1968年、静岡地裁の第一審主任裁判官、不本意な死刑判決を執筆。その痛烈に反省・告白した元裁判官
熊本典道氏のご逝去を悼み、ご意志を受け継ぎます。
「袴田さんは無罪だった!」 元裁判官の告白。
「こんな証拠で有罪にできるわけがない」自分の判断は無罪。ところが、裁判体の結論としては、2対1の多数決で有罪・死刑。主任裁判官の熊本典道氏は、意に反してその判決文を書いたのでした。「自分が無実の袴田君を殺したも同じ事」、その心痛から退官し弁護士として再出発したものの、心の底に渦巻く悔恨の思いに苛まれる人生を送ることに。約40年後の2007年、ついに死刑判決を自らの過ちとして告白するに至りました。最高裁に「陳述書」を提出し、袴田巖さんに降りかかった冤罪を晴らす活動に入ったのでした。
病床にあっても「袴田君に直接会って謝りたい」という熊本さん。長年の願いが叶ったのは2018年のこと。病気で寝たきりの熊本さんのところにひで子さんが巖さんを連れて見舞いに訪れたのです。そこで、「イワオー、悪カッター」と、心の底から絞り出すような声での謝罪がありました。
「袴田君が一日も早く再審無罪となり、自由になってほしい」という熊本さんの心底からの願いを、私たちが受け継ぎ実現しなければならないと思います。
2対1の多数決で決めただって! 人の生命が軽すぎ!
熊本さんは無罪判決を準備してありました。が、有罪死刑判決を書かざるをえなかった不条理を振り返ってみると、貴重な教訓に突き当たります。
「三人の裁判官のうち、一人でも反対すれば死刑にすべきではない」。熊本さんもそう言っていますが、人間の生命を多数決で効率的に処理するというその安易さを突いているのです。日本人の生命はかくも軽いのでしょうか。アメリカの陪審員裁判では、基本的に全員一致でなければ死刑にはしません。結論が分かれた場合には、陪審員を入れ替えてもう一度裁判をやり直します。そのくらいの慎重さで人の命に向き合うのです。
近代司法の原点は、権力の行き過ぎや暴走から市民の生命や財産、自由と尊厳を守るというところにあります。犯罪処理の効率化ではありません。今でも、簡便な多
数決による重罪判決に疑問が投げられない状況にあるのは、日本の司法(また社会)が、未だに近代化されていない、時代遅れということです。「悪い奴らは手っ取り早く捕まえて、ドンドン酷い目にあわせればいい」、江戸時代の“岡っ引き根性”が幅を利かせている犯罪捜査や裁判は、いつまで市民を苦しめ続けるのでしょうか。
ところで、そもそも裁判とは検察官の有罪立証を審理の対象としています。有罪立証が完璧ならば有罪。合理的に(市民の常識で)考えて、立証に疑問があれば無罪。弁護人や裁判官が被告の無実を証明する必要はありません。裁判官が3人いてそのうちの一人が無罪意見ということは、まとめて見れば合理的な疑問あり。合議体としての裁判所は無罪を宣告しなければならないのです。そのことを含めた上で、裁判の公正さは成り立っているのです。
日本国憲法と現行刑事訴訟法は、近代司法の精神に立脚しています。裁判がその精神に忠実で公正であったら、袴田巖さんは正しく無罪だったのです。
熊本さんの叫び 「主文は死刑だけど、本当は無罪ですよ」
熊本さんがやむを得ず書いた判決文は、もっともらしく有罪をとりつくろう文脈になってはいますが、法理論的には無罪としか読めない仕掛けがしてあります。熊本さんが判決文中の「付言」で捜査当局の非を鳴らし、続いて石見裁判長も捜査陣を「ならず者」呼ばわり。無罪を示す論述の上に、有罪死刑という「主文」が無遠慮に置かれているようなもの。第一審は「死刑」にしてしまったけれども、上級裁判所(高裁、最高裁)の裁判官はそのトリックを見抜いて死刑判決を覆してほしい。そんな熊本裁判官の願いが込められているからです。しかし、期待をかけられた裁判所では、誰もがそれを取り上げることなく死刑判決が確定するという悲劇となったのです。
この無念はひとり熊本さんのものではなく、みんなが共有する無念。それは市民の責務として、絶対に晴らさなければならないのです。
袴田さん支援クラブ