清水っ娘、袴田家初訪問―巖さんと23歳同士お友達になりたい!

 なかがわまお

第3回公判の2日前の11月18日土曜日、第72回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)に参加させていただく前に、袴田家に初めてお邪魔させていただけることになった。

巖さんとはこれが初対面。ひで子さんとは何度かお会いはしているが、しっかりとお話しさせていただいたことはなかった。

 

浜松駅に降り立ったのはおそらく初めて。

同じ県内とはいえ、静岡は横に長いので浜松はかなり遠い。在来線で2時間近くかかる距離だ。県外へ旅に出るような気持ちでのんびり電車に揺られる。

 

道中、ひで子さんの半生を描いた漫画『デコちゃんが行く』を読んでいたのだが、これは完全に失敗した。

せっかく気合を入れたメイクが台無しにならないように、今にも溢れ出そうな涙を堪えるのにとにかく必死。家で読んでいたら普通に号泣していただろう。

 

そんなこんなで浜松に到着。

外に出た瞬間、寒い!とにかく風が強い!

これが噂には聞いていた「遠州のからっ風」というものか。

この風の中で生きてきたのも、ひで子さんの強さの秘訣の一つなのかもしれない。

手土産のお花が吹き飛ばされないように両腕で抱きしめながら、いざ袴田家へ。

 

袴田家は、浜松駅から歩いて十分ほどの、白い3階建てマンションの3階部分である。

このマンションは、ひで子さんが巖さんと暮らすために30年ほど前に建てられたもので、見事夢が叶い、巖さんと共に穏やかに生活されている。

 

3階まで階段を上ると、かわいらしいピンク色の大きなドア。

そこがひで子さんと巖さんの暮らす家である。

 

出迎えてくださったのは、袴田さん支援クラブ代表の猪野待子さん。献身的にひで子さんと巖さんの支援をし続けている、ものすごくパワフルな美人だ。

 

中に入らせていただくと、広々としていて見晴らしの良い、綺麗で素敵なお部屋である。

 

そこに、巖さんがいた。

何度も画像や映像で見たことのある巖さんが、穏やかな表情で目の前に座っていた。

 

緊張しながら挨拶をして、握手をしていただいた。

柔らかく温かい手だった。

 

巖さんは年齢を聞かれると、23歳だと答えるという。巖さんと同い年の23歳だということ、清水から来たことなどを伝え、巖さんとお友達になりたいと伝えてみた。

 

私の声は聞こえているのかいないのか、たまに何となく返事のようなものがある程度で、なかなか会話にはならない。

まだお友達にはなれなかったようだ。巖さんに認めてもらえるまで浜松に通い続けるつもりだ。

 

しかし、メジロの絵を添えた手紙を手渡すと、受け取って無言でじっと見つめていた。そして、外出するときに上着のポケットにしまってくださった。

 

巖さんは、小さい頃近所で火事が起こった際に、飼っていたメジロの鳥籠だけを抱えて逃げて震えていた、というエピソードを聞き、それで下手ながらもメジロの絵を描いてみたのだ。

何か昔のことを思い出していたのだろうか。表情からは何も読み取ることはできなかった。

しかし、受け取ってくださったことが非常に嬉しくて、危うく泣いてしまうところだった。

 

48年にも及ぶ死刑囚としての獄中生活が、巖さんの人生と精神を蝕んでしまったことに対して、もちろん胸が痛む感覚もあった。

しかしそれ以上に、巖さんがちゃんと生きて目の前にいて、肌のぬくもりを直に感じることができた、その感動のほうが大きかった。

 

どうしてひで子さんはあんなに強くいられるのだろう、とずっと不思議だった。しかし、その理由が何となくわかったような気がする。

巖さんが目の前にいるだけで、なんだか自然と笑顔になってしまうのだ。

そのような、人としての魅力が巖さんにはある。

 

巖さんが出かけてしまってから、ひで子さんとお話しさせていただいた。

時間がなくてあまり多くはお話しできなかったのだが、私のような若輩者にも、非常に低姿勢に優しく接してくださった。

『デコちゃんが行く』に快くサインもいただけました!すごく達筆……!

 

いつ見ても若々しいひで子さんが、戦争も経験し、巖さんの無罪を求めて長年闘い、90年間も生きているという事実を、私はまだあまり呑み込めていない。

実際にお話ししていても、こんなに元気な90歳が現実に存在するのだろうか…?と疑ってしまうほどだ。

 

「本当に色々と大変だったでしょう……」と私が言うと、ひで子さんは、

「57年もあれば、みんな多かれ少なかれ大変なことはあるよ。私はたまたま巖が巻き込まれちゃっただけで」

と平然と明るく言ってのける。

 

いやいやいやいや!と思わず突っ込んでしまう。

ひで子さん、歴史的に残る大きな死刑冤罪事件ですよ?そんじょそこらの苦労と一緒にできるものじゃないですよ?

 

しかし、ひで子さんは「悲劇にしたくない」とおっしゃった。

私はその言葉を咄嗟には理解できなかった。

巖さんやひで子さんの身に降りかかった苦しみを、悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。

 

しかし、実際に袴田家に伺って巖さんにお会いしたからこそ、あとになってその言葉の意味するところが何となくわかるような気がした。

 

警察・検察や裁判所、再審制度などに対して、一番怒りを感じているのはひで子さんのはずである。

しかし、巖さんが生きて帰ってきて、一緒に暮らすことができるということに、一番幸せを感じているのもひで子さんなのである。

 

だからこそ、過去を振り返るのではなく、常に前を向いて歩くことができるのだろう。

ひで子さんの言葉には、あとになってずんと重みがのしかかってくる。

 

また浜松で、「袴田さん支援クラブ」や「見守り隊」の方々とも多くお会いした。

皆あたたかい方ばかりで、その努力とやさしさのおかげで、ひで子さんも巖さんも穏やかに暮らせているのだろうと思った。

 

一度殺人犯のレッテルを貼られてしまうと、たとえ再審無罪を勝ち取っても、故郷に戻るのはなかなか難しいと聞く。

その点で、未だ死刑囚であるにもかかわらず、巖さんが浜松で暮らすことのできる環境を作っているひで子さん、また支援者の方々の努力は偉大だと思う。

 

清水、特に事件のあった横砂周辺では、未だに風当たりの強さを感じることがある。

巖さんにとっては思い出したくない場所かもしれないが、清水でも巖さんをあたたかく歓迎する基盤があったらいいな、と少し考えた。

 

とにかく、この日はひで子さん、巖さんをはじめ、浜松の支援者の方々などに大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。