10月22日、午後2時から浜松市民協働センターにおいて開催された集会は、数十人の支援する人が集まり盛りあがりをみせた。弁護団からは、最古参の小澤優一弁護士が登壇。半世紀にわたる弁護活動について語った。また、関東学院大学法学部の宮本弘典教授が「袴田再審の壁~検察官司法の古層」と題して一時間余りの講演。何故、無実の袴田さんが無罪にならないのか、そこに立ちはだかる検察官司法という壁を問題とした。太平洋戦争に対応するための刑事司法の改悪が、今なお日本の司法の固い古層として生き残っている歴史をエピソードを交えて語った。(配付された資料を掲載します)
そして、天竜林業高校調書改ざん事件の再審請求人、北川好伸氏がマイクをとった。冤罪被害者として裁判の経過を述べるとともに、無罪判決獲得に向けてともに闘うことをアピールした。
続いて、富士機工障がい者自死裁判、ご両親の鈴木英二・ゆかりさんがあいさつ、署名などの支援を訴えた。
袴田巖さんの姉ひで子さんが最後に登壇。高裁での鑑定人尋問に参加した際の感想や巖さんの最近の様子を報告した。
集会のアピールを配付して閉会。3時間半の長丁場であったが、参加者は講演や報告に聞き入っていた。
袴田巖さんが闘い取った再審開始決定から、3年半が経ちました。
検察の即時抗告を受けた東京高裁は、ここに来てやっと来春の結審にむけた方向性を示しています。あまりに時間がかかりすぎています。
この3年半の審理は、検察の意向に沿った訴訟指揮により、無意味で、無駄な時間が過ぎてしまいました。即時抗告をした検察は、DNA鑑定そのものではない「細胞選択的抽出法」についての異議の申し立が行なわれました。
検察の意向に沿って裁判所が決めた「検証実験」について、弁護団は、DNA鑑定は再審開始決定で決着済みであり、行なうのであれば再審公判ですべきであるなど一貫して反対をしました。
そして、9月26、27日の両日、鑑定人尋問が行なわれました。
その結果、再審開始決定で認められた弁護側鑑定人の行なった「細胞選択的抽出法」が否定されるものではないことが明らかになりました。
もとより、再審開始決定はDNA鑑定結果及び、5点の衣類の味噌の色のみならず、新旧証拠の総合評価によって判断が下されています。
さらに私たちは、専務によって蹴られて出来たとする「すねの傷」が、袴田巖さんの逮捕後警察官によって作られた傷であることを突き止めました。50年目にして明らかになったねつ造証拠です。このような違法捜査が認められていれば、無実の死刑囚は作られなかったのです。
すなわちすねの傷がないことで、5点の衣類のズボンの鍵裂きとの関係はなくなり、5点の衣類そのものが犯行着衣でなくなります。このことから5点の衣類がねつ造証拠であることがいっそう明白になり、DNA鑑定を云々する必要はなかったことになります。
袴田巖さんが言うように「事件も、裁判もない」のです。
これ以上の時間は必要ありません。
東京高裁は、袴田巖さんの命のあるうちの再審の扉を直ちに開くべきです。
2017年10月22日
【資料】
プロローグ
大逆罪が刑法の中核を占めていた前近代から現在に至るまで,実力=暴力による支配・抑圧という刑事司法の原初的な性格は一貫して変わらない。とはいえ近代以降の自由主義の下では,刑法と刑事司法は抑圧的暴力としてではなく,公共財や公共的価値を維持するための「正しい」暴力として定義され感受されねばならなかった。司法の非政治性,即ち「司法権の独立」というイデオロギーもそうした刑事司法の正統化戦略にほかならない。
もっとも,非政治性をも含む司法権の独立は残念ながらニホンでは確立されることがなかった。それどころか日本国憲法の制定以降も,それ以前と同じく司法が自ら進んで政治性を帯びていった。その経緯と実相はいまから約半世紀前の家永三郎や,さらに最近の内田博文の著作に詳述されている 。家永の診断によれば,ニホンにおける司法権の独立は「一片の神話――二十世紀の神話の一つにすぎない」 。検察優位が確立していた敗戦前の旧司法省による裁判(官)統制は,「検察官司法」として刑事司法の戦時体制化とともにその極致を迎え,とりわけ政治犯における刑事裁判の形骸化を顕著にした。この「検察官司法」が現在もなお温存され強化されているというのが内田の診断である 。
「検察官司法」とは,身柄拘束下での取調べ等の捜査・(起訴および)公判・保護観察等をも含む行刑といった刑事司法の全過程における検察官の支配的関与をいう。この「検察官司法」は戦時体制下における思想司法の下でその極致をみる。すでに検察は思想的総力戦体制の構築に先立って,思想国防を使命とする思想司法の展開に尽力していが,思想司法である限り,治安維持法等の治安刑法の前景化・全面化は必然であった。その成果は歴史の教訓に反する自白依存司法である。治安維持法裁判に明らかなとおり,思想司法の下での「検察官司法」がもたらしたのは,被告人の行為ばかりかその全人格について法的のみならず道徳的にも断罪するという,恐ろしくも無残な刑事裁判であった。個人の尊重=人間の尊厳と人権の保障を標榜する日本国憲法下において,こうした「検察官司法」が命脈を保つことは当然に許されるはずもなかろう。
しかし,供述調書が刑事裁判の主役を演じる検察官司法は精密司法と称され,敗戦前後を通じて一貫するニホンの法文化として形成され定着したものとして,むしろこれを肯定的に評価する立場もある 。歴史的省察のはなはだしい欠如といえようか。求められるのは,こうした裁判のモードとエートスが「検察官司法」によって醸成され,権威主義国家の思想司法においてその頂点に達し,―数多の冤罪誤判を生出した―自白依存司法の全面化に至ったという歴史の省察であろう。
本稿は先行研究に拠りつつ,いわばニホン司法の「古層」ともいうべき思想司法の,そしてその下で猛威を揮った検察官司法のモードとエートスを確認することで,なおそれが日本国憲法の理念に相応しい(刑事)司法改革の課題であることを示唆しつつ,あるべき改革の前提をなす歴史の省察を促そうとするものである。
1945年の「司法の民主化」の夢
日本国憲法は第31~40条にわたって10箇条もの人身の自由の規定を置き,そのうち刑事手続に関するものが8箇条に及ぶ。世界的にも例をみないこの詳細な規定は,上述の思想司法とも称される戦時刑事司法による抑圧と人権侵害に対する深刻な省察の成果であった。日本国憲法の下では,ファシズム暴力が支配する権威主義国家におけるこのような刑事司法は,その形式においてもエートスにおいても,またその論理と心理においても断乎排斥されねばならなかった。
ところで日本国憲法がいまだ草案であった1945年6月,法律時報の同月号に「司法の民主化」に関する3点の論攷が掲載されている 。著者は,再三にわたって治安維持法違反で検挙され弁護士登録の取消と再登録を経て,戦後は三鷹事件,松川事件,白鳥事件等の公安事件の弁護人も務めた岡林辰雄,東北帝国大学や法政大学教授を経て弁護士となって帝人事件,人民戦線事件,ゾルゲ事件等を担当し,1946年衆院議員に当選して翌47年には片山内閣の司法相,48年法務庁新設により初代法務総裁となった鈴木義男,そして民事訴訟法学者で49年に日本学士院会員となった中村宗雄である。
人身の自由の保障は刑事司法における自由主義の貫徹を意味するが,その実現には司法の民主化が必須の前提となろう。彼らは一致して,司法の民主化のためには「天皇の裁判官に依る天皇の裁判」から「人民に依る人民の裁判」への完全な移行を要し,「檢事の判事に対する優位と云ふか,事実上の圧力の過重と云ふこと」に起因する「官僚的司法制度」ないし「司法の官僚性形式主義」と訣別せねばならないという。
「司法部は,その機構と,その擔當する任務の然らしむる處,獨り我が國のみ ならず,孰れの國に於ても保守的であり,……されば司法制度の民主化は,……徹底的に行はれなければならぬ。……この裁判所が,保守的・官僚的色彩を脱却し能はないで,反動的役割を演ずるとするならば,我が國の民主主義化は,到底,満足の結果を収め得ないであらう」(中村)
戦時刑事司法の「反動的な役割」はもはや論をまたないが,注意すべきは「官僚的司法制度には,檢事の専横は附きものである」(中村)という歴史の省察であろうか。日本国憲法による司法権の独立以前には,裁判所と検事局がともに司法省の下に並置されて司法相の監督に服し,司法省部内における検察優位が確立して,司法制度ばかりか個別の具体的な裁判にもその―思想司法の貫徹による刑事司法及び裁判の政治化という―影響が及んだという痛恨の記憶である。
「司法省の枢要部を檢事等が占める傾向が強く,歴代の司法大臣も檢事出身の方が多く,……人事の進退任免にもある種の影響を及ぼすことになって,……職務の獨立性のために孤立分立せざるを得ない判事に対して,(検事が―引用者)優位を占めるに至ることは過去の事實の示すところである」(鈴木)
司法行政をも含む司法権の独立の不在が,思想司法を牽引した戦時の検察官司法の強化と全面化の一因をなしたということである。その猖獗の記憶はなお生々しかった。
「日本の現在の司法制度は國民大衆を抑壓し欺瞞しそのすべての自由を奪つて,暴虐な帝國主義戦争にかり立てるための國家機構の一部として打ち立てられたものである。この様な國家機構の中にあつてとくに治安の維持,すなわち戦争に反對する者に強壓を加へるための機能を果たしてきたものが現在の司法制度である」(岡林)
このような検察官司法という色彩の強い「官僚的司法制度」との訣別を果たすには,
「……先づ何よりも國民大衆の自由の敵,集會結社言論出版信教の自由の抑壓のために働いてきたすべての司法官吏をその地位から一掃することが必要である」(岡林)
「……徹底的な人事の入換へを行ふ必要がある。……矯激の感はあるが,この際,司法部高等官,判檢事全員の一應退職の建前を執るべきであらう」(中村)
しかし,「このやうな司法制度の民主化が何の障碍もなくすらすらと行はれるものでないことは誰の眼にも明瞭であ」り(岡林),司法官僚や判検事の一斉罷免は固より,刑事裁判の改革のための起訴陪審を含む陪審制の採用,公判廷以外の自白の証拠能力の排除等も含めた彼らの主張は実現しなかった。憲法制定直前の瑞々しい司法批判にもかかわらず,権威主義国家の思想司法の培養基となった官僚司法のモードとエートス,したがってまた刑事司法における検察官司法のモードとエートスは,日本国憲法の下でもしぶとくその命脈を保つことになった。
検察優位の今昔
たしかに,検察は戦後の軍部解体と国家警察の解体に伴い,国直属の唯一の治安機関として戦時体制下の権限をさらに強化しつつ今日に至っている。現下のニホンの刑事司法においても検察官司法の残照は顕著である。最高裁調査官を務めた元裁判官も「強すぎる検察」の弊を率直に吐露する。
「ところで,わが国の刑事裁判システムは,圧倒的に検察官に有利に運用できる仕組みになっています。……勾留期間は長いですし,被疑者・被告人と弁護人の接見交通権も大きく制限されています。公判段階での証拠開示制度もきわめて不備です。さらには,取調べが可視化されていないだけでなく,自白の任意性に関する審査がまことにずさんです。そして,それであるのに,無罪判決に対して検察が控訴・上告して争うことが認められています。こういうシステムの下では,えてして無辜の人間が冤罪に泣くことがあり得ると思います」
「当時私はまだ司法修習生でしたが,……東京地裁民事部のY裁判長から,こんなことを言われました。……刑事裁判は,検察官が事実認定をしてしまったらもう事件は終わったのも同然で,裁判所はただ,その認定を追認しているだけじゃないか。あとは量刑だが,量刑はだいたい求刑を少し割り引いてやればいいんだから,そんなものはバカでもできるはずだと。……
……それから20年近くたちまして,……友人のN検事から,……「裁判官は,検事の主張とあまり違ったことをしないほうがいいぞ。何故かというと我々はむずかしい問題については,庁全体あるいは高検,最高検まで巻き込んで徹底的に協議してやっているんだ。それに比べてあんたたちはいったい何だ。一人かせいぜい三人じゃないか。そんな体制で俺たちに勝てるはずがないんだ。仮に一審で俺たちの主張を排斥して無罪判決をしたって,俺たちが控訴すれば,たちまちそんな判決は吹っ飛んじゃうんだ」とだいたいこういうことをはっきりと言われました」
「N検事が言ったように,検察官はここぞというときには,庁全体,あるいは高検,最高検まで巻き込んで徹底的に議論してきます。……こういう場面になると,検察官の態度は高圧的で,場合によっては不遜ですらあります」
敗戦後間もなく司法省が解体され,日本国憲法によって最高裁を頂点とする司法行政の独立と裁判官の独立が保障されたにもかかわらず,検察優位は,敗戦前後を通じて一貫するニホンの刑事司法の現実である。
その実情は,上述の家永の先行研究において豊富な資料に拠りつつ示されている。先ずは現役大審院判事の―内容自体は実にまっとうな―恨み節から始めよう。
「7代も8代も司法大臣が検事から任命せられたり,永く司法省の行政官に在任して裁判の実務に遠ざかり,裁判の実務に付き切磋琢磨を欠いで居る者が他の官庁の行政官同様に昇進した其の地位の儘で再び帰つて裁判所の上層の要職に就き又就き得る機構では,裁判の実績の上に,又裁判官の士気の上,将又裁判の独立の上に,実に寒心に堪へない悪影響を及ぼすのである」
司法省部内における検察官優位の事実は歴然であった。1923年(大正12年)9月6日,平沼騏一郎が第2次山本内閣で司法相に就任してから45年の敗戦まで,司法相に就任した者19人のうち検察官出身者が実に13人を占める 。こうした検察支配による官僚制司法によって,後述のように「実に寒心に堪へない悪影響」として上層部に迎合を示す裁判官の気風も生じた。もっともそれはたんなる歴史のエピソードではない。現在でも,最高裁判事あるいは高裁長官に就任するのは,最高裁事務総局勤務等の行政畑の長い裁判官たちで,いわば「行政官に在任して裁判の実務に遠ざかり,裁判の実務に付き切磋琢磨を欠いで居る者」だからである 。
家永が引く丁野暁春の退官後の叙述がこの点で興味深い。丁野は後述のとおり,最高裁草創期に細野長良を推す司法権独立の改革派グループの中心を占めた裁判官である。
「横田(大審院―引用者)院長は,自分は裁判所で裁判ばかりやり,一度も司法省へ入らなかったが,大審院長になった,と申されました。この言葉は,電撃のように私の胸を打ちました。私は,裁判所は裁判をやる所であるのにその裁判だけをやっていては要職につけない,要職につくためには司法省の行政官を経なければならないということは,何という裁判権への冒瀆蔑視であるかと思いました」
司法省部内における検察優位は,現実の裁判にも悪影響を及ぼした。家永が引くのは,裁判長として吹田黙祷事件の当事者となった佐々木哲蔵の回想である 。
「司法大臣は……司法部内から出る場合は検察畑出身の人々がなる場合が比較的多かった。このため裁判官の人事の実績が検事出身者によって握られるということが,場合としてはむしろ多かったと思われる。日本の裁判官が司法組織の中で昇進を望む普通の官吏である限り,そして事実は一般にそのとおりであったが,そのような状況ではいきおい裁判において検事側に気がねする,検事側から一番風当りの強い無罪の裁判をするのにひとつの人間的な「勇気」を必要としたということは,当時としてはけだし必ずしも無理からぬものがあったと思われる」
とはいうものの,現在の刑事裁判の無罪率は戦前・戦中のそれを下回り,戦争拡大に伴う「検察官司法」の貫徹の時期のそれをも下回っている 。戦後の官僚司法においてはさらにいっそうの「人間的な「勇気」」を必要とするということなのだろうか。
思想司法のエートス
いずれにせよ「ひとつの人間的」な在り様として,裁判官の検察に対する迎合も目に余った。ことに,裁判官に対する優位性を保持した検察は自らの精華を思想司法に求める傾向を強くしたから,思想犯罪=政治犯においてはなおさらであった。家永が引く1935年11月の思想実務家会同における判事の発言を瞥見しておこう。
「言葉が甚だ悪いのでありますが,裁判所で分からない時は検事の意見に従ふ方が寧ろ正しいと思ふから,十分に有の儘を述べて貰ひたい。繰返して申すやうでありますが,思想犯罪事件の取扱に付ては,裁判所独自の立場に在て事件を処理すること固よりでありますが,十分裁判所の一審二審三審と竝に検事局裁判所に於ては極めて緊密なる連絡の下に事件を処理することが必要であると云ふことを述べたいのであります」
38年の思想実務家会同からも,「只今池田検事閣下から色々御説明下さいましたから」(神戸地方裁判所判事・中川種治郎)とか,
「又池田大審院検事殿の御話も承りまして,非常に啓蒙さるること多大でありまして……非常に喜ばしく,又此の種の会同の意義深さ,有難さをつくづく感じた次第であります」
といった発言が引かれている。ここに現れる池田克は,後述のとおり一貫して司法省の中枢に位置した代表的なエリート思想検事である。
この「検察官司法」の支配は,戦争の長期化と全面化に伴って,司法の使命を自覚的に―戦争遂行と国家存続に不可欠な―治安管理強化ないし現存秩序維持に求めることで政治色を増し,「思想国防」のための思想司法の下でその頂点をきわめた。家永の引く司法相訓示や大審院長演述にもそれが色濃く顕れる。まずは塩野季彦である。塩野は平沼騏一郎の下で司法省に塩野閥を形成した思想検事で,後に司法相を務めて「司法精神の作興」を唱導し,退任後は小野清一郎や安平政吉らを糾合して日本法理研究会を主宰するなど,戦時刑事司法のイデオロギー形成に重要な役割を担った―塩野の父も検事であったが,息子の塩野宜慶も東京高検検事長で退職した後,大平内閣により岡原昌男の後任として最高裁判事に就任している(1979年4月2日~1985年5月22日)。そうした人物らしく,塩野の司法相としての訓示は,思想的総力戦下における治安管理の枢要を思想取締に求め,日中戦争全面化という「時局」において司法が果たすべき政治的・道徳的統合機能を強調する。
「……或はこの非常時に於ける安寧秩序を紊乱する思想犯罪に対しては,厳重なる取締を励行し,以て長期戦下の国内治安保持上遺漏なきを期せられ度いのであります」
「凡そ近代戦は所謂総合的国力戦であり,思想戦を其の一要素とするものでありまするから,職を司法部に奉ずる者は思を茲に効し,軍後の治安確保に努め,以て今次聖戦究極の目的を達成するが為に貢献しなければならないのであります。仍て各位は……苟も国内治安を紊るが如き一切の詭激思想竝に反軍反戦的言動に対しては厳重なる取締を励行すると共に,……」
検事総長から大審院長に転じた泉二新熊の訓示も同様である。
「従つて国体に背戻する思想犯や現下の統制経済を破壊して聖戦の遂行竝に銃後の共存を危うする違反行為の如きは,とくに宥恕すべき事情の存する場合を除くの外,法律の精神を貫徹する為厳重なる制裁を加へて敢て仮借する所なきを期すべきであります」
もはや司法権の独立も裁判官の独立もかなぐり捨て,専ら国益保持のための国策遂行に即した司法権の道具化が語られているわけである。41年5月の司法部会同における大審院長・長島毅の演述と法相・柳川平助の訓示は,さらにストレートに司法権の政治化を求めている。上述のとおり司法相の多くを検事出身者が占めたが,大審院もまた検事閥ないし司法閥という司法官僚制を免れていなかった。大審院長就任者の多くが本省勤務とともに検事職を兼ね,司法官僚閥という点でも司法省支配下にあったからである 。
「司法部は国家秩序の鎮護として其の維持に当る使命を持つて居ることは勿論であり まして,……吾国が此の如き難局に処して躍進を続けつつある情勢の下に於ては,司法部が其の上に超然たり其の外に遊離することを許さるべきではありませぬ。……司法は現に存在する秩序を維持することを本来の使命と致しますから,……時勢の変化に順応追随しつつ而も之を誘導すべきものであります」
「惟ふに近時思想界竝経済界に急激なる変遷を来たし,その体制亦将に革新せんとするの秋に当りまして,若し司直の府に在る者,仍ほ旧套を墨守して社会の推移に順応するの用意なくば,司法官としてその職責を尽すこと能はざるは勿論,遂には司法の威信を失墜するの虞ありと謂はねばなりませぬ」
田中コートの政治色
ファシズムに順応し得ぬ司法は威信を失墜するというこの論理を笑うことはできない。後述のように細野や丁野といった司法権独立を主張する改革派判事を排して設立された最高裁も,冷戦構造による占領政策の転換とそれに続く保守支配層による「反共的ないし反憲法的政策」という政治的「情勢」に敏感に反応し,第2代長官・田中耕太郎の頃には,最高裁の「政治的態度の積極化」が顕著になったからである 。
「……田中耕太郎は,ミリタントな反共主義者であり,田中とこれに同調する一群の裁判官が最高裁の多数意見を形成した場合には,裁判にせよ司法行政にせよ,いちじるしい政治的色彩を帯びることを免れず……講和条約が発効して占領軍の裁判干渉が行われなくなったかわりに,あたかも占領軍からバトンを受けついだかのように,最高裁判所から下級裁判所への干渉が露骨に人の目を惹きはじめてきたのであった」
田中は就任時に,「私は国家の番犬になる」と言い放ち,裁判所を明確に治安維持機構と位置付けた。現に,田中の最高裁在任は10年に及び,その期間には松川事件やメーデー事件などの大型公安事件で数多くの無罪判決が出されたにもかかわらず,田中自身による無罪判決や無罪意見は皆無である 。たとえば,松川事件における広範な裁判支援闘争に対して,1969年5月25日の高裁長官・地裁所長会同におけるいわゆる「雑音訓示」では,「社会的勢力とくにジャーナリズムその他一般社会の方面」からなされる裁判批判に対する拒絶と嫌悪を露わにし ,広範な裁判批判について,
「……言論その他表現の自由をもってしても放置できないところであります。……裁判官としては世間の雑音には耳を貸さず,流行の風潮におもねらず,道徳的勇気をもって適正,敏速に裁判事務の処理に最善の努力を尽くすことが裁判官倫理であ(る)」
と述べ,被告人のアリバイを示す「諏訪メモ」の存在の発覚などにより原判決差戻しを命じる大法廷判決(最大判1958・8・10刑集13・9・1419頁)でも,
「多数意見は,法技術にとらわれ,事案の全貌と真相を見失っている。……法技術の末に拘泥して,大局的・前提的判断を誤ることのないこと,つまり,木を見て森を見失わないこと(が求められる)」
という反対意見を述べて多数意見を批判している 。また,やはりメーデー事件や吹田事件,大須事件等の大型公安事件におけるいわゆる「荒れる法廷」対策として「法廷等の秩序維持に関する法律」(1952年7月31日法律第286号)が制定された際には,
「法廷の秩序を無視すれば必ず制裁を受け,不利益をこうむることを痛切に自覚させることである。……氏名の黙秘は不利益供述拒否の濫用ではなく,権利自体として認められないのである」
と述べるなど,むしろ人身の自由に敵対的で強硬な秩序維持への姿勢が目立った。
とりわけ政治問題についての姿勢は,―敗戦前の司法部と同様―政治的考慮によって既成事実を追認し,違憲審査権を事実上放棄して司法に求められる基本権保護の使命にも背を向けるという傾向が明らかであった。その典型は1959年12月16日の砂川事件大法廷判決(刑集13・13・3225)であったろう 。この判決に至るまでの―暗躍ともいうべき―田中の政治的な動きは,
「独立主権国家であるはずの日本の,しかも独立しているはずの司法の頂点に立つ最高裁長官が,実は米国にだけは服従し「秘密漏示」までして,米国の思惑通りの判決をリードし,弁護士出身の最高裁判事も含め,全裁判官がそれに従った,という醜悪ぶりであ(った)」
顕著な政治化を示す田中自身の発言を家永に拠りつつ確認しておこう。まずは1952年の「新年の辞」だが,「赤色インペリアリズム」の「世界制覇の野望」という反共姿勢も露わに,片面講和を批判する南原繁らの「全面講和」論に対する吉田茂の「曲学阿世の徒の空論」発言を支持するものである。
「わがインテリゲンチャの平和論や全面講和論くらい,その真理への不忠実と倫理的無確信を暴露しているものはない。……もし彼等が真に真理と平和に忠実ならば,共産主義でない限り平和条約や安全保障条約に批判を加える前に,それ以上の熱意をもってまず共産主義の理念及びこれを奉ずる国々の現実に批判を向けなければならないはずである」
また,1960年5月の裁判官会同での訓示も引かれる。憲法への忠誠を盾にとって裁判官に一定の党派的立場の固守を求める反憲法的な訓示である。
「さらに裁判官に要求されるのは,裁判官倫理の基礎をなす世界観であります。……裁判官の政治的中立は,憲法に対する絶対的忠誠を当然に前提として,党派的な行動をしないということであり,憲法政治を破壊しようとする主義や立場に対する中立,寛容を意味するものではないのであります。司法においては「二つの世界」の対立をゆるしません」
田中コートにおける「最高裁判所の政治的態度の積極化」 に対する家永の診断はこうである。
「これらの発言には,……昭和十年代の司法大臣や大審院長の発言とその趣旨・意図において符節を合するものが多々見られるばかりでなく,裁判官に対する威嚇的語調においても昭和16年の柳川訓示や(後述の―引用者)同19年の東条訓示を凌駕する程度に達しており,裁判官会同の訓示に関する限り,田中長官就任後の裁判官は太平洋戦争時代と同様の状態に置かれてきたといっても言いすぎではないのである」
かくして,日本国憲法による司法権(と裁判官)の独立の保障にもかかわらず,最高裁は自らを国策遂行による国益擁護のための秩序維持機関と位置付け,官僚司法の下で裁判(官)統制の確立と徹底を進めている。最高裁設立と同時にすでに事務局(後に事務総局)にあった後述の石田和外を含め,田中コート時代に約8年にわたって事務総長を務めた五鬼上堅磐 や後任の横田正俊をはじめとして,田中コートを支えた事務総局の背広組から後に最高裁判事となった者は,吉田豊,岸盛一,関根小郷,岸上康夫,江里口清雄,栗本一夫の8名を数え,さらに司法研修所長の松田二郎も最高裁判事になっている。最高裁を頂点とする敗戦後の司法部おいて,戦前の司法省と同様の官僚制機構がすでに確立していたことが窺われよう。この頃にはすでに,最高裁事務総局から東京・大阪高裁長官に転じて最高裁判事に就任するというコースが確立していた。それはあたかも,司法省次官が東京・大阪控訴院長に転じるという旧司法省の前例の写し絵であった 。
追放劇の茶番
日本国憲法の理念にしたがえば,権威主義国家のファシズム暴力の一翼として猛威を揮った戦時司法のモードとエートスを徹底的に排斥し,被疑者・被告人の防御権の保障による冤罪誤判の防止と無辜(および冤罪被害)の救済を理念として,「無罪の発見」こそが刑事司法の最大の使命とされねばならなかった。具体的には戦時糺問手続として完成型をみた―現在もなお続く―自白依存による「精密司法」との訣別であり,刑事裁判からの道徳性の放逐である。
だが,こうした理念をスローガンに終わらせることなく実践するには主体の問題があった。戦時責任にもとづく公職追放が司法関係者には十分に及ばなかったからである。先ず1945年10月4日の「人権指令」による罷免は,警察関係者4990名に対して司法関係者1185名であったが,司法関係者は保護観察関係者のみで,思想司法の本丸はほぼ無傷で残された。それに続く46年1月4日の「公職追放令」によって,G項「その他の軍国主義者及び極端なる国家主義者」に該当する者として,特高関係者319名が追放されたが,
「46年5月に司法省関係の追放該当者は36名,47年1月には1名増えて37名となった。すべて思想検察の関係者であった」
このいわゆるG項審査は,8年以上あるいは1941年3月(保護観察関係は4月)以降4年以上にわたって,特高警察(警部以上)や思想検察(検事以上),あるいは保護観察(所長または監察官以上)に従事した者,12の重要刑事(労働・公安)事件処理に重要な役割を果たした者といった基準によって行われた。しかし,代表的な思想検事の玉沢光三郎 ,司波實 ,追放解除後に検事総長となった井本臺吉 らの回想によると ,この基準を策定したのは,当の追放対象者たる思想検事の太田耐造,平野利,追放解除後に検事総長に就任した清原邦一ら司法省の課長クラス5人だったという。思想検事自身によるこの責任追及が,真摯な歴史の省察によるものでなかったことはいうまでもない。
「これらの追放該当者のなかには,泉二新熊,正木亮,三宅正太郎,池田克,森山武一郎,戸沢重雄,清原邦一,太田耐造,井本台吉,玉沢光三郎,吉江知養,山口弘三,平野利,横田静造,中村登音夫,佐藤欽一らが含まれる。この人たちは51年には全員追放解除になったが,池田は54年に最高裁判事に,清原は59年に,井本は67年に検事総長に就任している。……そして裁判官のなかから公職追放になった者は1人もいなかったのである」
こうして上述の1946年の「司法の民主化」の夢も虚しく,戦後も権威主義国家の思想国防を担った人員が温存され,日本国憲法の下でも思想司法のモードとエートスがその命脈を存えることになった。
改革派・細野長良の敗北
旧態依然の論理と心理の支配は,1947年5月3日の日本国憲法施行とともに―実質的には長官をはじめとする判事が任命された8月4日―発足した最高裁設立時の司法部内の暗闘においても明らかである。最高裁発足前の最後の大審院長は細野長良であった。1940年広島控訴院院長,敗戦後の46年に大審院長に就任し,最高裁が発足した47年8月に退官した。司法の独立を確立するため,検察官優位の原則が支配する司法省から裁判所を分離すべきだとの主張は,敗戦前から一貫する細野の主張であった。1944年2月の全国裁判所長官会同において,首相・東条英機が「必勝ノ為ノ司法権ノ行使」には裁判官の「頭ノ切リ換ヘ」が必要だとして,政治犯に対する苛斂誅求のさらなる徹底を求め,
「苟且ニモ心構ヘニ於テ,将又執務振リニ於テ,法文ノ末節ニ捉ハレ,無益有害ナル慣習ニ拘ハリ,戦争遂行上ニ重大ナル障害ヲ与フルガ如キ措置ヲセラルルニ於テハ,洵ニ寒心ニ堪ヘナイ所デアリマス」
と述べ,思想検事による従来の批判と同様の批判を加えたのに対し,首相が裁判に示唆を与え,「頭の切り換え」を要求することは憲法のある限り許されないとの意見書を法相に提出した 。敗戦後の最高裁設立時には,細野を中心とする司法権及び裁判官の独立を標榜する裁判官が,「さつき会」と称する非公式のグループ―GHQ民生局の司法部担当であったオプラーは当初このグループと接触しつつ司法制度改革を進めようとした―を形成したものの,細野をはじめ同志ともいうべき丁野暁春,根本松男(ともに大審院判事),河本喜与之(司法省人事課長)らも含めて,改革派はことごとく草創期の最高裁から排除された。司法権独立の改革派は,司法省との間に確執を生んで敗れ去り,最高裁判事に就任し,あるいは事務局(後の事務総局)のポストを占めて現在に至る官僚制支配の基礎を形成したのは,守旧派の司法省エリートであった 。
最高裁創設に際しては,日本国憲法施行直前に吉田内閣の下で裁判官任命諮問委員会が設置されたが,日本国憲法下における裁判官たる「資格審査」を主張する細野を支持したのは南原繁(東京大学総長)のみで,草創期の最高裁判事に就任した真野毅(弁護士),長谷川太一郎(同),澤田竹治郎(行政裁判所長官),そして後に最高裁判事となった谷村唯一郎(司法次官)らも含めて,他の委員はすべて細野の反対に回った。もっともこの諮問委の推薦名簿はGHQの支持を得られず,総選挙後の1947年6月1日,片山内閣の下で新たに裁判官任命諮問委が設置された。司法省の反細野派のこの間における動きは激しく,細野を中傷するため,大審院判事の下飯坂潤夫(後に最高裁判事),大審院部長の井上登と島保(ともに後に最高裁判事),東京地裁判事の松田二郎(後に最高裁判事)らが民政局長ホイットニーやオプラーを交互に訪問している 。草創期の最高裁判事をも含めた多くの司法エリートが,慣れ親しんだ司法省支配下の官僚制司法の温存を図ったということだが,細野の主張する「資格審査」によって戦時を含めた自身の司法官としての在り様が問われることへの畏怖や嫌悪もあったろう。裁判官も検察官も,当初から歴史に対する省察に背を向け,日本国憲法に相応しい司法改革への意思を欠いていたということである。
現に,第二次諮問委においても細野らは敗れた。細野の反対にもかかわらず,この諮問委の委員となるべき裁判官の選出は選挙によった。その選挙案をまとめたのは,後に最高裁事務総長を経て最高裁判事となった五鬼上堅磐である 。4名の裁判官委員に対して6名の裁判官が候補者となったが,うち細野派とされるのは宮城實(大審院判事)1名,他は中間派とされる坂野千里(東京控訴院長)と反細野派の島保(大審院判事),藤田八郎(大阪控訴院長),岩松三郎(福岡控訴院長),垂水克己(宮城控訴院長)であった。宮城の当選を阻止すれば,細野(派)は諮問委における影響力をもてないことになるだけに,反細野派による選挙活動は激しくかつ徹底的に行われたようである。そのなかで,奇怪で醜悪な事態も生じた。投票日の直前に―中間派の坂野が長官を務める―東京控訴院判事の長野と谷中を発信人とする電報が全国の裁判官宛に届けられた。その内容は,「坂野院長諮問委員たる意思なし,院長の諒解にて打電す」というものであった。中間派の坂野は最有力候補者と目されていたが,この電報の影響もあって坂野への票が反細野派の候補者に流れて細野派の宮城の固定票数を上回り,結果は反細野派4人の当選となった。
ところで,吉田内閣下の諮問委と同様,この諮問委の委員を務めた島,藤田,岩松は草創期の最高裁判事となり,垂水も後に最高裁判事となっている。細野によれば,上述の東条訓示に対する意見書は大審院長の長島毅に加えて,島(当時東京刑事地方裁判所長),藤田(同大阪地方裁判所長),岩松(同広島地方裁判所長)らにも送付されたが,細野自身の述懐によると,彼らは東条訓示に一言の反論もせず,岩松に至っては公然と細野を非難する始末だったという 。その岩松は誌上座談会で細野について,「野心をもった人」であり,司法権独立を主張する細野の行動についても「一片の名誉心とか野心というもので動いていたように思える」と述べている 。裁判所高官が上述の東条訓示に対して,
「ほとんどすべて平身低頭の有様で,中にはわざわざ書面を東条政府に奉り協力を誓った者さえあった」
という状況で,細野が「一片の名誉心とか野心」で司法の独立を主張し,軍部の強大な力を背景とする東条を真っ向から批判したとは思えないが,そうした細野の硬骨ぶりがむしろ当時の司法エリートの自負や自尊心に影を落としたのであろう。「だから細野さんさえ長官にならなければ,僕らは満足」 という精神的な野合を生んだのかもしれない。
最高裁発足に向けて細野と行動をともにした河本喜与之は,発足時の最高裁判事となった岩松,島,藤田,井上らと細野が対立しており,
「そんなこと(上述のニセ電報―引用者)までして,……反細野派の連中が一緒になって,細野派をやっつけたということですね」
と当時を振り返っている。また同じく細野支持の根本松男も,司法省主流派が「細野氏が出たら,何をされるかわからんと警戒し,これを排撃しようとした」 として,「あの人が最高裁長官になっていたら,最高裁ももう少し変わっていたかもしれない」 と述べている。
もっとも,細野らの改革理念の純粋性や一貫性が日本国憲法のそれに即したものであったというなら,それは過大評価というべきかもしれない。
「この時の「改革」というのは,私をして言わしめれば,多分,裁判官の地位を高めるという,そういう意味での「改革」派であって,何も天皇の名による裁判自体を改革しようと考えていた人たちではないと思います」
官僚司法内部のコップの中の嵐であるにせよ,それにしても残念なのは,やはり歴史の省察の欠如であろうか。ファシズムの暴力支配という歴史への省察は,その圧制を生み出しまた―積極か消極かの差こそあれ―草の根で支えた大衆・民衆の責任にも及ばずにはいない。ファシズムの貫徹形態が治者と被治者の意思の一体化ないし同質化であるなら,大衆・民衆の―強制された擬制ではあれ―支持なくしてその実現はあり得ないからである。日本国憲法の出発点は上述のとおり,権威主義国家におけるファシズム支配という歴史の省察にある。しかしその日本国憲法の制定・施行によっても,ニホン司法は思想司法に典型的な戦時「検察官司法」のモードとエートスを乗り越えられなかった。ニホン戦後司法「改革」は,その出発点においてすでに頓挫を見ていたということである。
小野清一郎と団藤重光
ここではいくつかの固有名詞を手掛かりに,超克されざる戦時司法の論理と心理の壁を示唆しておく。
まず研究者の小野清一郎から始めよう。小野は,上述の塩野季彦主宰による日本法理研究会において中心的な地位を占め,天皇制イデオローグとして刑法による国家道義の実現を主張し,権威主義的ファシズム国家における戦時司法体制のイデオロギーづくりに尽力した 。その主張は『日本法理の自覚的展開』(有斐閣・1942年)に余すところなく開陳されているが,
「いまは批判されるだろうと思いますが,全面的に撤回するつもりはない。あれはやはり私の本音で,戦時下における法学者として国民の精神的態度を率直に論じたものである」
と述べているように,敗戦後においても刑法のモラル統合機能を重視し,したがってまたモラル統合を含む治安維持機構としての刑事司法の側面を強調した。1946年の公職追放は翌年に解除されて弁護士となり,55年には第一東京弁護士会会長,日弁連副会長,56年から法務省特別顧問に就任し―保安処分や集団犯罪の重罰化といった治安維持に傾斜した―改正刑法草案の作成をリードした。
続いては団藤重光である 。戦前は東京帝国大学法学部助教授としてイデオロギー色の薄い手続法研究に勤しみ,天皇制イデオローグとして活躍した小野とは異なり,戦後も東京大学教授として戦後刑事法学の泰斗の地位を確立した。1974年10月4日~83年11月7日最高裁判事を務めている。戦後刑事司法改革による現行刑訴法について団藤は,「単なる政治情勢の変化という以上に,より深い社会的必然性」によるものであり,「刑事手続の改革は,社会的要素そのものの近代化という根本の問題と結びつけて考えられなければならない」とした。しかしその一方で,改革は本質というより重点の変化に過ぎず,刑事裁判の使命は実体的真実の究明にあり,戦時「思想司法」の糺問裁判に典型的な職権主義は「表面から退いたかわりに,背後には常に根本原理としてひそんで」いるともいう 。真実究明のためには自白依存の「精密司法」というニホン型刑事司法の「岩盤」を維持すべきだということである。ファシズム体制下の思想司法やモラル司法の歴史に対する省察の欠如というほかあるまい。封建遺制の克服といった「社会的要素そのものの近代化」それ自体が,歴史的省察による我われ自身の責任の自覚なしには実現し得ないからである。
こうした歴史の省察の欠如は学界のみにとどまらない。すでに示唆したとおり,最高裁を頂点とする裁判所も同様である。上述の司法官僚たる思想検事による自作自演の追放や最高裁設立の経緯にも明らかなとおり,戦時司法官僚制のモードとエートスは,日本国憲法の下でもその命脈を保つことになったからである。それもいくつかの固有名詞によって確認できる。以下に掲げる4名は戦時思想司法を担った司法エリートで,いずれも最高裁判事を務めた面々である。
エリート思想検事・池田克
池田克から始めよう。1927年6月の司法省官制改正により―正規の「思想課」とはならなかったものの―司法省内に「思想部」と称される思想問題専任の書記官1名と属4名が置かれた。池田はその初代書記として全国思想係検事会同や後の思想実務家会同を指導するなどエリート思想検事として活躍し ,司法省刑事局長として1941年改正治安維持法の立案を主導した。それに先立ち,頓挫したものの―検察官に強制処分権限を付与する―33年の治安維持法改正案を司法省刑事局思想部長として立案した池田は,「思想対策,殊に所謂国家総動員の準備工作」として思想司法の完成を早くも図っており ,
「思想検察こそは,凡ゆる反国家的思想とそれに基く反抗とを防遏することに依り,国民思想の醇化を図り,皇基を永久に存続維持せんとする」(42年2月臨時思想実務家会同での指示)
ものとして,思想検事を「思想国防の支柱」(42年7月思想実務家会同での指示)と位置付けていた 。
上述の「人権指令」による思想検察廃止後の45年10月には,この代表的思想検事ともいうべき池田が大審院検事局次長検事に就任する。果たせるかな,46年1月4日の「公職追放令」による池田の追放は―上述の泉二新熊,戸沢重雄 清原邦一 太田耐造,井本臺吉らと同じく―同年7月3日付であったが,その直前の6月25日,池田は「労働争議及び食糧闘争関係事犯の検察方針並びに経済事犯の新取締方針に関する件」と題する通牒を発し,食糧メーデーに端を発する検察官会同を主宰して後の公安検察再生の契機を提供している。この通牒においても,
「日本の大衆運動乃至集団運動が単なる経済闘争にとどまらず,思想闘争であり,政治闘争である」
と明言しているとおり,池田にとって検察の精華はあくまで思想検察であった 。公職追放後に―弁護士会に入会を拒まれることなく―弁護士に転身して52年の解除を待ち,54年11月2日~63年5月22日最高裁判事を務めた。その就任時期から明らかなとおり,第2代長官・田中耕太郎の在任中である。田中コートにおける治安重視といわゆる司法の逆コースの動きに鑑みれば,司法思想を牽引した超一線のエリート思想検事・池田克の最高裁入りを単なる偶然と見ることはできまい。次に見る斎藤悠輔は,占領軍による裁判干渉もあった戦後大型公安事件の三鷹事件,下山事件,松川事件について,「池田克氏なんかも有罪説でしたよ」と述べている 。また,最高検公安部長として松川事件を担当し後に最高裁判事に就任した草下浅之介は,最高裁調査官の報告書に頼る裁判官も多いことを示唆しつつ,池田の能吏ぶりについて,
「先輩の池田克裁判官は非常に丹念な人でして,どの事件でも,あの人はおそらく自ら記録を全部読んでおられたのではないかと思います」
と語っている。いずれにせよ,池田は治安維持法体制ともいうべき思想司法の申子に相違なかった。その池田が日本国憲法の下で人権保障の砦たる最高裁判事に就任したというグロテスクな事実は,やはり歴史的省察の欠落によるというほかあるまい。
「池田は,……最初の思想専門家として,……思想検察の成立・発展のため,らつ腕を振った。実に,池田を抜きにして戦前の治安維持法の運用を語ることができない,といっていいくらいである。……
池田がたいへん物騒な経歴の持ち主であることは,ジャーナリズムではたいした問題にならなかった。かれへの国民審査の支持率は,多少一般のばあいより低いという程度であるにとどまった。国民もまた,かれに対して免罪符を与えたといえる」
硬骨/恍惚の戦時派・斎藤悠輔
思想司法による「検察官司法」の系譜は池田のみにとどまらない。最高裁草創期の裁判官に斎藤悠輔(在任期間1947年8月4日~62年5月20日)がいる。前職は大阪控訴院検事長。大阪控訴院判事として初の治安維持法適用事件の京都学連事件を担当し,刑事局長時代には「思想犯人の転向調査に対する一考察」(『行刑思潮』1933年11月号)を著して,日本的家族の情愛を重視した転向策を説いている。1950年10月11日の尊属殺加重処罰を合憲とした大法廷判決(刑集4・10・2037頁)での斎藤の意見は,斎藤の戦時派裁判官としての硬骨/恍惚ぶりをよく示す。加重処罰は「多分に封建的,反民主主義的,反人権思想に胚胎したものとして」憲法14条に違反するとした原判決,そしてそれを支持する真野毅の少数意見に対し,「驚くべき小児病的な民主主義であり悲しむべき人権的思想である」と反論し,「元来孝は祖先尊重に通ずる子孫の道」であり,
「原判決並びに少数意見のごときはこの道義を解せず,ただ徒に新奇を逐う思い上がった忘恩の思想というべく徹底的に排撃しなければならない」
と激しく攻撃した。さらに「憲法下に殺親罪という旧時代的規定を保存した矛盾」を指摘する穂積重遠の少数意見に対しては,
「論者よ,……何が立法として筋が通らないのであるか,休み休み御教示に預(ママ)りたい」
という挑発的な言辞を用い,真野が少数意見において国連人権宣言を引いたことに対しては,
「先ず以て鬼面人を欺くものでなければ羊頭を懸げて狗肉を売るものといわなければならない。……要するに民主主義の美名の下にその実得手勝手な我侭を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない」
という,まさに「読むに堪えない」驚くべき批判を展開している。斎藤のこの批判は法理論というより,日本国憲法に対する戦時派の「思想闘争」であり ,
「この意見は,まじめに批評すべくあまりに非論理的なものであるが,司法権の独立の原則によって,その職務と身分とを保障されている裁判官が,判決書の中で,このようなバリザンボウ的表現を用いて平然としているという事実は,そこに表現された神権的天皇制的憲法観とともに,特に指摘されるに値しよう」
というものだが,斎藤自身は「いまもあの考えを変える必要はないと思っています」と語っている 。また,後述の1973年9月7日の長沼ナイキ第一審判決と平賀書簡問題については,有罪を示唆する平賀と同意見であるとして「平賀君には気の毒」と語り,松川事件については,諏訪メモなどは「要するに枝葉末節」で「あの判決は間違い」だとし,三鷹事件,下山事件,松川事件等の公安事件についても,「当時の共産党がやったと私は思っています」と述べている 。こうした硬骨/恍惚の戦時派裁判官が,最高裁発足以来15年近く裁判官を務め,1960年の田中耕太郎から横田喜三郎への長官交代の際には,池田隼人内閣の下で横田とともに長官候補に挙げられていたという 。もはや語るべき言葉もない。
石田和外のブルーパージ
思想司法の血脈はなお続く。第五代長官の石田和外(在任期間1963年6月6日~73年5月19日,69年1月11日から長官)は,敗戦前の―1939年8月より予審段階に設置された―思想係判事であった。司法省の解体とともに最高裁事務局(現在の事務総局)に異動し,初代人事課長や人事局長を歴任し,最高裁事務総長から東京高裁長官を経て最高裁判事に就任した。最高裁事務局が事務総局に衣替えした当時の刑事局長は岸盛一,民事局長は関根小郷,経理局長は吉田豊だったが,後述のように青法協パージの実務を担った岸と吉田も含めて,その全員が後に最高裁判事に就任している。石田自身は1934年の帝人事件を検察のねつ造であると断じ,当時枢密院副議長であった平沼騏一郎や司法相の塩野季彦の事件への影響が疑われるなか,左陪席判事として,検察の主張は「水中ニ月影ヲ掬スルガ如シ」とする全員無罪の判決文(1937年12月16日)を起草して勇名を馳せた。
しかし,石田もまた典型的な戦時派保守の司法官であった。1938年に唯物論研究会の会員を予審判事として取調べた際の,
「「天皇制の転覆を企図していたというのを一行入れろ」といい,その通りにすると,「あとはみんないらないんだよ。この一行だけでいいんだ」といった……」
という姿勢は敗戦後も一貫しており,就任時には戦時から通底する司法の現存秩序維持機能を強調して,「その最後の保障を担当するのが裁判所だ」と明言している 。また1969年の被告人601名を数える東大事件において,52年のメーデー事件を契機として成立した被告人欠席での公判を認める刑訴法286条の2の適用が問題になった際には,弁護士の法廷闘争を激しく批判した 。この石田コートの下でも最高裁は政治色を鮮明にし,その人事権を行使して裁判(官)統制をさらに確立してゆく。67年から72年にわたって生起したいわゆる「司法の危機」問題である 。
石田が長官に就任する1年前の68年,右派勢力による「司法の危機」キャンペーンが始まった。青法協や自由法曹団の活動が労働公安事件の裁判に「偏向」を招来しているとの攻撃が強まり,就任直後の69年4月には,これを受ける形で自民党が「裁判制度調査特別委員会」の設置方針を決定した。最高裁はこれに対して「この委員会は裁判の独立をおかすおそれがある」との談話を発したが ,石田コートはむしろ司法の政治化を鮮明にして「裁判の独立」の確保を図った。1969年6月の長谷川茂治裁判官再任拒否 ,同年8月の長沼ナイキ裁判における平賀書簡事件―担当裁判官・福島重雄が青法協会員であり,平賀書簡の写しを同会員の裁判官に回覧したことから事件が明るみに出たことは周知のことだろう―等を経て,70年の自民党運動方針に青法協を名指して「司法の危機」への対処が盛り込まれるや ,いわゆるブルー・パージがついに始まった。同年4月7日,事務総長・岸盛一(後の最高裁判事)が,
「裁判官は各自が深く自戒し,いずれの団体にせよ,政治的色彩を帯びる団体に加入することは慎むべきである。以上は最高裁判所の公式見解である」
とする談話を発したが ,それに先立つ4月1日の司法修習修了者68名の裁判官任官希望者のうち,不採用とされた者3名,うち2名は青法協会員であった 。石田はこの年の憲法記念日の会見で,「政治的中立」は裁判官の「モラル」であるとし ,司法から左翼思想をパージするという意思を鮮明にした。果たせるかな翌71年,青法協会員の宮本康昭判事補に対する再任(判事任官)が拒否され ,坂口徳雄は司法修習生罷免の処分を受けた。坂口罷免の理由は,同年4月の司法修習修了者62名の裁判官任官希望者のうち,青法協会員6名を含む7名の任官が拒否されたのに対し,坂口が「7人に十分発言させてほしい」と叫んで修了式を混乱させたというものであった 。宮本の再任(任官)拒否の理由はついに明かされず,坂口は73年に―罷免の折と同じ矢口人事局長により―身分を回復した。石田コートにおけるこうした政治的パージの実務を担った事務総長の岸盛一と後任の吉田豊,そして人事局長・矢崎憲正と後任の矢口洪一もまた後に最高裁判事となり,矢口は長官を務めている(判事就任は1984年2月20日,長官在任は1985年11月5日~1990年2月19日)。
石田は長官として青法協排除とともにリベラル派の排撃の中心に立ち,定年退官のリベラル派判事に替えて保守派をスカウトし続けた。長官就任時にはリベラル9に対して保守6であった判事の構成は,退任時には4対11に逆転していた 。石田コートにおける判事の退任はリベラル7名に保守4名の11名だが,新たに着任した判事はリベラル2名に対して保守9名だったからである 。こうして退任直前の1973年4月25日には,官公労働者の争議(随伴行為)を再び刑事罰の対象とする全農林事件大法廷判決(刑集27・4・547)を導いた。退任後は「英霊にこたえる会」会長,「元号法制化実現会議」議長等を務めた。なお,1964年1月16日に最高裁判事に就任した田中二郎は次期長官に擬されていたともされるが, リベラル派の排撃のなかで73年3月31日,定年を待たずに退任した 。
思想検事の末裔・岡原昌男
第8代長官の岡原昌男(在任期間1970年10月28日~79年3月31日,77年8月26日から長官)も思想司法の血脈を受継ぐ。就任の年の10月,石田和外の電話による要請を受けて最高裁判事に就任した。敗戦後に石田は最高裁人事課長,岡原は司法省人事課長で,2人はその当時からの知己であった。旧司法省では出世コースの本省勤務で,司法省刑事課長,人事課長,会計課長等の枢要ポストを占め,思想検事の本流に位置しながらも思想課長には就かなかったため追放は免れた。
長官就任時も判事就任時と同じく「私は検察の利益代表ではない」とわざわざ言明したが,治安維持を重視する意見を表明し続けた。長官時代の78年5月2日の憲法記念日前日の記者会見では,国会審議中であった「刑事事件の公判の開廷についての暫定的特例を定める法律案(弁護人抜き裁判法案)」について賛意を明らかにし,
「弁護士のなかには相当無茶なのがいて,裁判所の努力にも限界がある。……弁護士の場合は全然手が出せない。弁護士が出廷しないと何カ月も公判が延びる。これでいいのかということだ」
「……弁護士会ほど自由な団体はない。……ところが日弁連は問題のあった弁護士の懲戒問題について結論を出さないままウヤムヤにしている。弁護士会内部の問題は裁判所だって国会だって手が出せない。……これが大問題で,悪用されているとしかいいようがない。……法廷で問題を起こした弁護士(は)……ほんの数人だ。バッサリやればいい」
と述べて,三権分立に反するとして国会の裁判官訴追委員会に訴追請求されたこともあった。この法案は,弁護権の剥奪を伴う点で憲法違反であるとの批判も強く,当然に日弁連も反対の姿勢を明らかにしていた。日弁連はこの岡原発言に対して「憲法感覚を疑う」とする会長談話を発したが,岡原は6月8日の高裁長官・地裁所長会同でも,
「集団事件の法廷で秩序を乱し,審理を妨害する者が少なくない。こういう事態を放置することは裁判の無視,法の支配の否定につながる。公正迅速な裁判の実現こそ,法治国家存立の基礎と銘記すべきだ」
との訓示を行い,自らの「憲法感覚」に固執して見せた。岡原は,旧司法省において「思想取締りの総本部」とも称された第5課長と第6課長を兼任する思想検事の太田耐三の部下だったが,最高裁判事在任中に太田の追悼論集に寄せた一文にも,岡原の「憲法感覚」の疑わしさが垣間見える。
「その太田さんが……中途にして官を去り,而も野に在ることも亦短く,その才幹を十分に発揮することのないまま此の世を去ったことは御本人のためにも検察界司法界否わが国全体のためにも惜しまれるところである。若干なりとも太田さんの薫陶を受けた吾々後輩は,太田さんの遺志をついで司法部のために尽くすところがなければなるまいと思っている」
以上の最高裁判事のみではない。旧司法省から事務総局勤務を経た司法エリートたる司法官僚たちが最高裁判事の地位を占めたように,司法官僚制は最高裁設立時から連綿と続く事実である 。たしかに,旧司法省で思想司法を担った裁判官や検察官たちはすでに司法の現場から姿を消したろう。しかし,最高裁事務総長や各局長,課長の系譜をたどれば明らかなとおり,官僚制司法のモードとエートスはいまだにその命脈を保っている。官僚制司法による裁判(官)の独立の未確立が司法の政治化を招来し,思想司法が司法全体を併呑したように,日本国憲法の下でも司法の政治化は常に現前の危機としてある。そして,司法の政治化の極致をなした思想司法の下で展開された「検察官司法」による精密司法もまた,ニホン刑事司法の揺るぎない「岩盤」として現在に続いている。
エピローグ
田中耕太郎の実弟で,政治的な言動に対して最高裁の処分を受けながらも,青法協パージの折などになお重ねて特異な政治的動きを見せた飯守重任など,日本国憲法下の裁判官として驚くべき「憲法感覚」を示した裁判官もいる。その一方で,真摯かつ深刻な省察を示した裁判官もいた。
「したがって,戦前の裁判官が,もし新憲法のもとにおいても裁判官であろうとすれば,かつてその反対の立場にたったことに対する反省がなされなければならない。新憲法の精神が,人間の自由と尊厳とを真理として認め,その尊重を要求するものであることは,改めていうまでもない。かつてこの真理を否定する立場にたった裁判官が,みずからの責任について何等の反省もなしに,新憲法のもとにおいても裁判官のイスにすわりつづけることは,道理としておよそ考えられないところである。……
裁判官の戦争責任は,人が裁判官であることによって,戦争に協力したために負わねばならない責任である。それは,彼みずからが治安維持法,不敬罪,新聞紙法,出版法,その他もろもろの事件にたずさわり,直接に人間の自由と尊厳に対して侵害を加え,それによって戦争に協力したといなとにかかわらない。たとえ,直接にはそれらの事件にかかわりをもたなかったとしても,裁判官であることによって,そのような裁判を肯定した,という点において責任を負わねばならないのである(責任の程度にちがいはあるとしても)」
裁判官として―いうまでもなく検察官も―思想司法に身を委ねた責任は,そうしたモードとエートスとの自覚的訣別をもって贖わねばならないということである。
残念なことに,思想検事の系譜に位置する上述の清原邦一や井本臺吉らが後に復帰して検事総長に就任したように,検察も思想司法による「検察官司法」のモードとエートスを現在まで温存し強化を続け,裁判所もまたそれと訣別するための歴史的省察と自覚を欠いたまま現在に至っている。定年を待たずしてそうした裁判所を去った裁判官たちの述懐は,司法の廃墟を思わせるほどに厳しく,しかも強い寂寥感を誘う。鈴木忠五は,三鷹事件第一審の裁判長として国鉄労組員10名と実行犯の元運転士の共同謀議という検察主張を「空中楼閣」と断じ,単独犯行であるとして元運転士を無期懲役とし,定年前の1957年に退官して後に正木ひろしらとともに丸正事件の弁護人を務めた人物である。
「一口にいえば,裁判所の空気がいやになったということです。……最近なんかは特にひどいように思います。……
……だんだん事務局が強くなって……そういうことがいやになってきたということと,直接には,三鷹事件をやったあとの裁判所の中の空気,ぼくに対する風当り,これはもうとてもひどかったですから」
いま1人は伊達秋雄である。砂川事件第一審判決(東京地判1959・3・30下刑集1・3・776)のいわゆる伊達判決で,「日米安全保障条約に基づく駐留米軍の存在は,憲法前文と第9条の戦力不保持に違反し違憲である」として被告人全員を無罪としたが,61年に定年を待たずに退官し,鈴木忠五と同じく丸正事件などの弁護人を務めた。
「しかし,法曹の世界におりながら政治的な判断をするのは,どうかと思うのです。あの最高裁の判断などは政治的判断だと思うんですよ。
私には,政治的判断をしてまで裁判官をしていることはないという気持ちはたしかにありました。」
人身の自由に敏感であろうとし,日本国憲法に忠実に裁判に取組もうとする裁判官の努力と志も,司法の政治化やそれをもたらす官僚制司法というニホン(刑事)司法の「古層」に埋もれてゆくということだろうか。この「古層」を刻印する思想司法は「検察官司法」を強化し,自白偏重による精密司法によって数多の冤罪誤判を生出すと同時に,刑事裁判をモラル統合のための道徳劇と化した。
「こうして帝国憲法が法と倫理と国家宗教の三位一体,というよりもむしろ直接同一の構造を持っている結果,国法にふれたという嫌疑をかけられることは,倫理的には悪人,ひとでなし,信仰上からは非人,非国民,はなはだしい場合,公敵,売国奴になってしまう。人でなしや非国民や公敵にはおなさけに「法の正当な手続き」を適用してやっているのだという気持が裁判官を支配し,同時に裁判官を法における正義の擁護者であるよりも,倫理上の善悪の審判官,正当な国家信仰の護持者としての迷惑きわまる使命感をもえあがらせることになります。司法官の意識の中で,法律的存在の有無と道徳的善悪,信仰上の正邪が混同される結果,司法権の独立は司法官の意識の中で腐蝕されてしまい,結果として行政権からの独立がおかされてしまった」
行為に対する法的裁きにとどまらず,被告人の人格そのものに対する道徳的裁きとなれば,日本国憲法による防御権の保障は画餅に帰し,捜査と公判と行刑の全過程が反省と謝罪の追及の場となろう。戦時思想司法による「検察官司法」の貫徹はたしかに悲劇であった。しかし,そのモードとエートスは「古層」をなして,日本国憲法の下でもなお2度目の笑劇として存えている。それは裁判官や検察官のみの罪ではない。我われ自身の罪でもある。