつもりでしたが……。そうでしたら申し訳ありません」と思いもよらぬ質問への答え方に疑問を持ったということなのであろうか。

本件鑑定を行ったのは尋問の6年前である。高裁審理がはじまってからも3年半も経過したときのことであるから、もしも請求したいなら、それまでに十分に時間はあったし、精査したいなら、それを元に尋問しなければ意味がないはずである。

すでに尋問が終わったあとで、どうしてカラーのデータが必要なのか、白黒データはカラーデータをコピーしただけであって、中身はまったく同じであるのに、と首を傾げたことであった。

そのときはこの裁判長の言葉の意味がわからなかったが、决定文をみて、あの質問は罠(わな)だったのか、と気づかされたのである。

というのは、「当審における証人尋問の際に、すべて消去したと証言するに至っている」に加えて、決定文には尋問では一度も尋ねられたことのない文章、すなわち「縦線(遺伝子の型を示す背景の帯のこと:引用者注)も不鮮明なものが含まれている」と書かれていたのである。これをもって、本田がDNA型を何らかの意図をもって書き換えたことが邪推されている。

裁判官はどうしても鑑定人の捏造(ねつぞう)への疑惑を、証言として確認したかのような形を取りたかったのだということがわかり、実際にはなかった証言があったと書かれていることに、大変に憤りを覚えたことであった。

しかし私がこの鑑定を行ったときには、対照(袴田さんのDNA型)検査は行っていないのであるから、わざわざ書き換えた場合には、誤って袴田さんの型と偶然に一致させてしまうこともありうるのである。しかし書き換えるとは言っても、出力データそのものを変えることはできず、せいぜいその解釈を変えることができるだけであることも、正しく理解されていたか疑わしい。

わかりにくいDNA鑑定否定の理由

高裁の決定文の全文を読んで明らかなのは、一体いかなる理由でDNAの鑑定結果を否定しようとしているのかが、大変にわかりにくい点である。

①データそのものが捏造か、あるいはすべてが汚染の産物である、といいたいのか、②データの解釈が違うとしているのか、③鑑定に使われた方法(細胞選択的抽出法)ではDNA型は出ないはずといいたいのか、よくわからないのであるが、どうもすべてを中途半端に並べて理由にしたいようなのである。そして、裁判で確認しようとされなかったことが、「疑惑」としてつらつらと列挙されているのである。そして、部分的な疑惑を拡大解釈して、全体を否定するのである。かすり傷をたくさん見つけて、致命傷があると言っているようなものである。

今回の高裁審理は「細胞選択的抽出法」が議論になったから、②が論点であると思われていたが、蓋(ふた)をあけてみれば、決定文では「選択的抽出法」のさらに一部でしかない、レクチン試薬と遠心分離の条件への疑問が、わずか数ページ程度述べられているのみでしかない。およそ2年近くも待ったのに、「細胞選択的抽出法」をやってもらえなかったことについては、何らの問題もなかったかのように無視されている。

さらに意外なのは、DNA鑑定のデータを、裁判官が独自に解釈し直しての疑惑がたくさん並べられていることである。このように難しい試料からの鑑定である以上、データには不完全な部分があるのは当然で、逆にそれゆえにデータは本物であると言えるのであるが、裁判官は根幹にある完全なデータを見るのではなく、不完全な部分があるからすべて認められないとするのである。

こうして汚染細胞が混じっているかもしれない、という微細な空想的仮定を拡大解釈していく。そのうえで、本田鑑定で出されたDNA型は血液由来とはいえず、汚染細胞の型かもしれないと推論し、したがって鑑定は信用できない、と結論づけているのである。

裁判に貢献しようとしたのに……

①については、本田のDNA鑑定は汚染細胞由来が混じっている可能性がある以上、まったく信用できないと疑問を呈する。しかし、どこでどのような汚染細胞が混じったかという根拠を示していない。

汚染の有無は混合パターンになるので、データを見ればわかる。今回の鑑定結果は一人分のデータしか出ていないので、汚染を考える必要はないことは、これまで何度も説明してきたが、無視されて続けている。①の可能性を根拠なしに認めてしまうと、これまで行われてきた、そしてこれから行われるすべてのDNA鑑定が否定されることになりかねない。

②については、もしも解釈がおかしいというのなら、ならばデータをどう解釈すべきかを示すべきであろう。本田は一貫した解釈をしているのであり、それにクレームをつけるのなら、どう読めるかを示さなければ意味がないし、またどう読んだら袴田さんとの一致が証明されるのかを示すべきであろう。

③については、実験すれば正しいかどうかがわかることである。しかし実験はされなかった。

もしかしたら、鑑定は何ら否定できていないことに気づいた裁判官が、ついには「本田が信用できないことが、鑑定が信用できない理由である」ということにしたかったのかもしれない。それにしても、决定文では裁判に貢献した鑑定人のすべてを氏名で表記しているのに、私のことは「本田」とすべて飛び捨てにされ、まるで犯罪人であるかのように非難されなければならないのであろうか。

「細胞選択的抽出法」とDNA鑑定の関係

新聞報道でこれまで何度も大きく取り上げられてきたし、高裁での決定文にも独自の方法だとされてきたから、「細胞選択的抽出法」はかなり難しい方法なのではないか、と思っておられる人も少なくないと思われる。しかも、「DNA鑑定の特殊な方法である」という、誤解を招きかねない説明がなされてきたという面もある。

「細胞選択的抽出法」というのは、先に説明したように、血液型判定に使っている抗Hレクチンによる血球凝集反応によるもので、凝集塊を遠心分離によって集めたものを用いて、DNA鑑定を行ったものにすぎない。原理的には独自の方法ではまったくありえず、応用という面で独創性があるに過ぎない。

また、あくまでもDNA鑑定それ自体とは直接関係はなく、「細胞選択的抽出法」+「DNA鑑定」である。換言すれば、「細胞選択的抽出法」はDNA鑑定に含まれるのではなく、前段階に足し算したに過ぎないのである。

したがって、検察側鑑定人が「大問題」と騒いでいたように、DNA分解酵素を持っている疑いがあったとしても、これはDNA鑑定それ自体に使うわけではなく、試料を確定する段階のものであり、薄い濃度で用いる限り、DNA鑑定には何ら影響を与えない。

DNA鑑定それ自体は、市販されている検査キットを用いた通常の方法をマニュアルどおり正確にやったに過ぎず、決して手品のような方法を用いたわけではない。また今回、DNA鑑定が成功したのは、必ずしも「細胞選択的抽出法」が有効であったからと言えるかどうかはわからない。鑑定に使った方法の有効性と、鑑定それ自体の結果の成否は決してイコールではないのである。DNA抽出に用いた機器や、DNA鑑定に用いた試薬の実力にも関わっていることは明らかである。

しかし「細胞選択的抽出法」は血球細胞を確実に凝集させることは事実なので、回収率や他の細胞との分離力がいかほどにせよ、血液由来のDNA型を拾ってこないことはありえない。

裁判官が正しいと思ったことが採用される怖さ

いずれにせよ、高裁で議論されてきた内容はあまりにも次元の低い論争でしかない。しかしそのことは、非公開の裁判であるゆえに、あまり知られていないのかもしれない。裁判というものは真実を明らかにするものではなく、どちらが論争に勝つかどうかの問題なのであるから、誤ったことでも裁判官が正しいと思ったことが採用される怖さがある。

そもそも、この「細胞選択的抽出法」は本田が独自の判断で用いた方法ではなく、本田自身も何度も普通の方法でいいと主張したにもかかわらず、「血液由来のDNA型を確実に検出する方法はないか」という、静岡地裁の最初の裁判官(决定文を書いた裁判官の前任者)の要求に応えて考案した方法であって、それを今さら、「普通の方法でなぜやらなかったのか」と問われても、言いがかりのように思える。裁判官の間で申し送りがまったくなされていないとしかいえない。

この鑑定の過程がいかなるものであったか、DNA鑑定の基礎から理解するには、拙著『DNA鑑定は魔法の切札か』(現代人文社)に詳しく書いてあるので、興味のある方にはぜひ、一読をお薦めしたい。

すべてのDNA鑑定を却下することに?

そもそもDNA鑑定においては、そこにいかなる細胞が付着しているかを調べることが可能ではあっても、そこから検出された型がどの種類の細胞に由来するかを証明することは不可能である。しかしDNA鑑定で知りたいことは、そこに付着している細胞が何であれ、誰に由来する細胞であるかを知りたいだけである。

しかし今回の高裁決定は、それが何の細胞に由来するかがわからない以上、DNA型が信用できないという高い基準で判断した。これは実際には判断できないことであるから、過去のDNA鑑定に疑問を生じさせ、また今後のDNA鑑定のほとんどすべては認めることはできなくなるであろう。これを他の裁判と切り離して、「袴田事件」のみに当てはまる基準にすることが許されるわけはない。

たった一つの事件でしかない袴田事件のDNA鑑定を却下する基準を設けたことによって、他のすべてのDNA鑑定を却下できる理由を作ったことになるとすれば、今回の決定の責任は極めて大きいと言える。

真実はひとつ。袴田さんは犯人ではあり得ない

肝心なことは鑑定に使われた方法ではなく、鑑定の結果の解釈でもない。鑑定データこそがすべてである。高裁決定はそれをしっかり見ることから逃げている。そこには、袴田さんのDNA型はまったく含まれていなかった。根拠のない汚染細胞を仮定しても、汚染があることを示すデータはなかった。

「鑑定者自身のDNA のコンタミネーションを疑うべき場合である」という言葉も决定文には書かれている。しかしこれは、袴田さんとの比較の意味がない付随的な2つの試料についての誤った比較によるものである。

たとえばその一つの試料については「7つの部位で合計9つの型が検出されている」とされているが、これは対になる2つのアレル(バンド)をバラバラに切り離して、型として読んだことによる間違った理解で、実際には2本のバンドが型として確実に検出されているのは2箇所に過ぎないのであるから、これが本田の型と似ていると言っても意味はないのである。

もう一つの試料についても、「6座位合計7つの型」と書かれているが、6座位からは6つの型しか出るはずはないし、実際には2本のバンドが型として確実に検出されているのは1箇所に過ぎない。ここには間違いが書かれてあるだけでなく、また鑑定人の汚染があるという根拠もないのである。

データに見られる微細な欠点を拾い上げて拡大解釈しても、データの根幹が変わることはありえず、データが語る真実を切り捨てることは不可能である。袴田さんは絶対に「犯行時の着衣」とされた5点の衣類とは無関係であり、犯人ではありえないこと、それこそがDNAが語る真実である

今こそ、このことを直視する勇気を持つべきではないだろうか。日本における司法の威信を世界に示すためにも、最高裁では先入観にとらわれず、客観的な事実に基づいた判断を、と期待する次第である。