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袴田さん支援クラブ

袴田巖さんに再審無罪を!

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23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.5

「2023年を振り返って、そして2024年の抱負」

 

2024年がやって参りました。

昨年お世話になった皆様に心の底から感謝申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

習字の上手な友達に書いてもらったやつ~

 

また、能登半島地震などによって被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。新年早々辛いニュースが続きますが、これから皆様にとって幸福がたくさん訪れますよう、お祈り申し上げます。

 

今年はきっと、巖さんが真の自由を取り戻し、ひで子さん、また弁護団の先生方、支援者の方々などに素晴らしい幸福が訪れることでしょう!

私も微力ではありますが、無事に無罪判決が下されるまで、気を抜かずがんばっていきます。

 

2023年は、後半の数ヶ月だけなのだが、袴田事件に関わったことでとても濃密な年だったような気がする。3月まではまだ大学生だったことが遥か昔のことのようだ。まずは2023年を振り返ってみる。

 

◎大学卒業、無為に過ぎ去る日々

 

今からちょうど一年前、私は京都の下宿先で一人、大学の卒論を出し終えて卒業を待つだけの無為な日々を過ごしていた。

 

大学生活はそれなりに楽しかった。

大学卒業式。自堕落で気ままな学生生活でした

しかし、卒業したとてやることもない。就職が決まった友人は引っ越しやら手続きやらに走り回り、私はカーテンを閉めた部屋で一人。誰かと話すことも笑うこともなく、友達は本と酒だけ。

秋頃まではそれなりに就活もしていたのだが、どうにもこうにも上手くいかず…そんな中で、もともと患っていたうつ病が次第に悪化、気付けば心は粉砕骨折していた。

 

この頃はスマホもほとんど見なかったので、袴田事件再審決定のニュースも知らなかったか、もしくはさほど気に留めてはいなかった。

 

◎実家暮らし引きこもりニートへ

 

4月、清水の実家に帰ってきた。

数ヶ月間は精神的にかなり不安定で、ほとんどベッドから出なかったと思う。あまり記憶はない。

 

ほとんど引きこもっていたが、図書館だけには通った。大好きな小説もたくさん読んだが、同時に、事件系のルポルタージュ本や、裁判や刑法など、司法関連の本も手当たり次第によく読んでいた。

 

私はもともと事件などに興味があって、ただ面白そうな本を趣味として読んでいただけにすぎない。法学部出身でもないし、勉強をしていたわけでもない。だから司法などについては完全な素人だし、今も基本的には怠惰でいろいろと意識の低い人間だ。

 

◎全くの無知から、袴田事件に惹かれ

 

8月か9月頃だったか、袴田事件再審の初公判期日が決まりつつある頃の新聞記事を見て、「そうか、静岡地裁でやるのか」と思った。そんなことすらわかっていなかった。

 

見た瞬間に行くことを決めた。歴史に残る重大な再審に、どうせ暇な私が、行かない理由もなかった。その足で図書館に行き、関連の本をあるだけ全部借りてきた。いくつか書籍を読み、こんなに酷いことがあるのか…と衝撃を受けた。袴田事件の全貌を知れば、こんなの最初からすべてがおかしいと誰でもわかるではないか…?

 

私は本当に何も知らなかったのだ。

袴田事件も含む過去の冤罪事件は、「ミス」や「間違い」だと思っていた。「捏造」や「隠蔽」によって無実の人を「意図的に」陥れる、そんな荒唐無稽なことが現代の日本にあるなんて、想像すらできなかった。

 

袴田事件の無罪判決をこの目で見届けなければいけない、何だかそう感じた。清水の人間として、事件を知らなければいけない、風化させたくない、という勝手な使命感のようなものも抱いていた。

◎再審初公判の衝撃

 

そして迎えた2023年10月27日、袴田事件再審初公判。午前8時半頃の静岡地裁前は支援者に報道陣に大賑わい。静岡地裁前で横断幕や旗を掲げる、各地から集まった大勢の支援者。初めて生で拝見したひで子さん。闘う人々は皆若々しく、くらりとするほどの熱気を感じた。

 

傍聴券は外れ、さてこれからどうしようかときょろきょろしていたところ、支援者の方に声をかけていただいた。そこから他の支援者の方ともお話しさせていただき、記者会見までしれっと居座っていたのだった。

 

あの日の何とも形容しがたい熱狂はまだ忘れられない。私も何かしたい!という思いが溢れた。

 

◎袴田事件を「支援する」ということ

 

しかし、私は正直、支援者という立場に立つことには迷いがあった。支援者の熱さに恐怖すら感じてしまったのもあるし、そもそもこのような支援団体=過激というようなイメージもあった。

まあ、ある意味ではそれは正しい。社会を動かすのはいつだって非常識で型破りな人間なのだ。この再審だって、そんな方々がいなければ実現していなかった。しかし、基本的には皆穏やかで知的で魅力的な方々であり、今まで大変よくしていただいている。私は支援者の皆様のことを心から敬愛している。

第5回公判前。ひで子さん、弁護団の先生方、今年も頑張ってください!

 

今私は、「支援者」を名乗れるのかどうかはわからない。それは単に自分の未熟さ故である。すでに再審が始まっている今、物凄い支援者の方々が揃っている中で、私にできることなどあまりない。何かしたい。でも何をするべきか。私に何ができるか。そんな思いは、ずっと頭の中をぐるぐるしている。でも、とりあえず使えそうな私の武器は3つはあるかな、と考えた。

 

①若さ

 

支援者の方々の平均年齢は高めで、23歳の私はいつもポツンと浮いている感じになる。若いというだけで広告塔になるのなら、好きに使っていただいて構わないと思っている。また、やはりジェネレーションギャップを感じることは多い。しかしそれはお互い様なので、なるべく持ちつ持たれつになればと、かなり生意気に発言させていただいている。

 

また、支援者の方々ではスマホやパソコンを使える方も少ない。やはりここは若者として、インターネットはどんどん活用していきたいと思っている。

 

②清水生まれ

 

私は、清水の事件現場からそう遠くない場所で、事件を知らないまま暮らしてきた。

 

初公判のときに、「清水出身”なのに”すごいね」と声をかけられて、首をかしげたことがある。私は「清水出身”だから”来た」つもりだったのだ。しかし、清水に住みながら、袴田さんが釈放されたというニュースを先入観なく眺めることができていた私は、とても恵まれていたのだと後々気付いた。清水、特に事件現場付近では、今も風当たりは厳しいらしい。

 

実際に、事件当時から清水在住で、未だに袴田さんが犯人だと思っている方とお話ししたことがある。私には、まだこんなことを言っている人が存在する、ということ自体が信じられなかった。悔しくて、精一杯”弁護”したが、話はずっと平行線。なんだか泣きたくなった。

 

当時を知っていれば無理もないことなのかもしれない。しかし、清水の人だからこそ、この事件から目を背けてはいけないのではないか?それでいいのか、清水人。私はそう思う。

 

③文章力(?)

 

まあ、武器かはわからないのだが、少なくとも文章を書くことは好きである。昔から本を読むことと文章を書くことが好きで、小さいときから夢はずっと作家だった。大学時代は文芸サークルで小説の執筆に取り組んでいた。このサークルの仲間の存在が、まだもう少し夢を見ていてもいいかな…と思わせてくれている。

そういえば、昨年の夏に書いた小説で、有難いことに静岡市主催の文芸賞の大賞をいただけた。これも自信に繋がる。

 

今もこうして袴田事件に関して文章を書くことが楽しい。私の言葉が誰かの役に立てているなら嬉しい。もっと勉強し、深く考え、言葉で社会を動かしてみたい、それが私の野望だ。

 

◎”清水っ娘”誕生

 

そして、ブログ「清水っ娘、袴田事件を追う」を立ち上げることにした。最初は単純に、私の目線から見たこの再審を、文章として記録しておきたいと思ったのだ。ついでに世の中に向けても発信していきたい。

 

袴田事件に興味がある方々はもちろんだが、私はやはり「恵まれた」若い世代を引き込んでいきたい。「Z世代」などと言われる私たちは、もう「袴田事件=冤罪事件」のイメージの中で生きている。あとは知るだけだ。

 

しかし、全く興味のない人を引き込むのはなかなか難しい。私の発信を見てくださっている方は、おそらくもともと袴田事件に興味を持っている人ばかりだろう。何か新しい策を講じなければ、とは思っている…。

 

◎いつの間にかズブズブに

 

公判や集会に顔を出し、ブログを書き、手作りの名刺もどきを配り、などしているうちに、すっかり支援者の一員のようになってしまった。大変有難いことに、支援者の方々からブログの記事を褒めていただくことも多い。浜松にも行き、袴田家にお邪魔させていただき、先月は巖さんとお友達にもなれた。支援者の方々に少しずつ認めていただけているのかな…?と勝手に思っている。

巖さんと初対面したとき(11/18)

 

こうして活動することは、言葉を選ばずに言えば、ただ「楽しい」「面白い」。様々な分野について勉強になるし、日々充実していると感じる。袴田事件に飛び込んだことは、私の人生にとって本当に貴重な経験になると思う。

 

しかし、私が今こうして活動できているのは、ひとえに巖さん・ひで子さんや、弁護団や支援者の方々などの血の滲むような努力の結果である。いつ何時も、皆様の長年の努力への敬意だけは忘れない。新参者の私が、うまい汁を吸うことは絶対に許されない。それを踏まえたうえで、無罪判決が出るまで、私自身も全力で走り抜こうと思っている。

 

◎2024年の抱負

さて、2024年の抱負を述べておく。私は今年で24歳になる。将来も見据えていかなければいけない年齢でもあり、まだやりたいことを無鉄砲にやってみたい年齢でもある。年女という節目の年でもあり、大きく飛躍できる一年にしたいと思っている。

①無罪判決を勝ち取った時、みんなで祝杯を挙げる!!

 

弁護団長の西嶋先生は大のお酒好きとか。弁護団や支援者の中にも嗜む方がいらっしゃると思います。酒の中でも祝い酒というやつが一番おいしい。だから、無罪判決が出たらみんなで祝杯を上げたいな。それが私の今年叶えたい夢だ!

 

②貪欲に、がむしゃらに。

 

様々なことにチャレンジし、好奇心旺盛に走り回り、たくさん学び、今年はもっとアクティブに頑張っていきたい。もちろんがむしゃらだけではだめなので、戦略も立てつつ、主体的に行動していこうと思う。

 

裁判が落ち着いたら、袴田事件についてもっと知りたいとも思っている。私が知らない間に、誰がどのように動いて、再審開始、そして後の無罪判決まで導いたのか。私は単純にそれが知りたい。関わってきた人の人生が知りたい。

 

また、この活動の中で、書くことを仕事にしたいという気持ちがだんだん強くなってきた。実力はもちろん必要だが、使えるものは使う、行けるところは行く、できることはやる、どこに落ちているかわからないチャンスを掴み取りたい。私の座右の銘は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。改めて肝に銘じ、たくさん成長できる年にしたい。

 

③太く、長く続ける。

 

活動を始めてからここが一番の課題。できるだけたくさん、そして継続的に活動を頑張りたい。

 

私はADHDを持っている。もちろんそのせいだけではないが、オン/オフの切り替えやタスクの管理、情報整理なんかがとても苦手だ。おまけにうつ病もパニック障害もあって、心身ともにまあ常に不調といえば不調である。一度集中してしまうとそこからずっと追われている気分になったかと思えば、ぷつっと一週間以上電池が切れたようになったりする。

 

投薬でもある程度マシにはなるが限界もあるので、自分の中でルールを明確に決めて、生活の基盤を整えていく必要がある。無罪判決まででも、まだまだ長い闘いだ。それに、そろそろ甘えていられる歳ではないこともわかっている。一生付き合っていかなければならない障害なので、結局は自分で何とかするしかない。今年こそ頑張ろう!

 

④人生を楽しむ!

 

とはいえ、やっぱり楽しく生きたい!いろいろ挑戦したい。冒険したい。好きなことをとことんやってみたい。ギリギリ若気の至りで許されるうちに、ある程度恥も外聞も捨てて、やりたいことは全部やってみたい。そんな一年にしたい。

 

そんなわけで、2024年、張り切って参ります。無罪判決まであと少し、頑張っていきましょう。今年もよろしくお願いいたします。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.4

袴田事件再審第3回公判傍聴記―こうやって冤罪は作られる

なかがわまお

2023年11月20日(月)、静岡地裁にて、袴田事件再審第3回公判が開かれた。

 

前回はあいにくの雨だったが、この日は見事に快晴。

支援者たちも意気揚々である。

 

◎9:45 当選番号発表

 

見事当選!

今回は27席に対して108人が並んだということで、倍率はぴったり4倍。なかなかの強運である。

 

今回は検察側からの「5点の衣類」についての立証ということで、どんな論理を展開してくるのか、鼻で笑ってやろうと楽しみにしていたのだが……、ほとんどうまくついていけなかった。

 

いや、理解ができなかったわけではない。一応事件の知識はそれなりにはあるので、一つ一つが明らかにおかしいことはわかる。

しかし、検察官に堂々とした態度で捲し立てられると、何だか全体としての一貫性や説得力を感じて、“検察がそんなことをするはずがない”という言い分をすっと納得してしまいそうになるのである。

 

だんだん検察側のペースに乗せられ、反論する気力すら奪われ、何だかパラレルワールドに迷い込んでしまったかのように、どんどん気が狂っていく。

 

しかも、法廷内はずっと蒸し風呂のような暑さ。閉廷まで耐えただけでも自分を褒めたい。

 

今メモを読めばいろいろと指摘できるのだが、法廷内では何が何だかわからなかった。これはあの場にいた人にしかわからない感覚だと思う。

これが検察の底力なのだろうか。

 

これを毎日取調室で続けられたら自白してしまうなと思った。

重要なのは内容ではなく、検察官という威厳だけで充分なのかもしれない。

こうやって冤罪が作られていくのかもしれないな…とぼんやりとした頭でずっと考えていた。

 

それではここから傍聴記です。

 

【袴田事件再審第3回公判傍聴記】

 

◎11:00 開廷

 

検察官は前回同様、神経質そうなメガネの男性、目がぎょろっとしたメガネの男性、若い華奢な女性の3人。

弁護団はおそらく13人とひで子さん。

 

◎検察側冒頭陳述

神経質そうなほうのメガネの男性検事が、淡々と文面を読み上げていく。

 

今回の主張は「みそ工場の1号タンクから(事件から1年2カ月後に)見つかった5点の衣類は、被告人が犯行時に着用し、犯行後にみそタンクに隠したものである」ということ。

 

1年2カ月間もの間発見されなかった理由は、タンク内は薄暗く、ビニールシートが被せてあったために「誰も気付き得ない」上に、また工場側からの強い要請によって「みその中までは調べていない」、ということである。

 

そして今回の主張の概要は、

(1)5点の衣類が犯行着衣である

(2)5点の衣類は被告人のものである

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した

(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能

の5点。1点ずつ説明が行われる。

 

(1)5点の衣類が犯行着衣である

 

検察側の主張は、

①血の付き方や破れ方が自然

②血液型が被害者と合っている(一番抵抗されたであろう専務の血液型であるA型が多くついている~など)

 

だけ……!?

ここが一番重要な部分だと思うのだが、驚くほどあっさりと終わった。

 

(2)5点の衣類は被告人のものである

 

①袴田さんの衣類に酷似している

衣類を1点ずつ取り上げて、従業員らが証言する特徴との比較や、製造元や販売店など購入ルートなどを長々と説明していた。

「酷似している」からといって、「袴田さんのものである」証拠には全くならないのに。

 

②袴田さんの実家から共布(ズボンの裾を切り取った布)が見つかった

 

袴田さんの母・袴田ともさんの証言が都合よく使われている印象。

 

警察が共布を見せたとき、ともさんは「巖のものだと思う」と説明している。

その後の取調べでは、ともさんは「こがね味噌から送られてきた荷物の中に布が入っていた」「引き出しにしまっておいた」「共布だと言われれば、そのようにも見える」などと供述した。

しかし確定審では、ともさんが「はっきり覚えていない」と証言したことを、嘘をついているかのように説明した。

 

見覚えのない共布が、いきなり家の中で見つかったと言われた母親の供述は、はたしてどれほど信用性があると言えるのだろうか。

 

そもそも、共布が本当に実家にあったとしても、ズボンが袴田さんのものである証拠がない以上は、この共布も袴田さんと結びつかないのであるが。

 

③緑色パンツは袴田さんの母親が買ったものである

 

見つかった緑色パンツは「ムーンライト」という商品名のものである可能性が高く、母親の袴田ともさんは、緑色のパンツを地元の衣料品店「清水屋」で購入して巖さんに送ったことがあり、「清水屋」は「ムーンライト」を扱っていたため、つまりこれは「ムーンライト」である可能性が高い……とのこと。

 

「ムーンライト」と「可能性」という単語ばかりが耳につく。直接的な証拠はなし。

 

④事件後に誰もこの衣類を見ていない

 

実は緑色パンツは、事件後に実家に送られてきた衣類の中に入っていて、次兄が弁護士を通じて差し入れしようとしたところ断られ、次兄の家で保管されていたのである。

 

それは確定審で証拠として提出されたのだが、「信用性がない」と切り捨てた。

 

5点の衣類の一つとして緑色のパンツが報道に出たとき、次兄と母親、姉のひで子さんらはこれはねつ造だ、と喜んだらしいが、未だに嘘だと言われているのである。

 

また他の5点の衣類は証拠として提出されていないことや、従業員が事件後にこれらの衣類を見ていないという証言も理由として挙げられた。

 

◎12:05~13:10 休廷

 

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

「シャツの右肩に血痕と穴がある」こと、「袴田さんが右肩を怪我していた」ことからも、被告人が犯行時に着ていたと言えるとのこと。

 

〈争点〉として、上に着ていたシャツの穴は一つで下に着ていた半袖シャツの穴は二つである点や、穴の位置が合っていないと弁護側が主張している点を挙げた。

そして〈留意点〉として、様々な場合があるから不自然ではない、むしろ弁護人は物事を単純化している、と切り捨てる。

 

また、元々犯行着衣とされていたパジャマの右肩にも穴と血液反応があるという〈争点〉に対しての〈留意点〉で、被告人が怪我の位置に合わせてわざと穴を開けた可能性もある、だとか。

え、それは暴論すぎないか?

 

あとあの、最初から「争点と留意点」のコーナーあったんですけど、「留意点」って何なんですかね?

 

(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した

事件後に5点の衣類をみそ工場内で隠す必要性に迫られたとき、袴田さんが自分の作業スペースであったみそタンク内に隠すことは「自然な発想」だと言うのである。

 

え!?いつかは絶対に見つかるみそタンク内に隠すのが自然な発想!?

しかも近くにはボイラー室があったのに……?

 

そしてまた争点と留意点のコーナー。

 

事件当時の1号タンクのみその量について、弁護側は80kgと言うが、実際は160kgか200kg、少なくとも衣類を隠すのが可能なほどはあったという。

このタンクには、8トン以上のみそが入るので、80kgも200kgも誤差みたいなものだと思うのだが。

 

また事件後の7月4日の警察の捜索で発見されていたはずだという点は、隠された時期が7月4日から仕込みが行われた7月20日までである可能性もあることや、捜索の際に工場側からみその中は捜索しないでほしい、上から見るだけでいい、と強く要請されたことを挙げる。

 

(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能

 

やはりここに一番力が入っていてボリュームたっぷり。

ある程度納得はできる言い分ではあるが、綺麗に言葉だけを並べていて、薄っぺらい……という印象。

 

ほとんどが「もしねつ造なのだとしたら」という仮定のもとに話されている。

 

偏見かもしれないが、「したかどうか」に対して「仮にしたとすれば~」と答える人はだいたい嘘つきなイメージ。あと「わざわざそんなことする理由がない」って言う人もだいたい嘘つき。

※あくまで偏見です。

 

まず、弁護側のDNA鑑定は信用できないこと、衣類の血痕に赤みは残り得ること、弁護側のねつ造だという主張には根拠がないことを挙げて、ねつ造疑惑は真っ向から否定。

 

ねつ造が非現実的で実行不可能である主張は以下の7点(!)。

 

①袴田さんのものに似ている衣類を用意するのは難しい

 

用意するには事前に従業員に詳しく特徴を聞く必要があるし、同じ特徴で使用感のあるものを用意するのは難しい。また、ねつ造するなら元の衣類を処分する必要があるが、それも難しい。

 

②販売ルートに矛盾がない

 

ねつ造だとすれば販売ルートや製造時期などに必ず矛盾が出るのにもかかわらず、警察が詳しく捜査をしている。

 

③警察がみそ工場に隠すのは難しい

 

みそ工場に侵入するのも工場側に協力してもらうのも非現実的だし、隠せるタイミングは2週間にも満たない期間で、その間にこれほどの準備をするのは難しい。

 

④ねつ造だとすれば、共布に関する母親・袴田ともさんの証言は警察にとって都合が良すぎる(?)

 

この理論はよくわからなかったのだが……。

死人に口なし状態でともさんの発言の揚げ足をとって、娘であるひで子さんの前でよく言えるな、と心が痛んだ。

 

⑤わざわざ5点もの衣類を用意する必要がないし、ねつ造ならもっと上手くするはず

 

5点も用意すれば矛盾が多くなる危険性があるし、弁護側が指摘する血痕などの偏りは意図的に作る理由がなく、むしろ犯行着衣であることの証拠になる。

 

これは確かに一理ある。ねつ造にしてはいろいろと下手すぎるからだ。

しかしこれが確定審で採用されて、死刑判決が下されたのが現実なのである。

 

⑥5点の衣類が犯行着衣であることは、自白(犯行着衣はパジャマ)と矛盾しているから、当時の検察の考えに反する

 

5点の衣類が発見された1967年8月時点の裁判では、ねつ造をしなければいけないほど検察側は追い込まれていなかったし、むしろねつ造によって自白の信用性が失われる危険性があるので、ねつ造する理由がない。

 

⑦ねつ造はリスクが高すぎて非現実的

 

袴田さんのものに似た衣類を探し、血痕や損傷をつけ、みそタンクに隠し、実家に共布があったように偽装する、といった一連の行為は大規模すぎて非現実的だし、判明すれば検察・警察の信用が失われるため、リスクが高すぎて考えられない。

 

以上で冒頭陳述は終了。

凄い。根拠も何もないほとんどただの意見を、こんなにもだらだらと法廷で話せる勇気に尊敬。

 

この時点ですでに14:20。しかし実際の時間以上に長く感じた……。

 

◎検察側立証

 

(1)5点の衣類が犯行着衣である

若い女性検事の登場。嫌々やっているのかなと同情していたのだが、まるでNHKのアナウンサーのような堂々とした話し方。

 

当時のみそタンクや工場内の画像、工場内の見取り図、調書などを出しながら、当時の捜索状況などについて丁寧に説明していく。衣類の血痕の付着状況についても画像を出して説明。

 

◎14:50~15:20 休廷

 

(2)5点の衣類は被告人のものである

ぎょろっとした目のメガネの男性検事が登場。見た目とは裏腹に声は優しげ。

 

袴田さんの衣類に“酷似”していることを、当時の証言を大量に読み上げて説明していく。

 

袴田さん自身は「似たようなものを持っている」「自分のものかどうかまではわからない」「自分のものならクリーニング屋が名前を入れている」などと証言している。

しかしクリーニング屋は、「袴田さんが持ってきた記憶はない」「名前を入れたことはない」と証言している。

その後、従業員の「似たような衣類を見たことがある」「袴田のものに間違いない」「事件後は見ていない」というような、ほとんど同じ証言が何十人分か続く……もういいって!

 

だから、「酷似している」=「袴田さんのもの」にはならないでしょ?

だいたい、なんで他人の服の小さい特徴まで覚えてるの?

なんで他人のパンツを見て「間違いない」って言えるわけ?

 

次に、購入ルートの捜査、家宅捜索の流れなどの、警察の調書を読み上げていく。

あの、検察が警察の作った調書を証拠として使うのって何の意味もないのでは?

 

そして袴田さんがズボンを穿けなかった点について、糸密度だとか収縮率だとか説明している中で、しれっと、ズボンのタグの「B」の表示は「生地の色」、「Y」は「痩せている人用のサイズ」を示すと言った。

あれ?ずっと「B」は肥満体用のサイズだと主張していたのではなかったのか……?

 

また、確定審での次兄への証人尋問を読み上げ、質問に対して黙ってしまった部分を「次兄、沈黙」と何度も繰り返して強調。

何だか、そんないじめみたいなことして楽しいんですかね。

 

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

 

また女性検事の出番。

 

袴田さんの右肩の怪我と、衣類の右肩の穴の位置について調書や画像で説明していく。

その中で、またしてもしれっと、検察が行ったみそ漬け実験の結果、茶色く染まった布の写真が出されて、軽く流して一瞬で消された。

あれ、幻……?布の色の話には触れられることはなかった。

 

17:00 閉廷

ここで17時になり裁判官により閉廷が促される。

 

小川先生がすっと立ち上がって、「衣類の色について触れていないが、また改めて触れるのか」と質問する。先生も疲弊されていたのか、いつになくきつい口調。

検察官は若干しどろもどろになりながら、年明けには触れるとして、17時すぎに閉廷。

 

お疲れさまでした、私含め皆様。

……本当に疲れた。体力も気力もすべて持っていかれてしまった。

 

ひで子さんが第2回公判を「裁判らしい裁判」と評した意味が分かった気がする。あそこには、何か明らかに異常な空気があった。

 

さすがは検察である。

堂々とした口調には、いくら矛盾点があろうと受け入れてしまうような圧倒的な威圧感があった。そして都合の良い部分はうんざりするほど長く話すのに、都合の悪い部分は一応触れはするが一瞬で終わらせる高等テクニック。

検察は悪を裁くヒーローである一方で、天才的な冤罪職人にもなれるのだ。

 

◎17:20頃~弁護団記者会見

 

最初にひで子さんが、「母親は嘘を言うような人間じゃない」「母も兄も頑張ったから、今の再審開始がある」と述べ、「これじゃ冤罪はなくならない」と悔しさを滲ませていたのが印象的だった。

 

検察側が立証に力を入れるのは構わないのだが、すでにこの世にいないご家族を都合よく利用するのは、あまりにも残忍だと思ってしまう。

 

小川弁護士は、検察側の主張は弱いところばかりだと指摘し、「枯れ木も山の賑わい」と表現した。特に5点の衣類が犯行着衣であるという立証の薄さや、衣類の色についての説明不足があり、ある意味で安心と述べられた。

 

西嶋弁護団長は、「警察がそんなひどいことはしないなんて、よく白々しく言えたものだ」と呆れる。

県民として恥ずかしいことだが、静岡県がいかに冤罪大国であるかは周知の事実である。

 

今後の弁護団の方針としては、5点の衣類一つ一つやその他矛盾点などを丁寧に突いて、ねつ造以外にあり得ない、という方向を目指すようだ。今回の検察の主張は弱い部分が多く、「十分に反論できる」とのことである。

 

◎18:30頃、記者会見終了。

今回の検察側の主張を受けて、弁護団がどのように反論していくかが楽しみである。

 

第4回公判は12月11日(月)、検察側立証の続きと、弁護側反証が行われる予定。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.3

清水っ娘、袴田家初訪問―巖さんと23歳同士お友達になりたい!

 なかがわまお

第3回公判の2日前の11月18日土曜日、第72回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)に参加させていただく前に、袴田家に初めてお邪魔させていただけることになった。

巖さんとはこれが初対面。ひで子さんとは何度かお会いはしているが、しっかりとお話しさせていただいたことはなかった。

 

浜松駅に降り立ったのはおそらく初めて。

同じ県内とはいえ、静岡は横に長いので浜松はかなり遠い。在来線で2時間近くかかる距離だ。県外へ旅に出るような気持ちでのんびり電車に揺られる。

 

道中、ひで子さんの半生を描いた漫画『デコちゃんが行く』を読んでいたのだが、これは完全に失敗した。

せっかく気合を入れたメイクが台無しにならないように、今にも溢れ出そうな涙を堪えるのにとにかく必死。家で読んでいたら普通に号泣していただろう。

 

そんなこんなで浜松に到着。

外に出た瞬間、寒い!とにかく風が強い!

これが噂には聞いていた「遠州のからっ風」というものか。

この風の中で生きてきたのも、ひで子さんの強さの秘訣の一つなのかもしれない。

手土産のお花が吹き飛ばされないように両腕で抱きしめながら、いざ袴田家へ。

 

袴田家は、浜松駅から歩いて十分ほどの、白い3階建てマンションの3階部分である。

このマンションは、ひで子さんが巖さんと暮らすために30年ほど前に建てられたもので、見事夢が叶い、巖さんと共に穏やかに生活されている。

 

3階まで階段を上ると、かわいらしいピンク色の大きなドア。

そこがひで子さんと巖さんの暮らす家である。

 

出迎えてくださったのは、袴田さん支援クラブ代表の猪野待子さん。献身的にひで子さんと巖さんの支援をし続けている、ものすごくパワフルな美人だ。

 

中に入らせていただくと、広々としていて見晴らしの良い、綺麗で素敵なお部屋である。

 

そこに、巖さんがいた。

何度も画像や映像で見たことのある巖さんが、穏やかな表情で目の前に座っていた。

 

緊張しながら挨拶をして、握手をしていただいた。

柔らかく温かい手だった。

 

巖さんは年齢を聞かれると、23歳だと答えるという。巖さんと同い年の23歳だということ、清水から来たことなどを伝え、巖さんとお友達になりたいと伝えてみた。

 

私の声は聞こえているのかいないのか、たまに何となく返事のようなものがある程度で、なかなか会話にはならない。

まだお友達にはなれなかったようだ。巖さんに認めてもらえるまで浜松に通い続けるつもりだ。

 

しかし、メジロの絵を添えた手紙を手渡すと、受け取って無言でじっと見つめていた。そして、外出するときに上着のポケットにしまってくださった。

 

巖さんは、小さい頃近所で火事が起こった際に、飼っていたメジロの鳥籠だけを抱えて逃げて震えていた、というエピソードを聞き、それで下手ながらもメジロの絵を描いてみたのだ。

何か昔のことを思い出していたのだろうか。表情からは何も読み取ることはできなかった。

しかし、受け取ってくださったことが非常に嬉しくて、危うく泣いてしまうところだった。

 

48年にも及ぶ死刑囚としての獄中生活が、巖さんの人生と精神を蝕んでしまったことに対して、もちろん胸が痛む感覚もあった。

しかしそれ以上に、巖さんがちゃんと生きて目の前にいて、肌のぬくもりを直に感じることができた、その感動のほうが大きかった。

 

どうしてひで子さんはあんなに強くいられるのだろう、とずっと不思議だった。しかし、その理由が何となくわかったような気がする。

巖さんが目の前にいるだけで、なんだか自然と笑顔になってしまうのだ。

そのような、人としての魅力が巖さんにはある。

 

巖さんが出かけてしまってから、ひで子さんとお話しさせていただいた。

時間がなくてあまり多くはお話しできなかったのだが、私のような若輩者にも、非常に低姿勢に優しく接してくださった。

『デコちゃんが行く』に快くサインもいただけました!すごく達筆……!

 

いつ見ても若々しいひで子さんが、戦争も経験し、巖さんの無罪を求めて長年闘い、90年間も生きているという事実を、私はまだあまり呑み込めていない。

実際にお話ししていても、こんなに元気な90歳が現実に存在するのだろうか…?と疑ってしまうほどだ。

 

「本当に色々と大変だったでしょう……」と私が言うと、ひで子さんは、

「57年もあれば、みんな多かれ少なかれ大変なことはあるよ。私はたまたま巖が巻き込まれちゃっただけで」

と平然と明るく言ってのける。

 

いやいやいやいや!と思わず突っ込んでしまう。

ひで子さん、歴史的に残る大きな死刑冤罪事件ですよ?そんじょそこらの苦労と一緒にできるものじゃないですよ?

 

しかし、ひで子さんは「悲劇にしたくない」とおっしゃった。

私はその言葉を咄嗟には理解できなかった。

巖さんやひで子さんの身に降りかかった苦しみを、悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。

 

しかし、実際に袴田家に伺って巖さんにお会いしたからこそ、あとになってその言葉の意味するところが何となくわかるような気がした。

 

警察・検察や裁判所、再審制度などに対して、一番怒りを感じているのはひで子さんのはずである。

しかし、巖さんが生きて帰ってきて、一緒に暮らすことができるということに、一番幸せを感じているのもひで子さんなのである。

 

だからこそ、過去を振り返るのではなく、常に前を向いて歩くことができるのだろう。

ひで子さんの言葉には、あとになってずんと重みがのしかかってくる。

 

また浜松で、「袴田さん支援クラブ」や「見守り隊」の方々とも多くお会いした。

皆あたたかい方ばかりで、その努力とやさしさのおかげで、ひで子さんも巖さんも穏やかに暮らせているのだろうと思った。

 

一度殺人犯のレッテルを貼られてしまうと、たとえ再審無罪を勝ち取っても、故郷に戻るのはなかなか難しいと聞く。

その点で、未だ死刑囚であるにもかかわらず、巖さんが浜松で暮らすことのできる環境を作っているひで子さん、また支援者の方々の努力は偉大だと思う。

 

清水、特に事件のあった横砂周辺では、未だに風当たりの強さを感じることがある。

巖さんにとっては思い出したくない場所かもしれないが、清水でも巖さんをあたたかく歓迎する基盤があったらいいな、と少し考えた。

 

とにかく、この日はひで子さん、巖さんをはじめ、浜松の支援者の方々などに大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.2

袴田事件再審第2回公判傍聴記―これは闘いである

なかがわまお

2023年11月10日金曜日。静岡地裁にて、袴田事件再審第2回公判。

今回は見事傍聴券が当選して、裁判を生で見届けることができた!

 

この日の静岡はあいにくの雨。

天気のせいか、単純に二回目だからなのか、人もカメラも前回よりかなり少ない。

 

◎9:45 当選番号発表

思わず、「当たった~!!!」と叫んでしまった。

今回並んだのは89人。3人に1人くらいは当選する計算になるが、一緒にいた5人のうちの4人が当選した。すごい強運!

 

今回は検察官の主張①(犯人はみそ工場関係者であり、袴田さんが犯行を行うことが可能だった)に対しての弁護側の反証。

 

長い間指摘され続けてきた点が丁寧に説明されていたので、事件を知っている人にとっては、特に新しい情報というものはない。

しかし、くり小刀、雨合羽、ブリキ缶、ゴム草履などの実物が現れたのには驚いた。

当時の現場や調書の写真も数多く見ることができて、実際に起きた事件なのだということを再認識させられた。

また、当たり前なのだが、検察と裁判官という相手が実際にいるということを目の当たりにして、ああ、これは闘いなんだな……と身に沁みて実感した。

 

◎10:30頃~ ボディチェック

 

二階に上がると大勢の裁判所職員の方々。

筆記用具以外は何も持ち込めず、荷物を預けたあと、全身くまなく金属探知機を当てられる。唯一反応した腕時計も入念にチェック。ここまで厳重な警備だとは思っていなかったので驚き。

 

裁判傍聴自体初めてというのもあってわくわくしていたのだが、法廷前に貼られている紙の

「住居侵入 強盗殺人 放火」「被告人 袴田巖」

というおどろおどろしい文字に一気に身が引き締まる。

 

◎11:00 開廷

 

それでは11時になりましたので~、と案外ぬるっと開廷。

 

席は指定席で、弁護側の後ろ。弁護団の先生方のお顔は重なってしまってあまり見えなかった。

逆に検察のお顔ははっきりと見える。メガネで鋭い目つきの男性2人と、かわいらしい若い女性の3人。どんな気持ちなんだろう、本当は嫌だろうなあ、などと気になってしまった。

 

最初に、検察が起訴状における被害者(専務)の年齢の誤りを訂正。…今更?

 

その後弁護側が、事件の4日後の1966年7月4日の「従業員H」の名前が記載された新聞記事を、すでにこの時点で警察が袴田さんを犯人と決めつけてリークした証拠として採用しなかったことに異議を申し立てたが、地裁は棄却。

 

一般的に、公判外での供述や報道内容などは「伝聞証拠」と呼ばれ、ほとんどは採用されないようだ。確かにこれは確たる証拠にはなりえないし、新聞が適当に書いただけと言われればそれまでだが、悔しい。

 

◎弁護側冒頭陳述

 

田中薫弁護士が、犯人はどこから侵入したのか、どうやって4人を殺害したのか、奪ったとされる金はどこに行ったのか、などを問いかけるように述べ、改めて犯人はみそ工場関係者ではないこと、単独ではなく、外部の複数犯であること、強盗目的ではないことを主張した。

 

まず、ポケットに鞘の入った雨合羽は本当に落ちていたのか、くり小刀が凶器なのか、雨合羽から人血反応があったという鑑定書が再審になって初めて出されたことを指摘。

 

また、放火に使われたとされる工場にあった混合油や、被害者宅から工場までの間に落ちていた金袋、みそ工場の風呂場の血痕を7月23日に見つけたと主張していることなど、犯人はみそ工場関係者と主張される点についての疑問点を挙げる。

 

そして、検察側の主張するような行動を袴田さんがとれたとは到底考えられないと締めくくり、冒頭陳述は終了。

 

雨合羽の鑑定書が再審で初めて出されたという点に対して、検察は「隠したわけじゃなく開示されなかっただけだ」と反論。

隠したとは一言も言っていなかったのだが……。

 

◎弁護側立証

当時の調書や写真、図を用いながら、一つ一つ反証が行われていく。

 

・現場状況

まず、現場の図や当時の写真を多く使いながら、事件の状況を確認していく。

私は事件現場には何度か足を運んでいるので、特に事件前の被害者宅の写真を見て胸が苦しくなった。焼けてしまって、今ではそのほとんどが残っていない。

 

・パジャマ

7月4日に任意提出された袴田さんのパジャマの写真が出される。

ぱっと見では染みがついているようには見えない綺麗なものだった。しかしこれがいわゆる「血染めのシャツ」なのである。

 

・雨合羽

雨合羽が発見された時刻が、事件当日6月30日の「午前11時」に線が引かれ、「午前4時」と書き直されていること、その後の実況見分調書では雨合羽の記述がないこと、7月6日付で初めて雨合羽の写真が出てきたこと、また消火の際に工場員が雨合羽を着たという証言があったことなどを指摘。

 

と、ここで、雨合羽とポケットに入っていたという鞘の実物が登場!

モニターに写して見せるが、雨合羽は何となく黒っぽいくらいでほとんど確認できず。

 

◎12:15~13:15 休廷

 

・くり小刀

いきなりくり小刀現物が登場!

刃渡り12㎝ほどと知ってはいたものの、実物のあまりの小ささには心底呆れてしまう。

人を4人も殺害したものだなんて到底思えないし、これで人を刺そうという発想にも至らない。被害者4人は40箇所も刺され、肋骨まで切れているのだ。

しかし実物は「凶器」という言葉には全く似合わない、おもちゃのような代物だ。しかもくり小刀から血液は検出されていない。どうして凶器として認められたのか、不思議で仕方がない。

 

・混合油

警察は普通、放火ならまず油などの特定をするはずなのに、特定をしないまま7月4日には工場内にあった混合油と断定した。しかも、専務の遺体の近くにはガソリンの入った缶があったのにもかかわらず。

鑑定では混合油が放火に使用されたかどうかは不明だという結果が出ている。

 

ここでまた現物の登場。工場の混合油が入っていたブリキ缶(高さ50~60㎝ほどか)と、混合油を運んだとされるポリ樽(こちらはレプリカ)。

このブリキ缶の側面から数カ所の人血反応があったということだが、もし犯行に使ったのなら絶対に触れるはずの蓋や、巻いてあった縄からは血液は検出されていないのである。

 

検察が「つまり人血反応は捏造だと言いたいのか」と聞いたが、

田中先生が、「いいえ、捏造と申しているのではありませんよ。側面だけに人血反応があったという点が不自然だと申しているのです」と嫌味っぽく切り捨てる。

 

◎14:25~14:55休廷

 

・金袋

奪われたとされる金袋とその金額、また被害者宅に残されたままだった甚吉袋の中の金袋の中身や、現金、通帳、貴金属類などをすべて確認し、改めて強盗ではないことを指摘。

預金もものすごい額が残っており、宝石のついた指輪等も、乙女心がときめくほど大量にある。もしも私が犯人なら絶対に盗りたい。

 

・取調べの録音テープ

袴田さんが自白を始めた1966年9月6日(とされている)の取調べの録音が流される。

内容は、「犯行後にどこから出たのか」を松本警部が尋ね、袴田さんが「裏(木戸)です」と答えるが、警部が「裏木戸は閂がかかっているのだからありえないだろう」と威圧的に否定する場面である。

 

生々しい録音が流れ、検察側がさっと強張ったように見えた。自分たちの先輩として、どう感じているのだろうか。

 

最後に田中先生が、「他の従業員に気付かれずに工場を出て、一人で被害者宅に侵入し、くり小刀一本で4人を殺害し、工場に戻って混合油をポリ樽に移して運び、再び被害者宅に侵入して放火し、また工場に戻るという行動が、いったい袴田さんにとれたでしょうか」と、心に直接訴えかけるように、静かに検察官に問いかけた。

 

田中先生が語り出した直後から、検察が明らかにそわそわと体を動かし始める。かなり動揺しているように見えた。

 

・ゴム草履

ここで犯行時に袴田さんが履いていたとされているゴム草履の実物が現れた。

黄色に鼻緒部分が青色の、普通のペラペラのビーサンである。

 

このゴム草履は犯行時に履いていたとされたのにもかかわらず、当時警察が鑑定したところ血液も油も検出されなかったために、57年間証拠として日の目を浴びることがなかったものだ。

つまり、重大な無罪の証拠になりうる。

 

最後に、検察側からの質問。

「検察が何を捏造したと言いたいんですか!?」と声を荒げる検察官に、

「捏造なんて一言も申しておりません!」と強く主張する田中先生。

 

田中先生、問いかけるような静かな語りから、皮肉めいたきっぱりとした物言い、また怒気を含んだ口調まで、一人何役かと思うほど、とにかくメリハリがすごい。何を言われてもコロッと洗脳されてしまいそうだ(笑)

 

にしても、今回は「捏造」という言葉は一切用いられていなかった。弁護側は非常に落ち着いた口調で、客観的証拠に基づき淡々と指摘をしていた。もっとガンガン攻めてほしい!と物足りなく思ってしまうくらいに。

 

え、検察官、話聞いてなかったの?と私ですら思った。

 

最後に次回の日程を確認して終了。

次回、第三回公判は11月20日(月)、検察側が主張②の「5点の衣類」についての主張を行うとのこと。

 

◎15:50頃 閉廷

 

終わってどっと疲れを感じたが、意外と時間が早く過ぎたような気もした。初めての裁判で緊張するかと思ったが、それほど厳かな空気だとは感じられなかった。

 

しかし、やはり実際に裁判を見てみて、事件に対する実感というものが強くなったように思う。

 

一番大きかったのは、これはれっきとした闘いなのだという体感を持てたことだ。

 

支援者や弁護団の方しかいない場で事件について話していると、もうすでに無罪判決は確定しているような和やかさが常にある。

しかし、実際には検察という敵がいて、判決を決める裁判官がいる。本当に無罪になるのかどうかも、いつ判決が下されるのかもわからない。

 

裁判に関しては応援するくらいしかできることはないのだが、なんだか、私ももっと気を引き締めなければ、という思いになった。

 

そして闘いは袴田さんのためだけではなく、この事件でお亡くなりになった被害者の方のためでもある。

事件現場付近は当時の面影を残して今もうら寂しく、被害者四人は現場近くのお墓で静かに眠っている。早く真相が解明され、被害者の方々が少しでも安らかに眠れることを心から願っている。

 

また、考えてみれば当然のことなのだが、当時の調書がすべて肉筆で書かれているという事実に驚きを感じた。

 

冤罪は警察・検察組織全体、司法制度全体の問題である。

しかし同時に、冤罪を作り上げたのは一人一人の人間でもある。

そしてその罪は、現在の検察官一人一人にはない。

 

人間である以上、間違えることはある。だから、もし過去に過ちがあったのなら、すぐ素直に認めれば良いだけの話ではないか。私はそう思う。

 

◎17:30~ 弁護団記者会見

 

最初に西嶋勝彦弁護団長が、第二回公判について「明確な弁論だった」と評価した。

 

ひで子さんは「弁護士さんが捜査資料をよく読みこんでいることがわかった。改めて弁護士さんの力の強さには感謝しております」と発言。

 

この言葉を聞いて角替先生の目から涙が……先生、素晴らしかったです。お疲れ様でした。

 

ひで子さんは、だらだらとした初公判とは違って、今回は「裁判らしい裁判だった。とても良い裁判だった」と感想を述べられた。

 

角替先生や水野先生は、再審というものの難しさについて語られた。

今回の裁判で証拠となるものは、検察が検察のために集めた、有罪の方向への材料しかない。つまり弁護側は、有罪のために集められた証拠の中から無罪の証拠を探すという、非常に困難な作業をしなければいけないということである。

 

今回、弁護側は公判内で「捏造」という言葉も用いていないし、意見を主張するのではなく、客観的な証拠に基づく指摘を一つ一つ丁寧に行っていた。

 

検察側は何だかずっと焦っている様子で、「捏造ではない」とずっと言いたげだったが、そもそも誰もそんなことは言っていないのである。

 

もちろん弁護団は捏造を疑っているし、本当はそう主張したいだろう。

しかし、捏造かどうかを評価するのはあくまで裁判官であって、弁護側は検察の主張の矛盾点を詰めていって、最終的に「捏造しかありえない」という判断を目指す方針である。

 

また村崎弁護士は、司法の世界では未だに非常識がまかり通ることを訴え、袴田事件は「司法の汚点」として、司法制度を変えていく闘いでもあると訴えた。そして報道の責任もある、反省してほしい、と語気を強め、記者の方々は心なしか居心地悪そうにしていた。

 

◎19:00頃 記者会見終了

 

初めて裁判を傍聴することができて、長くて濃い一日だった。

改めて、弁護士の先生方やひで子さん、また支援者の方々のバイタリティには尊敬する。

私も私なりに、何か力になれるように頑張ろうと、いっそう強く感じる日になった。

 

第3回公判は11月20日、検察側の主張②、5点の衣類についての立証が行われる。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.1

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」―事件との出会い、そして決意

なかがわまお

皆さんは、「袴田事件」についてどのようなイメージを持っているだろうか。

今では一般的に「冤罪事件」として知られていることが多いだろう。すでに無罪判決が下されている事件だと思っている方も多いかもしれない。

 

事件現場の近く、静岡県の清水で生まれ育った現在23歳の私は、最近まで、「袴田事件」=「昔近くで起こった冤罪事件」くらいの認識しか持っていなかった。

 

袴田さんが釈放された2014年当時、私は中学1年生だった。何となくテレビなどで見たような気はするが、はっきりとした記憶は残っていない。おそらくその前後の社会の授業で日本の四大死刑冤罪事件について学び、もしかすると最近まで記憶がごちゃ混ぜになっていたかもしれない。

 

それほど、私にとって袴田事件は、近いようで遥か遠い事件だった。

 

2023年3月、袴田事件の再審開始が決定したことを知った。

 

静岡地裁で行われるなら近いから行ってみようかな。

それくらいの軽い気持ちで、とりあえず予習として、関連する書籍を数冊読み始めた。

 

それらを読んで、私は愕然とした。冤罪だというイメージはあったのだが、ここまで酷いものだとは想像もつかなかった。近くに住んでいながら今まで何も知らなかったことを、私はすぐに恥じることになった。

 

ずさんな捜査に過酷な取調べ、検察側の矛盾した論理展開や証拠の捏造疑惑……、素人目線から見ても、この事件、語ろうと思えばキリがないほどにおかしな点が多すぎる。

どうしてこんなにも無茶苦茶なやり方で、人一人を死刑にすることができるのか。裁判とは何のためにあるのか。どうしてこれほど矛盾点が多いのに、今になるまで再審が開かれなかったのか。憤りとやるせなさで頭がいっぱいになった。

 

事件発生から今年で57年になる。

逮捕当時30歳だった袴田巖さんは、87歳になってしまった。

釈放されて穏やかに生活されているとはいえ、今もまだ「死刑囚」だ。

 

この再審が開始されるまでに、多くの支援者や弁護団、巖さんの姉・ひで子さんなどによる、半世紀にもわたる血の滲むような努力があった。私のような若い世代が、「袴田事件=冤罪」というイメージを先入観なく持てていたのは、私が生まれるよりも前から、巖さんの無罪を求めてずっと闘い続けてきた方々の功績にほかならない。

 

再審初公判の日、支援者の方々やひで子さん、弁護団の先生方に実際にお会いして、その有り余るエネルギーをこの眼で見た。そして私は、何だか居ても立っても居られない気持ちになった。

 

袴田さんやその周りの方々のために、私にも何かできることはないか。

清水の人間として、若い世代として、何か力になれないか。

 

そのような思いから、これから事件を追いながら、拙文ながらも自分の言葉で発信していく場として、ブログ『清水っ娘、袴田事件を追う』を立ち上げた。今後の公判や支援活動のこと、事件と関わるなかで感じたことなどを綴っていく予定です。

https://m-nkgw.hatenablog.com/

 

Twitter(なかがわまお:@m_nkgw2000)でも、事件に関することや、自分の思いなどを発信していくつもりです。

https://twitter.com/m_nkgw2000

 

いろいろと未熟な私ではありますが、だからこそ伝えられるということも、もしかするとあるかもしれません。私の記事が多くの方々の目に留まり、より関心を持っていただくきっかけになれば幸いです。特に若い世代や、静岡県民、事件のことをあまり知らない方々に、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 

まずはこの事件のことを知ってください。袴田さんの無実の叫びを、またずっと闘ってきた方々の咆哮を、聴いてください。そして、袴田巖さんの雪冤を、応援してください。

 

私も、まだ何をすれば良いのか模索中ではありますが、とりあえず自分のできる限りのことを全力で頑張ってみます。

袴田巖さんに真の自由が訪れるその日まで。

 

筆者の中川真緒さんは、静岡市在住の新人小説家。

静岡市主催の文芸賞「静岡市民文芸」の小説部門で、大賞にあたる市長賞を受賞。

 

 

 

無実の袴田巖さんを速く無罪に!!

無実の袴田巖さんを速く無罪に!!

《検察は袴田巖さんを再び死刑にしようとしている》

3月13日、東京高裁で『裁判のやり直し』が決まり、晴れて袴田さんは無罪になるものと多くの人が思っていましたが、検察は7月になって『有罪立証』の方針を決め、再び袴田さんを刑務所に連れ戻し、死刑にしようとしています。

これまでに4回の公判が開かれましたが、検察は「袴田以外犯人はいない」ことだけを印象付けようと、57年前の資料をつなぎ合わせ、自分たちに都合の良い証拠だけで巧妙に作文を作り上げました。しかしながら、事件当時には生まれてもいなかった3人の検事が作った作文は確たる根拠もなく、全て想像に過ぎません。

警察が『5点の衣類』をねつ造して味噌タンクに隠したと疑われることに対しては「ウソがばれるリスクを冒してまで大規模なねつ造は考え難い」と結論付けていますが、これこそが検察官の無知を暴露しています。

袴田事件が起きたのは1966年(昭和41年)ですが、戦後静岡県では、二俣事件、幸浦事件、小島事件など強盗殺人事件でえん罪が多発し、幼女誘拐殺人事件の島田事件は(1989年無罪が確定)未だ裁判の途中でした。

それらのえん罪事件を引き起こしたのが『拷問王』と呼ばれた紅林麻雄と彼の部下たちであり、袴田事件の取り調べに加わっていたことが明らかになっています。

つまり当時の静岡県警では無実の人を逮捕し、拷問で自白させる手法が常態化していたことが見て取れます。これが『えん罪・袴田事件』の背景です。

《5点の衣類は犯行着衣でも袴田さんのものでもない》

1967年8月30日に2m四方の巨大味噌タンクから発見された『5点の衣類』が唯一の決め手になって袴田さんは死刑囚にされてしまいましたが、東京高裁の再審開始決定では「捜査員が捏造した可能性が極めて高い」と指摘されました。

5点の衣類は発見当初からおかしなことばかりで、はけないズボン、味噌漬けにされた衣類の色などが知られていますが、犯人が味噌タンクに入れた理由を考えれば疑問は解けます。なぜなら味噌は商品ですからいずれ出荷されます。必ず発見される場所に入れる行為は、隠すのではなく、むしろ発見されるために行ったと判断できるからです。しかも、味噌タンクから発見されたのは『5点の衣類』だけではありません。みそ会社の社名の入ったマッチ箱と絆創膏がズボンの右ポケットに入っていました。なぜ絆創膏がと思われるでしょうが、袴田さんは消火作業の最中に左手の中指をトタンのようなもので切って怪我をしています。『5点の衣類』だけでは袴田さんを犯人にすることはできないので、その所有者が工場従業員で、指などに怪我をしている人物であることを連想させなくてはなりません。もちろん警察は事件直後から袴田さんが指を切って治療していたことを知っています。

袴田さんがもし本当の犯人ならばわざわざ明らかな証拠を残すはずがなく、被害者と一緒に放火して燃やしてしまったり、工場の裏の海に捨てたでしょう。

一方、ねつ造した側は袴田さんのものだと類推出来て、また必ず発見される場所=間違って捨てられることがない場所に入れなければならなかったのです。

《私は犯人ではありません=獄中から生の声》

袴田さんは1981年に、第一次再審請求を静岡地裁に提出しました。1983年には獄中で猛勉強をして自ら書いた16枚の『意見書』は次のように述べられています。

「第一審判決は誤判であり、私は無実である」「はけないズボンは自分のものではなく、事実誤認である」「血染めの衣類は私の物ではない」

この時すでに獄中17年を経過してもなお再審に意欲を見せ、理路整然とそして魂を振り絞り「無念の獄中から万感を抱きつつ、再審開始決定を求めます。」と袴田さんは訴えていました。(1983年2月)

このように心から再審開始を願っていた袴田巖さんは今再審公判の場にいません。死刑囚としての想像を絶する苛酷な拘留によって、精神が壊され、普通の会話が出来なくなってしまいました。

40年前にこの意見書が裁判官によって取り上げられていれば、信じがたいほどに残酷なえん罪を止めることができたかもしれません。しかし袴田さんの訴えが認められたのは、それから30年以上も経った2014年の静岡地裁の再審開始決定であり、今年3月の東京高裁の決定でありました。

どんなに謝罪しても、愛する家族と引き裂かれ人生を奪われた過ちは取り返すことはできませんが、袴田さんがせめて残された人生を穏やかにそして晴れやかに生きることを望むのが人としての心情ではないでしょうか。

 

検察は身内の強硬意見に突き動かされ、袴田さんに死刑を求刑しようとしていますが、検察の非道を非難する市民の声はこうした検察の姿勢を変えることができます。

年が明ければ、袴田巖さんは88歳に、姉のひで子さんは91歳になります。残された時は本当に少なくなっています。一刻も早く、速やかに無罪判決を勝ち取らなければなりません。

無実の袴田さんを応援してください。                                       (文責:清水)

 

熊本典道氏のご逝去を悼み、ご意志を受け継ぎます。

1968年、静岡地裁の第一審主任裁判官、不本意な死刑判決を執筆。その痛烈に反省・告白した元裁判官

熊本典道氏のご逝去を悼み、ご意志を受け継ぎます。

「袴田さんは無罪だった!」 元裁判官の告白。

「こんな証拠で有罪にできるわけがない」自分の判断は無罪。ところが、裁判体の結論としては、2対1の多数決で有罪・死刑。主任裁判官の熊本典道氏は、意に反してその判決文を書いたのでした。「自分が無実の袴田君を殺したも同じ事」、その心痛から退官し弁護士として再出発したものの、心の底に渦巻く悔恨の思いに苛まれる人生を送ることに。約40年後の2007年、ついに死刑判決を自らの過ちとして告白するに至りました。最高裁に「陳述書」を提出し、袴田巖さんに降りかかった冤罪を晴らす活動に入ったのでした。

病床にあっても「袴田君に直接会って謝りたい」という熊本さん。長年の願いが叶ったのは2018年のこと。病気で寝たきりの熊本さんのところにひで子さんが巖さんを連れて見舞いに訪れたのです。そこで、「イワオー、悪カッター」と、心の底から絞り出すような声での謝罪がありました。

「袴田君が一日も早く再審無罪となり、自由になってほしい」という熊本さんの心底からの願いを、私たちが受け継ぎ実現しなければならないと思います。

 

2対1の多数決で決めただって! 人の生命が軽すぎ!

熊本さんは無罪判決を準備してありました。が、有罪死刑判決を書かざるをえなかった不条理を振り返ってみると、貴重な教訓に突き当たります。

「三人の裁判官のうち、一人でも反対すれば死刑にすべきではない」。熊本さんもそう言っていますが、人間の生命を多数決で効率的に処理するというその安易さを突いているのです。日本人の生命はかくも軽いのでしょうか。アメリカの陪審員裁判では、基本的に全員一致でなければ死刑にはしません。結論が分かれた場合には、陪審員を入れ替えてもう一度裁判をやり直します。そのくらいの慎重さで人の命に向き合うのです。

近代司法の原点は、権力の行き過ぎや暴走から市民の生命や財産、自由と尊厳を守るというところにあります。犯罪処理の効率化ではありません。今でも、簡便な多

数決による重罪判決に疑問が投げられない状況にあるのは、日本の司法(また社会)が、未だに近代化されていない、時代遅れということです。「悪い奴らは手っ取り早く捕まえて、ドンドン酷い目にあわせればいい」、江戸時代の“岡っ引き根性”が幅を利かせている犯罪捜査や裁判は、いつまで市民を苦しめ続けるのでしょうか。

ところで、そもそも裁判とは検察官の有罪立証を審理の対象としています。有罪立証が完璧ならば有罪。合理的に(市民の常識で)考えて、立証に疑問があれば無罪。弁護人や裁判官が被告の無実を証明する必要はありません。裁判官が3人いてそのうちの一人が無罪意見ということは、まとめて見れば合理的な疑問あり。合議体としての裁判所は無罪を宣告しなければならないのです。そのことを含めた上で、裁判の公正さは成り立っているのです。

日本国憲法と現行刑事訴訟法は、近代司法の精神に立脚しています。裁判がその精神に忠実で公正であったら、袴田巖さんは正しく無罪だったのです。

 

熊本さんの叫び 「主文は死刑だけど、本当は無罪ですよ」

熊本さんがやむを得ず書いた判決文は、もっともらしく有罪をとりつくろう文脈になってはいますが、法理論的には無罪としか読めない仕掛けがしてあります。熊本さんが判決文中の「付言」で捜査当局の非を鳴らし、続いて石見裁判長も捜査陣を「ならず者」呼ばわり。無罪を示す論述の上に、有罪死刑という「主文」が無遠慮に置かれているようなもの。第一審は「死刑」にしてしまったけれども、上級裁判所(高裁、最高裁)の裁判官はそのトリックを見抜いて死刑判決を覆してほしい。そんな熊本裁判官の願いが込められているからです。しかし、期待をかけられた裁判所では、誰もがそれを取り上げることなく死刑判決が確定するという悲劇となったのです。

この無念はひとり熊本さんのものではなく、みんなが共有する無念。それは市民の責務として、絶対に晴らさなければならないのです。

袴田さん支援クラブ

有罪証拠の柱・『5点の衣類』は、ねつ造

有罪証拠の柱・『5点の衣類』は、ねつ造

袴田事件最大の争点『5点の衣類』とは?

『5点の衣類』とは、事件から1年2か月後に発見された5点の衣類の事です。 それはズボン、スポーツシャツ、ステテコ、半袖シャツ、ブリーフの5点で、事件のあった 味噌会社の専務宅から線路を隔てた味噌工場の深いタンクの底から麻袋に包まれた姿で発見されました。

ステテコ

鉄紺色ズボン

半袖シャツ

スポーツシャツ

緑色パンツ

 

 

 

 

 

 

公判開始から1年が過ぎ、パジャマ以外物証がなく検察の立証は完全に行き詰っていた時のハップニングでした。起訴状にはない重要証拠が突然出現しました。検察はすぐさま訴因を変更、起訴状や「自白調書」に反する主張に乗り換えたのです。

拘置所にいた袴田さんは、これを「真犯人が動き出した証拠で、ますます有利になりました」と、大喜びで母親に手紙を書いています。無実の被告人としては、『5点の衣類』がまさか自分に着せられる濡れ衣だとは思いもよらなかったことでしょう。

弁護団は異例の展開に十分反論できないまま、68年9月『5点の衣類』を最大の決め手に死刑判決が下されました。確定控訴審(東京高裁)の審理においても、5点の衣類を中心的な証拠として死刑判決が維持されました。以降、『5点の衣類』が犯行着衣でしかも袴田さんのものなのか、この点が裁判の主要な争点となってきたのです。

誰もが事件との関連を容易に想像できる場所にあえて隠す理由は何だったのか?発見の経緯が謎だらけで、袴田さんと結び付けるために様々な細工も施されていました。同僚の会社員なら袴田さんをすぐに連想できるステテコと緑色ブリーフ。そしてズボン、スポーツシャツ、半そでシャツには袴田さんの「自供に合わせる」かのように損傷が作られていたのです。しかも5点の衣類にはすぐそれと分かる大量の血が付着しており、警察は衣類発見からすぐに『5点の衣類』を犯行着衣と決めつけ、異例のスピードで審理が進められました。

いつ、誰が、何故、深さ1,67mもの巨大な味噌タンクの底に隠したのか?謎は深まるばかりですが、見方を変えて誰かが袴田さんを犯人にするために仕組んだ罠だとすれば謎が解けるのです.

マッチと絆創膏

はこの時、味噌タンクから発見されたのは『5点』だけではなかったのです。

衣類の損傷は常識では考えられないほどずさんな物でしたが、注目すべきは味噌タンクから見つかったのは5点の衣類だけではなく、ズボンの左後ポケットに「こがね味噌」の名入りマッチと絆創膏が入っていたことです。袴田さんは消火作業中に左中指に深い切り傷を負っていて、警察はもちろんそのことを知っています。会社名入りのマッチも犯人がこがね味噌会社の関係者であることを暗示する見えすいた小細工です。犯人を特定する証拠を残すこと自体、隠すという行為とは相反しています。しかも、袴田さんが負傷したのは左中指なので絆創膏は右手に持って治療します。治療が終わり、右手でポケットにしまうなら常識的には右後のポケットです。警察はそこまで頭が回らなかったのでしょう。不自然というより全てがありえない事です。

 

謎だらけの『5点の衣類』

【発見の経緯】

事件発生から1年2ケ月後の1967年8月31日午後4時過ぎ、『こがね味噌』工場内にある『一号タンク』から赤味噌の搬出作業をしていた従業員が異物の混入に気づき、掘り出してみると南京袋でした。「袋の口は縛ってなくて、中に手を突っ込むと衣服が入っていた。つかんで取り出したらこれが血に染まっていた」「素人が見ても血だと分かりました」第17回公判(1967/9/13)での従業員Mの証言

味噌タンクは縦横約2mのほぼ正方形、深さ167cmで地上部分は91cmあり、南京袋はタンクの底の底、縁から165cmの所で見つかった。この時点で1年前に仕込まれた8トンの味噌は大方出荷されていて、事件直後とほぼ同量の味噌が入っていたところでした。しかし、味噌工場は事件直後に警察の捜査が入り厳重に調べられていたところでした。見落とすことなど考えられない捜査があった場所

誰が、いつ、隠したのか?

一審の静岡地裁の判決では「味噌タンクに隠した状況、日時は全く根拠がない」としたのが東京高裁では「7月20日以前、それ以降は不可能」と変わり何の根拠も示さず断定し、犯行着衣であるとされてしまいました。弁護団もこの時点ではまさか警察がねつ造するとは考えられなかったのです。

味噌タンク(発見場所)

 

 

 

 

 

 

 

【衣類の疑問】

―ありえない服装と不自然な衣類の損傷からずさんなねつ造が見えてくる―

 

事件当日は台風一過の熱帯夜(新聞発表によるとこの日の旧清水市の気温は28℃,湿度80%)。84歳の今、いつも扇子を手放さない無類の汗かきの袴田さんが、緑色パンツの上にステテコをはき、さらに秋冬物の純毛製の厚いズボンをはいて、上にはメリヤス製の半袖シャツにアクリル製の長袖のスポーツシャツという服装で、4人を相手に大立ち回りをしたことになります。「自供」によれば、さらにこの上に厚手のゴム雨合羽を着て、ゴムサンダルを履いて、専務宅へ侵入するため、木によじ登ったというのです。

これはもう笑い話です。真冬の街歩きにも扇子を手放さず、汗びっしょりになる袴田さんの今が無実を証明しています。ステテコは男性にとって夏の部屋着の様なもので、普通ズボンの下にパンツと一緒にはくことはまずありえません。汗かきの袴田さんならなおさらです。

また、着る必要のない雨合羽と血が全く付着してないゴムサンダルについては、袴田さんの無罪の証拠だから検察は触れなくなりました。

【犯行着衣らしく見せること】

5点の衣類が犯行着衣であるかどうかと袴田さんの物であるかということは本来別の問題なのですが、警察にとってねつ造の目的は、5点の衣類が犯行着衣であるかのように見せることであり、さらに5点の衣類が袴田さんの物だと立証することでした。

そのために袴田さんを連想させる緑色パンツとステテコは必要不可欠で、シャツとズボンには自供に添った損傷があることが重要だったのです。袴田さんの犯行というシナリオ自体が空想の産物である限り、想像だけで完壁にねつ造するのは不可能で、付着した血が上着より下着の方が多いとか、右肩の傷とシャツの損傷の位置も数も不一致なこと、すねの傷とズボンの損傷の鍵型の向きが逆だったこと等々、全て杜撰(ずさん)です。

第一次再審での静岡大学沢渡教授の鑑定では身体の傷と衣服の損傷、血痕の位置には法則があり、半袖シャツはその法則に反している。半袖シャツとスポーツシャツがねつ造されたもので、別々に傷が付けられたとすればこのような食い違いが生じたことは理解できると証言しています。

事後のねつ造ですから、シャツとズボンの損傷が袴田さんの生身の傷の位置と厳密に合致させることは不可能。おそらく、犯行着衣らしく見せれば、後は裁判所が上手に言い繕ってくれるだろうとの期待があったでしょうし、裁判はその思惑通りに進んできました。第二次再審の静岡地裁決定で、ウソが見破られるまでは。

 

【なぜ5点なのか】  ―ねつ造の意図が透けて見える―

ふつう犯人が犯行着衣を処分する時、確実に発見されそうな場所に、殺人の決定的証拠を隠すだろうか。発見させるためなら理解できる。工場のすぐ外は海岸線が続いており、スコップと麻袋を抱え、ハシゴで深い味噌タンクの底に降りて行く危険よりも、海に投棄する方がはるかに安全だ。また、味噌タンクのそばのボイラー室で、あるいは放火したときに一緒にしてすべて焼却すれば簡単に始末できます。

しかも、残虐な強盗殺人放火事件の関係証拠が、なぜ5点だけなのかという疑問も当然湧いてきます。それはねつ造する側の事情によって『5点』が《必要十分》だったと考えるのが自然です。袴田さんのものと思わせるためならブリーフとステテコだけで《十分》だったのに、犯行着衣に見せるためには、自供に沿うような傷が付き、血染めになった半袖シャツ、スポーツシャツ、ズボンが《必要》だったのです。

重大なことに、ここに袴田さんのものであるパジャマとゴムサンダル(犯行時に身に着けていたとされた証拠物件)が入っていない。別に見つけている。特にパジャマは決定的な証拠として扱われていました。そのことは、5点の衣類は事件と関係がないことを示唆しています。もし、真犯人が犯行着衣を隠すならば、最初に犯行着衣とされたパジャマやベルト、手拭い、ゴムサンダルなど事件現場で血がついて発見されたとされたもの全てを一緒に処分するでしょう。血染めの衣類とこれらの付属物も証拠価値としては同等で、処分し忘れることは真犯人にとって致命的なミスにつながります。静岡県警が知恵を絞って考え、選別した結果が『5点』だったのです。5点の衣類は袴田さんの物かどうか疑わしいものばかりで、一緒に入れられなかったパジャマとゴムサンダルは間違いなく袴田さんの物であり、無実の証拠だからです。誰でもねつ造できる『5点』だということが、ねつ造の証拠なのです。そう考えれば、ズボンのポケットにマッチと絆創膏がこれ見よがしに入っていたことが理解できます。

 

裁判所はどう評価・判断したか

確定判決(1976.5.18)の認定

㋐5点の衣類には下着に至るまで多量の、被害者らの血液型と一致する人の血が付着していた

㋑ズボン、スポーツシャツ、半そでシャツに各々損傷があり、白半そでシャツ右肩の部分には内側からにじみ出て付着したとみられる人血(B型)が付着していた

㋒衣類は事件後一年以上経過後、昭和42年(1967)8月31日味噌出しをしていた味噌会社従業員によって発見され、前年7月20日以前、新たな仕込みが始まる前にこれらの衣類が隠されたもので、それ以降は不可能である

㋓発見場所の工場が犯行現場に近く、他に同様な事件は認められない

 

㋐㋑㋓だけでは、疑問の余地がないほどの証明にはならず、ねつ造の可能性を否定できない。㋒は認定の誤り。犯行着衣であるとするにはどれも疑問だらけで、認定のための必要な証拠や事実が存在しない。こんな虚ろな証拠での死刑判決は無理筋もいいところです。    

 

静岡地裁再審開始決定(2014.3.27)の判断

・5点の衣類はDNA鑑定によって袴田の着衣でもなく、犯行着衣でもない蓋然性がある

・味噌漬け実験の結果、衣類の色合いや、血痕の色は1年以上味噌に漬かっていたとするには不自然で、ごく短時間でも、発見された当時と同じ状態になる可能性が明らかになった。

・5点の衣類という最も重要な証拠が捜査機関によってねつ造された疑いが相当程度あり、その他にも捜査機関の違法、不当な捜査が存在し、又疑われる。国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けたことになり、拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する。

袴田さんの無実の叫びが、ついに裁判官に届きました。村山浩昭裁判長はその日のうちに袴田さんの刑の執行と拘置の停止を決め、袴田さんは48年ぶりに監獄から釈放されました。

 

東京高裁大島決定(2018.6.11)の判断

5点の衣類が①犯行時に袴田が着ていた衣類である ②袴田の物であるこの2点の認定が揺るがない限り、「無罪を言い渡すべき」明らかな証拠とは言えないそれ以外の証拠は補助的なものに過ぎない

  • 本田教授の細胞選択的抽出法は一般的に確立した科学的手法とは認められず、その信用性に疑問がある
  • 味噌漬け再現実験で用いた味噌とこの会社の味噌の色は異なり、比較したカラー写真は劣化退色している。判断の基礎とした写真は、5点の衣類の色合いを正確に表現したものではない。これらの写真を基に大まかな傾向や、味噌漬けの色を判断したのは不合理な判断だ。
  • 5点の衣類を発見時に近接した時期に、味噌タンクの中に隠すには、従業員の協力が不可欠であるが、そのような協力を得ることは著しく困難で、捜査機関が隠匿した現実的可能性は乏しい。                                                                                                                                                                                                             (都合のいい可能性論で、ねつ造の否定にはならない)

④「はけないズボン」確定判決はズボンのサイズの認定に誤りがあるが、ウエストサイズを見る限り、袴田が本件当時はけなったとは言えない(原因はウエストサイズではない

⑤「すねの傷」袴田を全裸にでもしない限り、ズボンの下の傷の発見は困難で、逮捕時の袴田の右すねに傷がなかったとは言えない。   (裁判官の無知と非常識)

611抗議行動

 

 

 

 

 

 

弁護団の主張

特別抗告理由補充書5(2019.7.17)

検察の主張を丸写しにした偏見と思い込みの大島決定に対し、弁護団は最高裁へただちに特別抗告、その補充書を順次提出してきました。その補充書5では5点の衣類が味噌タンクに隠された時期は不明であり、高裁決定では5点の衣類がねつ造証拠である可能性を否定することができないことを明らかにしました。

高裁決定はおよそ裁判所の判断と思えないずさんな決定。裁判官のねつ造に対する強い偏見が証拠の評価を誤らせ、論理的な思考を妨げたのです。

 

5点の衣類が犯行着衣であるとの認定部分の重大な誤り

【5点の衣類はいつ隠されたのか?時期は不明!】

隠匿(いんとく)可能な時期は

➀1966年6月30日~7月20日

② 1967年7月25日~8月31日の間

※7月20日から翌年の7月25日までは約8トンの味噌が入れられた(タンクの体積は約8㎥)

①ならば犯人が入れた⇒犯行着衣の可能性

②ならば袴田さんは逮捕・拘留中⇒ねつ造の可能性

 

 

確定判決の概要のうち

㋐は「被害者らの血液型と一致」と言うが専務はA型、妻はB型、次女はO型、長男はAB型であり、「一致」という評価は無意味。付着していた血液のほとんどがA型で最も残酷な殺され方をした次女のO型が全く検出されないのはありえない。ねつ造の可能性が強く疑われる。

㋑も同様に衣類の損傷はねつ造の可能性を否定する根拠にはならず、ズボンや半そでシャツなどのずさんな損傷の生成は、かえってねつ造の疑いを増すばかり   。

㋒隠した時期について、確定判決は7月20日以前でそれ以降はほとんど不可能と言うがそれ自体が間違い。十分可能だった。翌年7月25日以降には味噌の取り出しが始まり、8月末にはシャベルがタンクの底に届くほどの味噌しか入っていなかったので、この会社の従業員によって、作業中にごく自然に発見されることになった。

㋓は入れられた時期とは全く無関係で、ねつ造を否定する根拠にもならない。

結局、5点の衣類がタンクに入れられた時期は確定できず、よって犯行着衣であると認定することはできない。もし発見時直前に入れられたのなら袴田さんは無関係で、ねつ造の可能性を否定できないにもかかわらず、明確に時期を特定することなく、確定判決等が犯行着衣であると認定したのは明らかな誤り。それは証拠評価の誤りではなく、犯行着衣と認定するための事実や証拠を欠いていた。『5点の衣類』は犯行着衣ではない!!      

 

 

一審の高裁、最高裁の重大な誤り

「衣類が味噌タンクに1年余りも漬かっていたような状態が、一朝一夕にできるとも思わない」    (東京高裁決定)1976.5.18

「5点の衣類及び麻袋は、長期間味噌の中に漬け込まれていたものであることは明らか」     (最高裁決定)1980.11.19

 

弁護団による味噌漬け再現実験の結果、20分で5点の衣類の色は再現された!

 

高裁決定の認定の誤り

「味噌漬けの当時のカラー写真は再現性が悪く、これを基に色について論じることはできない」

 

東京高裁、最高裁も当時のカラー写真を基に衣類の状態を確認したもので(上記)、これを否定することは、東京高裁や最高裁の判断にも反している                        

 弁護団による味噌漬け実験の、わずかな時間で味噌色に染めることができるという事実に対して、カラー写真が劣化退色しているとか、当時の赤味噌の色が薄かったなどいうのは単なるケチ付けに過ぎない。

 

確定判決の証拠構造は空洞!

確定判決の「5点の衣類は犯行着衣であり、袴田さんの物である」という認定は、そのために必要な事実や証拠が存在せず、5点の衣類が味噌タンクに入れられた時期もあいまいで、合理的な疑問が山積。刑事訴訟法で言う適正手続きに反しています。ねつ造の可能性を否定できないにもかかわらず、犯行着衣であると認めたことは誤りであった。確定判決等の証拠構造は、ぜい弱であるという以上に有罪認定を支えるべき証拠の柱がない空洞構造であった

                                                       

最後に、裁判所の立場で考えたとしても、公正な裁判が行われたとは言えないことを明らかにしておかねばなりません。たとえ本田教授によるDNA鑑定の手法が否定されたからといって、衣類に付着した血痕が袴田さんの物でも被害者らの物でもあるとされたわけではないのです。同様に、味噌漬け実験報告書が排斥されたからといって、衣類が長期間味噌漬けになっていたと証明されたわけではありません。それらのことから帰結される結論は、グレーだということ。5点の衣類が袴田さんのものかどうかは、分からないということでしかないのです。とすると、結論は再審開始決定が相応しい。再審を開いて、そこで再度の審理を始める決定を出すのが相当でした。

高裁大島決定は偏見と思い込みに頼って、安易に5点の衣類が犯行着衣ではない可能性を否定した。静岡地裁の再審開始決定がねつ造の可能性を指摘した以上、大島裁判長は予断と偏見を排し、ねつ造ではない証拠を明示しなければならなかった。          

清水一人                                                                                                     

                                                                     

 

 

それでもスネの傷はなかった!

大島決定著しく正義に反する重大な事実誤認!最高裁は直ちに再審開始を!

 

2018年6月11日東京高裁大島裁判長は、静岡地裁村山裁判長の再審開始決定を取り消し、40年前の死刑判決を維持するとんでもない決定を出しました。この決定は本田教授によるDNA鑑定の『手法が信用できない』として、40年間積み上げてきた弁護団による無罪の証拠をことごとく排除し、検察の主張を一方的に認める著しく偏ったものです。

 

静岡地裁の決定では『捏造の可能性』まで指摘された「5点の衣類」の数々の疑問に対し、検察すら言っていない『捏造するのであれば袴田が普段はいていた寸法に合わせるはずだ』とか『ズボンの損傷が不自然なのが自然』で『捜査機関が捏造するのなら、わざわざ不自然なやり方をするとは考え難い』と何の根拠もなく検察の主張を補強しています。そしてこのような偏見と思いこみによって『捜査機関にはパジャマでの犯行という、供述と矛盾する捏造をする動機がない』と静岡地裁の決定と180°異なる結果になるのは当然だと言えます。まさに弁護団が指摘するように『初めに結論ありき』で検察の意見を丸写しの決定で、無実の人を死刑にするかもしれない(検察の主張に合理的な疑いがないか)という恐れと真摯な態度が全くうかがわれません。高齢の袴田さんと家族にとって一日千秋の日々をもて遊び、裁判官の責任を放棄した、こんないい加減な決定で袴田さんは再拘束され、死刑が執行される道がまた開かれてしまったのです。

 

全文で123ページのこの決定文は57ページまでがDNAに関する記述で、当然DNA鑑定などしたこともない裁判官にとって借り物の議論でしかないわけですが、他の個所も根拠のない憶測と机上の空論によって他人(検察)の言葉を自分の意見のように述べているだけのものです。1つ1つこれらに反論し事実を積み上げていく中で、刑訴法411条第3項『重大な事実誤認』があって高裁決定を破棄しない限り、『著しく正義に反する』ことを明らかにしていくことが必要です。ここでは私たち「浜松 袴田巌さんを救う市民の会」が注目してきた『すねの傷』の部分だけ紹介したいと思います。

 

 

/11東京高裁決定より

◆「すねの傷」に関する部分の記述(全文)

《P72下から2行目よりP74上から4行目まで》

なお、弁護人は、○○(専務)との格闘の際に向う脛を蹴られたとの自白に相応するように事件後の昭和41年9月8日には袴田の右下腿前面に比較的新しい打撲擦過傷が認められ鉄紺色ズボンの右足前面のかぎ裂き様の損傷があった旨認定している所、同年7月4日に〇〇(山田医院)で受診した際の記録や同年8月18日に実施された身体検査の調書にも記載がなく、そのような傷は、逮捕時の袴田には右足すねの傷は存在せず、その後に生じたものであることが明らかになったとし、袴田の自白は事実に反するもので、このことは鉄紺色ズボンの損傷は、その自白に合わせて捏造されたものであることをうかがわせるという。しかしながら傷の成因は別としても、袴田の右下腿部には本件発生日から打撲擦過傷痕があったこと自体は、確定審において袴田自身が一貫して認める供述をしているのであって、同年7月4日に医師の診療を受けた際や同年8月18日の逮捕直後の身体検査においては、袴田の申告や供述から容易にわかる顔部や腕部等にある傷であれば医師や係官が見逃すはずはないとはいえるものの、袴田を全裸にでもしない限りはズボンに隠れている場所の傷まで発見することは困難であって、診療の目的や逮捕直後の身体検査の所要時間等から見て、そこまで徹底した検査が行われたとは考え難く、所論のような根拠で、逮捕時の袴田の右すねに傷がなかったとは言えない。また、鉄紺色ズボンの損傷が蹴られた際に出来たものであるかのような控訴審判決の認定については、通常〇〇(専務)が裸足であればもちろん、仮に靴を履いていたとしても、〇〇(専務)に蹴られることによってカギ裂き様の損傷がズボンに生じるという可能性は低いことや、傷の形状とズボンの損傷の形状が必ずしも整合しているともいえないことから疑問がある。そうであるとしても、控訴審判決は、自白と鉄紺色ズボンの傷が適合する旨を補足的に述べたにとどまっている上、鉄紺色ズボンの損傷の成因は、家屋への進入の際や犯行の際の何らかのものとの衝突・擦過を始め種々のものが考えられるのであって、鉄紺色ズボンと本件の結びつきが否定されるものではない。また、仮に、捜査機関が鉄紺色ズボンを犯行着衣として捏造するのであれば、通常何かに引っ掛けた際に出来るカギ裂き様の損傷や成因が自白でも説明されていない損傷を数か所もズボンに作るなどということは考え難い。結局、弁護人の主張は採用できない。(   線、太字は筆者)

 

それでも『すねの傷』はなかった!!

◇無知と偏見、あまりにもひどい大島決定の内容

私たち浜松袴田巌さんを救う市民の会は東京高裁の控訴審の段階で事件直後や逮捕時の記録の全てに『すねの傷』がないことを発見し、「冤罪の証拠その5すねの傷の真実」をホームページに載せ(*1)DVDを作成し、『すねの傷』が逮捕後に出来たものであることを明らかにしてきました。6/11大島決定では123ページにのぼる全文で3分の1をDNAの不毛な科学論争に終始し、たった1ページと数行(上記)をこの問題に割き反論している。ぜひもう一度私たちの文章と見比べていただきたい。

 

8月18日の逮捕当日、3回の身体検査ですねの傷を発見できなかった言い訳は検察の意見書と全く同じです。しかしながら、この決定文がひどいのは検察の稚拙な弁解を擁護するだけでなく、検察すら言っていない「全裸にでもしない限り…発見は困難である」と言い切っている事です。裁判所が出す身体検査令状の意味を裁判所自ら否定するものです。写真や指紋を取るだけなら令状は必要なく、わざわざ裁判所が許可して令状を出すのは、事件と関係する傷などを徹底的に調べるために、身体検査を行う必要があるからです。刑訴法218条第2項は身体検査令状は被疑者を裸にすることを前提に書かれています。小学校の身体検査でさえ、パンツ1枚で行われるのが常識なのに、一家4人殺し、強盗放火事件である本件でズボンをはいたまま身体検査なるものを行ったなどとは到底考えられません。事実、事件発生と同じ昭和41年、選挙違反や駐車違反などで逮捕された女性が全裸にされ、陰部まで調べられ、それが人権問題になっているという資料(*2)を私たちは確認しています。裁判官自身の無知とありえない空想による結論が「すねの傷はなかったとは言えない」であって、裁判官が自信を持って「すねの傷はあったとは言えない」ことは明らかです。大島裁判長、それでも袴田さんを死刑にしますか?

 

◇裁判所は検察の味方か?裁判官に良心はあるか?

さらに決定文は控訴審判決での「専務に蹴られたすねの傷」のくだりを矮小化して、補足的に述べているだけだと言っていますが、東京高裁の控訴審判決文はこう述べています。

 

「パジャマを着て犯行におよんだとする点等に明らかな虚偽があるが、この点については味噌タンク内の衣類が未発見であるのを幸いに被告人が捜査官の推測に便乗した形跡があり、これを根拠に調書全体の信用性を否定するのは相当ではない。専務との格闘の際に腿や向こう脛を蹴られたとの自供内容に相応するように事件後の9月8日には、被告人の右下腿中央から下部前面に4か所の比較的新しい打撲擦過傷が認められたうえ、事件後1年2か月経った頃発見された鉄紺色ズボンには右足前面に2,5cmx4cmの裏地に達するカギ裂きの損傷があった。」(1976年5月)

 

今回の高裁決定文の特徴は「…に疑問がある」と一見弁護団の主張を取り上げるふりをしながら「そうであるとしても」という形で40年という歳月を経るなかで新たな矛盾を積み上げてきた再審の流れをすべて否定して、40年前に時計を撒き戻すという全く許すことができないひどい内容です。無実の人を死刑にするかもしれないという真摯な態度のかけらもない軽薄な文章に怒りがこみ上げてきます。

 

中学生程度の国語力の持ち主なら、確定判決の「自供内容に相応するように」は「打撲擦過傷が認められたうえ」と「かぎ裂きの損傷があった」の両方に対等に掛かる文(並列)だということが理解できます。これのどこが「補足的に述べたにとどまっている」と言えるのでしょうか?公判で袴田さんと事件を結びつける証拠が何もなく、犯行着衣の訴因の異例の変更によって、供述調書の信用性、任意性が大きく揺らぐ中、唯一袴田さんの供述の信用性を裏付けるのがすねの傷であったのです。

 

そして5点の衣類のズボンに残る傷はこの時できたものであるとすることが重要でした。決定文が言うように何かの途中で衝突,擦過したものであれば犯行着衣としては認定し難く、殺人と放火の現場の混乱する状況下で偶然すねの傷と同じ場所に、それを類推させるようなズボンの損傷が、全く関係ない移動中の事故によってできること自体あり得ないからです。確定判決文ではズボンの損傷がすねの傷に相応しているかのごとき表現をすることで、すねの傷との関連を印象付け、その結果鉄紺色ズボンが犯行着衣として認定され、袴田さんの自白が真実であるとされたのでした。この文脈から少なくとも5点の衣類が発見されて以降、50年近くズボンの損傷は専務との格闘の際に出来たものであるとの認識を弁護団も疑うことは有りませんでした。

 

それなのに今回、検察が言ってもいない他の場所で出来た可能性を、裁判官が検察の主張を正当化するために持ち出すことに驚きを禁じえません。それは検察の矛盾に助け舟を出すに等しい事です。検察と裁判所がグルになったらもうこれは裁判ではありません。この大島決定の性格は本田鑑定を否定することで他の矛盾に目をつむり、検察の主張を代弁するひどいものですが、すねの傷についても全く同様でお話になりません。

 

◇憲法第38条;違法な取調べでの自白は証拠にならない!

裁判所も検察官同様、ことあるごとに「確定審において袴田自身が一貫して認める供述をしている」「自白でも説明されていない損傷」などと、自らの主張の正当性のために、自白をゆるぎない前提のように持ち出します。しかしながら、裁判官自身がこの決定文の中で逮捕後の異常な取調べを認め「自白の任意性、信用性に疑問」としている自白は、平均で1日12時間以上にも及び、トイレにも行かせないなど違法な取調べの結果引き出されたものでした。しかも45通のうち44通は自白に任意性がないといって取り上げられなかった支離滅裂なものでした。

袴田さんを何としても殺人犯に仕立て上げようとする検察はともかく、検察の主張に合理的な疑いがないかを判断するべき裁判官が、信頼性のない自白をタテに論理展開をすることは自己矛盾で、絶対にしてはいけないことです。

 

本当に袴田さんは公判の過程ですねの傷を一貫して認めていたのでしょうか?

事件当夜6月30日に負傷して、警察官が初めてすねの傷の存在を知ったという9月6日は傷が出来てから68日後になります。一般に肉が露出するほどひどい擦過傷を負ったとしても、2か月以上経過すればかさぶたも取れ、ほとんど傷が判別できないくらいに回復します。事実、袴田巌さんは2017年7月13日に自宅近くの公園の10数段の階段から転倒して転げ落ち、顔面強打で腫れ上がり、下腿の擦過傷は肉が露出するほどひどく、救急車で浜松医療センターに入院することになりましたが、2週間ほどでほぼ完治しました。この時袴田さんは81歳、30歳の袴田さんならばもっと回復は速かったと推測されます。

事件後68日経っても存在していた傷は、逮捕時まで全く発見されなかったミステリーは不問にするとして、自白をした時点ではほぼ完治していたと思われます。傷を負った直後の痛みはそれなりに記憶にとどめることはできても、完治していく傷の存在を人はどこまで記憶にとどめることが出来るのでしょうか?

9月6日に8,5cmあった傷が2日後には3,5cmに縮み、しかもすねの傷とズボンの損傷との関連が問題になるのは、1年2か月後、5点の衣類が発見されて以降です。袴田さんは自身の認識として、右手中指の傷と右肩の傷は消火作業の途中で負傷したと自覚し公判でも述べています。すねの傷に関しては上記のような理由で、記憶に不確かなまま、一連の行動の中で負傷したものと判断したとしてもおかしくはありません。公判の場で記憶にないものを答えようとして述べたことが「一貫して認めていた」とされたのです。

 

さらに検察は供述調書を取り上げて「臨場感を持ってこれがその時の傷ですと袴田が証言した」といっていますが、排除された警察官による員面調書に証拠の価値は全くありません。自白にしても、開示された録音テープには調書を棒読みさせられる袴田さんの声は残っていますが、自白に転ずる瞬間の録音だけはありません。結局、すねの傷に関しては自白以外に物証はなく、違法な取調べの結果、自白を強制されたもので、警察官の作文(9・6調書1961丁)を見せられても到底信用できません。

 

◇2回の診察での重大な事実誤認=検察の意見書丸写しの誤り

大島決定には重大な事実誤認があります。すねの傷について、まともに検証することなく検察の意見書をそのまま書き写しただけの決定文は、『袴田の申告や供述から…』と7月4日及び8月18日に袴田さんが申告や供述をしたかのように言っていますが、事件とは無関係の袴田さんが逮捕前の診察で申告や供述をする理由がなく、そもそも7月4日の山田医院の診察は、前日に浜北の実家近くの福井医院で中指の治療をした袴田さんにとって不要なものでした。

折しも7月4日は「容疑者に従業員H浮かぶ」と毎日新聞がスクープをした日です。清水に戻った袴田さんは同僚に強く勧められ、山田医院の診察を受けるのですが、そこに被害者の解剖をした警察医鈴木俊次がいて、鈴木医師自ら創傷検査を行い「傷はすべて見た」と公判で証言し、カルテにも記載されましたがその中に「すねの傷」はありません。福井医院の診察では「金物のような鈍い物」という見立てが、山田医院の診察では「鋭利な刃物の可能性」になり、事件との関連を示唆する重要な証拠になるのです。

この事実から鈴木医師は明らかに証拠になることを認識したうえで診察に臨んだといえます。それでも「すねの傷」は発見できなかった。そういう状況の下で申告云々は関係なく、一方的な診察であったわけで、そもそも検察が申告といったのは福井医院でのことを述べているのを、検察の文章を切り取った裁判官が申告という言葉を使って重大な事実誤認をしたのです。

 

福井医院での診察は、いつものように週末に実家に帰った袴田さんが、消火作業の際負傷した中指の傷が化膿しかかっていたので受けたのですが、このことを検察は「袴田は中指の傷については申告したが、すねの傷は犯行と関係があることを恐れて申告しなかった」と袴田さんは嘘をつくずるい奴だと決めつけて、この申告という言葉を使っているのです。

しかしながら、前述のように68日経ってもなお、変化しつつある傷は、事件から4日後の7月3日の時点では相当重傷であったはずで、指の傷の受診の際に同時に受けることが自然です。検察の言うように事件との関連でいえば、中指の傷こそ隠していたはずです。専務との取っ組み合いの最中に負ったという傷は、本当にくり小刀でできた傷ならば、犯人は一番隠したい傷のはずです。それに比べてすねの傷は、どっかで転んだとかどんな風にも説明はできます。それを検察の推理のように、中指だけ申告して、すねの傷は申告がなかったから診察しなかったというのはありえない話です。すねの傷を隠す必要があるならば、指の傷も自分で治療するなどして隠すのは容易だったはずだからです。

 

◇記録にないから「なかった」んでしょう!

これは愛媛県の獣医学部新設疑惑の記者会見に臨んだ加計学園加計孝太郎理事長の言葉です。この1年、メデイアを通してどれだけこの言葉を聞いたでしょうか?

 

「記憶にも記録にもない」というこの言葉は、真実を隠したい側が記憶はあやふやだが記録は確かだという意味を込めて使われています。そして真実を隠したい側には記録を捏造したり、消すことができることを私たちは目の当たりにしてきました。しかし、袴田さんを逮捕した当日、警察官には記録を消す理由は全くありません。50年近く「あった」とされてきた記録が「なかった」ことの意味は相当大きいものです。

一審の裁判はその時点では完治していたすねの傷の検証は行わず、暗黙の了解のもとで「あった」として審理されてきたからです。もし、逮捕当日に警察の全ての記録にすねの傷がないことを一審の裁判官が知っていたら、石見裁判長と高井裁判官は無罪を主張した熊本典道裁判官の説得をはねのけ、それでも死刑を押通したでしょうか?東京高裁の横川裁判長も「自供内容に相応するように」(確定判決)すねの傷があったと自信を持って言えたでしょうか?もし、たった1通の供述調書が採用されなければ、事件当日「あった」ことも証明できない信頼性のないこんな証拠で、無実であるかもしれない容疑者を死刑にすることなど、絶対にできなかったはずです。

 

◇最高裁は高裁決定の事実誤認を認め、直ちに再審開始を!

6月11日東京高裁大島裁判長は静岡地裁の再審開始決定を取り消し、再び袴田さんを死刑台に送ろうとする決定を下しました。この決定がいかにひどいものか、ここでは浜松袴田さんを救う市民の会が強く訴えてきた「すねの傷」に絞って検証しましたが、本田鑑定を否定することによって、検察の主張をそのまま代弁する独断と偏見の姿勢はすべての項目に一貫しています。たとえば5点の衣類の捏造の疑いに関しては、「自白(パジャマでの犯行)と矛盾する捏造を警察が行うとは考えにくい」と一方的に警察の側に立ち、ずさんな証拠の数々には「捜査機関が捏造するのであれば、もっとうまくやる」などと驚くべき屁理屈で警察の不祥事の尻ぬぐいさえしています。大島決定の背後にある『捜査機関が証拠の捏造などするはずがない』という思い込みは半世紀前ならいざ知らず、今では国民の誰もが信じてはいません。

 

そもそも確定判決にある『捜査官の推測に便乗し』という表現こそ袴田さんの無罪の証明です。犯行現場を知らない袴田さんは捜査官の言うとおりに従うしかなかったからです。同じ事実を見て黒とするか白とするか、これは大島決定にも言えることですが裁判官の見方によって大きく変わります。事実を真摯に見つめることではなく、先入観や偏見で物事を判断したら、決まった結論しか導き出されません。これでは裁判は必要なくなります。

「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則を無視し、数々の疑問にまともに答えようとしない高裁決定には重大な事実誤認があり、検察が「すねの傷」の確たる証拠を出せないこと、それだけで再審開始の要件を満たすものだと思います。

 

30歳で逮捕された袴田さんは82歳、弟の無実を信じ支え続けてきたお姉さんの秀子さんは85歳になります。残された時間は限られています。世界中の人々が袴田事件に注目し、歴史に残る裁判の行方は後世の批判にさらされることになります。

無実の人は無罪に!この当たり前の判決が司法自らの手で正されることを願ってやみません。

 

清水一人

 

 

*2警察庁刑事局発行(昭和41年11月)留置場管理関係資料による

それによると、35歳、41歳、29歳の女性が密造酒所持、選挙違反、駐車違反で逮捕された際、ズロースまで脱がされる様子が詳しく記述されている。

「検察官は、引き返す勇気を」 KG 袴田さん支援クラブからのアピール

袴田事件再審請求即時抗告審の最終局面にあたっての声明

検察官は、引き返す勇気を

2018年5月19日
KG 袴田巖さん支援クラブ

袴田事件の第二次再審請求審の即時抗告審は、もうすぐ決定が出されます。

 

いわゆる郵便不正事件等において発覚した検察不祥事を受けて、検察の在り方検討会議が「検察の再生に向けて」という提言を出しました。その提言は、検察官が「公益の代表者」として、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を役割とすることを謳い、有罪判決の獲得のみを目的とすることなく、公平な裁判の実現に努めるべきことを主張しています。また、通常公判では有罪の獲得に拘泥することなく「引き返す勇気」の必要性を強調しています。この論理と倫理は、再審請求審においても当然のことです。

 

この提言の趣旨に沿ったものなのでしょうか、検察官は即時抗告審において600点ほどの新証拠を公開しました。遅すぎたという重大な難点はあるものの、その潔い姿勢は注目に値するものです。何故ならば、それらの証拠は袴田さんの無罪を証明するものばかりだからです。

検察官は、公開の前に証拠の全てを点検していることと思います。そこで、こんな証拠を出せば有罪がひっくり返されてしまうと直感したはずです。にもかかわらず、自らに不利になる証拠を敢えて公開したのです。これまでの強引な訴訟姿勢からすると、隠し続けることに躊躇はなかったと思われるのですが、にもかかわらず敗訴を予期しながら公開に踏み切ったと思わざるをえません。このことは、公判担当検事から検事総長に至るまでの共通認識と合意がなければできないことです。東京高裁第8刑事部の裁判官も、その点は見抜いていることと思います。はっきり言うと、新たに証拠を公開した時点で、検察は敗訴を覚悟していたのではないでしょうか。

 

2014年3月27日の静岡地裁による再審開始決定は、大きな波紋を呼び起こしました。袴田事件担当の最高検元検事、竹村輝雄氏がショックを語っています。(2014年4月3日放送のNHK番組『クローズアップ現代』、番組タイトル「うもれた証拠 ~“袴田事件”当事者たちの告白~」)

「それは重いですね。本当に眠れなかった、わたし、この決定を読んでね。検察官としてこれは十分に教訓として反省すべきところです。」

「よく証拠を見ることでしょうね。一方の立場からではなく、公平な立場からみることですよ、証拠を。」

地裁の決定にショックを受けたとしても、自らの非を認めることには、たいへんな勇気が必要だったと思います。謙虚な気持ちと正義感がなければできなかったでしょう。進んで非を認め反省を隠さないこの先輩検察官を、後輩の皆さんは心の底で見習っていることと思います。

 

他にも、振り返ってみるべき事例があります。例えば、足利事件と東電OL事件で裁判の最後を飾った当時の東京高検の態度です

1990年に起きた足利事件の確定判決は無期懲役でした。2009年4月、犯人とされ服役していたS氏のDNA型と被害者の着衣に付着していた体液のそれとが一致しないという結論が出されました。2009年6月、鑑定結果を受けて、東京高等検察庁が「新鑑定結果は再審開始の要件である『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』たり得る」とする意見書を提出(事実上の再審開始決定)。併せて「有罪判決を導いた証拠が誤りであった以上、刑の執行を継続すべきではない」として服役中のS氏を釈放したのです。それから2010年2月12日、再審第6回公判で、検察官は「取り調べられた証拠により、無罪を言い渡すべきことは明らか」とし、論告で無罪を求めました。論告に際して、「17年余りの長期間にわたり服役を余儀なくさせて、取り返しのつかない事態を招いたことに検察官として誠に申し訳なく思っています」と謝罪したのです。

 

また、1997年に発生した東電OL事件は、一審無罪でしたが、二審東京高裁で逆転して有罪(無期懲役)。2003年最高裁で有罪が確定、収監されました。2005年に再審請求。2011年に新たなDNA型鑑定で型の不一致が証明され、2012年東京高裁は再審開始と刑の執行停止を決定しました。東京高検は最高裁への特別抗告を断念。2012年10月24日の再審公判初日、検察は「被告以外が犯人である可能性を否定できない」として無罪を主張、結審となったのでした。

 

袴田事件を担当する検察官はこのような検察の歴史の輝かしい部分を十分に理解されていることと思います。弁護人だけが被告の人権を守ることに尽力するわけではありません。元来、裁判官も検察官も、人間の尊厳と自由の砦であることに差はないのです。

また、法の執行者として考慮して頂きたいことがあります。法の執行とは、法の条文と現実とを対比して事実が条文に違反しているかどうかを判断し、その処罰を請求するという表面的、結果的な行為では済まされません。その法(制度)には、立法の目的と理想がたぎっているのです。法の執行とは、その原点に立脚してその意思を実現するために、法律の条文を活用すること以外の何物でもないと思います。再審制度の目的は、無辜の救済(無実は無罪に)です。誤判(誤った判決)の被害者を救助することです。その方法は、証拠が無罪を指し示すならば当然無罪、検察の立証に疑問の余地があるだけでも無罪としなければならないということなのです。

 

検察はこの時点で、引き返していただきたい。再審公判に速やかに移行し、無罪を公に認めていただきたい。袴田事件の裁判が、検察官の華麗なる勇気、潔く真実に忠実な態度への拍手をもって終了となることを願ってやみません。

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