free-iwao | 袴田さん支援クラブ | Page 4

袴田さん支援クラブ

袴田巖さんに再審無罪を!

Author: free-iwao (page 4 of 22)

刑事弁護の泰斗、西嶋勝彦弁護団長がお亡くなりなりました

刑事弁護の泰斗、西嶋勝彦弁護団長がお亡くなりなりました

今月7日、我らが西嶋弁護団長が逝去されました。享年82才でした。

突然の訃報に驚きを禁じえません。

袴田さんの再審無罪に辿り着こうとしている矢先のこと、残念で残念でなりません。

私はずっと、先生の古武士を思わせる立ち居振る舞いを見上げてまいりました。

先生の凛とした面影を胸に、志半ばの袴田さんの雪冤、再審無罪に向けて微力をくすことが先生の遺志を受け継ぐことだと心に刻みます。

 

先生は、1990年から袴田事件弁護団に加わり、2004年には弁護団長に就任。大所帯の弁護団を率いてこられました。2014年3月には再審開始決定を勝ち取り、死刑の執行停止と拘置所からの解放という成果を出しました。その後東京高裁では再審開始決定が棄却されましたが、最高裁では5人の判事のうち2名は再審開始決定を支持。が、3人の判事が高裁への差し戻しを主張したので舞台は高裁へ。高裁での決定は再び再審開始となり、検察が抗告を断念したことで、現在静岡地裁で再審公判が始まっています。西嶋先生のリーダーシップによって、再審無罪の扉がこじ開けられる最後の段階まで船は進んできたのです。

 

先生は1941年九州福岡市にて生を受け、中央大学法学部を卒業されて1965年に弁護士登録。労働事件での弁護活動を目指して活動を開始されました。事務所の先輩上田誠吉弁護士に誘われて八海事件にも携わり、それをきっかけに刑事弁護の世界に舟を漕ぎ出されのです。大事件を次々に手掛けてこられました。仁保事件、そして江津事件からは再審事件にも関わるようになりました。徳島ラジオ商事件、丸正事件、島田事件と続けられ、そして袴田事件弁護団に加わられたのです。

同時に、日弁連の役員として死刑廃止や刑務所拘置所での待遇改善、そして再審法改正のための活動にも参画なさってきました。

その辺りの経験は、このホームページの『袴田事件弁護団列伝 冤罪事件弁護の泰斗、西嶋勝彦』を参照してください。

 

同僚や部下として共に仕事をしてきた方々から先生の仕事ぶりと魅力を伺ってきました。みなさん、口を揃えて仰るのは「仕事の割り振りや指示がテキパキしていて怖いほどでした。でも一緒に仕事をするのがとても楽しかった」という趣旨のことばかりです。先生の一貫した弁護活動へのたぎる情熱の然らしめるところで、それが人間西嶋勝彦の真骨頂とお見受けいたしました。

「おくれた戦中派人間」と自己紹介なさいます。酒をこよなく愛され、俳句に親しまれた風流人でもありました。新年に頂いた年賀状に記されていた句を一首

小春日に駿河路通い車椅子

西嶋先生、弁護団と私たち支援者の雪冤闘争を最後まで見守り続けてください。

(文責:猪野)

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.4

袴田事件再審第3回公判傍聴記―こうやって冤罪は作られる

なかがわまお

2023年11月20日(月)、静岡地裁にて、袴田事件再審第3回公判が開かれた。

 

前回はあいにくの雨だったが、この日は見事に快晴。

支援者たちも意気揚々である。

 

◎9:45 当選番号発表

 

見事当選!

今回は27席に対して108人が並んだということで、倍率はぴったり4倍。なかなかの強運である。

 

今回は検察側からの「5点の衣類」についての立証ということで、どんな論理を展開してくるのか、鼻で笑ってやろうと楽しみにしていたのだが……、ほとんどうまくついていけなかった。

 

いや、理解ができなかったわけではない。一応事件の知識はそれなりにはあるので、一つ一つが明らかにおかしいことはわかる。

しかし、検察官に堂々とした態度で捲し立てられると、何だか全体としての一貫性や説得力を感じて、“検察がそんなことをするはずがない”という言い分をすっと納得してしまいそうになるのである。

 

だんだん検察側のペースに乗せられ、反論する気力すら奪われ、何だかパラレルワールドに迷い込んでしまったかのように、どんどん気が狂っていく。

 

しかも、法廷内はずっと蒸し風呂のような暑さ。閉廷まで耐えただけでも自分を褒めたい。

 

今メモを読めばいろいろと指摘できるのだが、法廷内では何が何だかわからなかった。これはあの場にいた人にしかわからない感覚だと思う。

これが検察の底力なのだろうか。

 

これを毎日取調室で続けられたら自白してしまうなと思った。

重要なのは内容ではなく、検察官という威厳だけで充分なのかもしれない。

こうやって冤罪が作られていくのかもしれないな…とぼんやりとした頭でずっと考えていた。

 

それではここから傍聴記です。

 

【袴田事件再審第3回公判傍聴記】

 

◎11:00 開廷

 

検察官は前回同様、神経質そうなメガネの男性、目がぎょろっとしたメガネの男性、若い華奢な女性の3人。

弁護団はおそらく13人とひで子さん。

 

◎検察側冒頭陳述

神経質そうなほうのメガネの男性検事が、淡々と文面を読み上げていく。

 

今回の主張は「みそ工場の1号タンクから(事件から1年2カ月後に)見つかった5点の衣類は、被告人が犯行時に着用し、犯行後にみそタンクに隠したものである」ということ。

 

1年2カ月間もの間発見されなかった理由は、タンク内は薄暗く、ビニールシートが被せてあったために「誰も気付き得ない」上に、また工場側からの強い要請によって「みその中までは調べていない」、ということである。

 

そして今回の主張の概要は、

(1)5点の衣類が犯行着衣である

(2)5点の衣類は被告人のものである

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した

(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能

の5点。1点ずつ説明が行われる。

 

(1)5点の衣類が犯行着衣である

 

検察側の主張は、

①血の付き方や破れ方が自然

②血液型が被害者と合っている(一番抵抗されたであろう専務の血液型であるA型が多くついている~など)

 

だけ……!?

ここが一番重要な部分だと思うのだが、驚くほどあっさりと終わった。

 

(2)5点の衣類は被告人のものである

 

①袴田さんの衣類に酷似している

衣類を1点ずつ取り上げて、従業員らが証言する特徴との比較や、製造元や販売店など購入ルートなどを長々と説明していた。

「酷似している」からといって、「袴田さんのものである」証拠には全くならないのに。

 

②袴田さんの実家から共布(ズボンの裾を切り取った布)が見つかった

 

袴田さんの母・袴田ともさんの証言が都合よく使われている印象。

 

警察が共布を見せたとき、ともさんは「巖のものだと思う」と説明している。

その後の取調べでは、ともさんは「こがね味噌から送られてきた荷物の中に布が入っていた」「引き出しにしまっておいた」「共布だと言われれば、そのようにも見える」などと供述した。

しかし確定審では、ともさんが「はっきり覚えていない」と証言したことを、嘘をついているかのように説明した。

 

見覚えのない共布が、いきなり家の中で見つかったと言われた母親の供述は、はたしてどれほど信用性があると言えるのだろうか。

 

そもそも、共布が本当に実家にあったとしても、ズボンが袴田さんのものである証拠がない以上は、この共布も袴田さんと結びつかないのであるが。

 

③緑色パンツは袴田さんの母親が買ったものである

 

見つかった緑色パンツは「ムーンライト」という商品名のものである可能性が高く、母親の袴田ともさんは、緑色のパンツを地元の衣料品店「清水屋」で購入して巖さんに送ったことがあり、「清水屋」は「ムーンライト」を扱っていたため、つまりこれは「ムーンライト」である可能性が高い……とのこと。

 

「ムーンライト」と「可能性」という単語ばかりが耳につく。直接的な証拠はなし。

 

④事件後に誰もこの衣類を見ていない

 

実は緑色パンツは、事件後に実家に送られてきた衣類の中に入っていて、次兄が弁護士を通じて差し入れしようとしたところ断られ、次兄の家で保管されていたのである。

 

それは確定審で証拠として提出されたのだが、「信用性がない」と切り捨てた。

 

5点の衣類の一つとして緑色のパンツが報道に出たとき、次兄と母親、姉のひで子さんらはこれはねつ造だ、と喜んだらしいが、未だに嘘だと言われているのである。

 

また他の5点の衣類は証拠として提出されていないことや、従業員が事件後にこれらの衣類を見ていないという証言も理由として挙げられた。

 

◎12:05~13:10 休廷

 

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

「シャツの右肩に血痕と穴がある」こと、「袴田さんが右肩を怪我していた」ことからも、被告人が犯行時に着ていたと言えるとのこと。

 

〈争点〉として、上に着ていたシャツの穴は一つで下に着ていた半袖シャツの穴は二つである点や、穴の位置が合っていないと弁護側が主張している点を挙げた。

そして〈留意点〉として、様々な場合があるから不自然ではない、むしろ弁護人は物事を単純化している、と切り捨てる。

 

また、元々犯行着衣とされていたパジャマの右肩にも穴と血液反応があるという〈争点〉に対しての〈留意点〉で、被告人が怪我の位置に合わせてわざと穴を開けた可能性もある、だとか。

え、それは暴論すぎないか?

 

あとあの、最初から「争点と留意点」のコーナーあったんですけど、「留意点」って何なんですかね?

 

(4)被告人が5点の衣類をみそタンクの中に隠した

事件後に5点の衣類をみそ工場内で隠す必要性に迫られたとき、袴田さんが自分の作業スペースであったみそタンク内に隠すことは「自然な発想」だと言うのである。

 

え!?いつかは絶対に見つかるみそタンク内に隠すのが自然な発想!?

しかも近くにはボイラー室があったのに……?

 

そしてまた争点と留意点のコーナー。

 

事件当時の1号タンクのみその量について、弁護側は80kgと言うが、実際は160kgか200kg、少なくとも衣類を隠すのが可能なほどはあったという。

このタンクには、8トン以上のみそが入るので、80kgも200kgも誤差みたいなものだと思うのだが。

 

また事件後の7月4日の警察の捜索で発見されていたはずだという点は、隠された時期が7月4日から仕込みが行われた7月20日までである可能性もあることや、捜索の際に工場側からみその中は捜索しないでほしい、上から見るだけでいい、と強く要請されたことを挙げる。

 

(5)5点の衣類がねつ造だという弁護側の主張は非現実的で実行不可能

 

やはりここに一番力が入っていてボリュームたっぷり。

ある程度納得はできる言い分ではあるが、綺麗に言葉だけを並べていて、薄っぺらい……という印象。

 

ほとんどが「もしねつ造なのだとしたら」という仮定のもとに話されている。

 

偏見かもしれないが、「したかどうか」に対して「仮にしたとすれば~」と答える人はだいたい嘘つきなイメージ。あと「わざわざそんなことする理由がない」って言う人もだいたい嘘つき。

※あくまで偏見です。

 

まず、弁護側のDNA鑑定は信用できないこと、衣類の血痕に赤みは残り得ること、弁護側のねつ造だという主張には根拠がないことを挙げて、ねつ造疑惑は真っ向から否定。

 

ねつ造が非現実的で実行不可能である主張は以下の7点(!)。

 

①袴田さんのものに似ている衣類を用意するのは難しい

 

用意するには事前に従業員に詳しく特徴を聞く必要があるし、同じ特徴で使用感のあるものを用意するのは難しい。また、ねつ造するなら元の衣類を処分する必要があるが、それも難しい。

 

②販売ルートに矛盾がない

 

ねつ造だとすれば販売ルートや製造時期などに必ず矛盾が出るのにもかかわらず、警察が詳しく捜査をしている。

 

③警察がみそ工場に隠すのは難しい

 

みそ工場に侵入するのも工場側に協力してもらうのも非現実的だし、隠せるタイミングは2週間にも満たない期間で、その間にこれほどの準備をするのは難しい。

 

④ねつ造だとすれば、共布に関する母親・袴田ともさんの証言は警察にとって都合が良すぎる(?)

 

この理論はよくわからなかったのだが……。

死人に口なし状態でともさんの発言の揚げ足をとって、娘であるひで子さんの前でよく言えるな、と心が痛んだ。

 

⑤わざわざ5点もの衣類を用意する必要がないし、ねつ造ならもっと上手くするはず

 

5点も用意すれば矛盾が多くなる危険性があるし、弁護側が指摘する血痕などの偏りは意図的に作る理由がなく、むしろ犯行着衣であることの証拠になる。

 

これは確かに一理ある。ねつ造にしてはいろいろと下手すぎるからだ。

しかしこれが確定審で採用されて、死刑判決が下されたのが現実なのである。

 

⑥5点の衣類が犯行着衣であることは、自白(犯行着衣はパジャマ)と矛盾しているから、当時の検察の考えに反する

 

5点の衣類が発見された1967年8月時点の裁判では、ねつ造をしなければいけないほど検察側は追い込まれていなかったし、むしろねつ造によって自白の信用性が失われる危険性があるので、ねつ造する理由がない。

 

⑦ねつ造はリスクが高すぎて非現実的

 

袴田さんのものに似た衣類を探し、血痕や損傷をつけ、みそタンクに隠し、実家に共布があったように偽装する、といった一連の行為は大規模すぎて非現実的だし、判明すれば検察・警察の信用が失われるため、リスクが高すぎて考えられない。

 

以上で冒頭陳述は終了。

凄い。根拠も何もないほとんどただの意見を、こんなにもだらだらと法廷で話せる勇気に尊敬。

 

この時点ですでに14:20。しかし実際の時間以上に長く感じた……。

 

◎検察側立証

 

(1)5点の衣類が犯行着衣である

若い女性検事の登場。嫌々やっているのかなと同情していたのだが、まるでNHKのアナウンサーのような堂々とした話し方。

 

当時のみそタンクや工場内の画像、工場内の見取り図、調書などを出しながら、当時の捜索状況などについて丁寧に説明していく。衣類の血痕の付着状況についても画像を出して説明。

 

◎14:50~15:20 休廷

 

(2)5点の衣類は被告人のものである

ぎょろっとした目のメガネの男性検事が登場。見た目とは裏腹に声は優しげ。

 

袴田さんの衣類に“酷似”していることを、当時の証言を大量に読み上げて説明していく。

 

袴田さん自身は「似たようなものを持っている」「自分のものかどうかまではわからない」「自分のものならクリーニング屋が名前を入れている」などと証言している。

しかしクリーニング屋は、「袴田さんが持ってきた記憶はない」「名前を入れたことはない」と証言している。

その後、従業員の「似たような衣類を見たことがある」「袴田のものに間違いない」「事件後は見ていない」というような、ほとんど同じ証言が何十人分か続く……もういいって!

 

だから、「酷似している」=「袴田さんのもの」にはならないでしょ?

だいたい、なんで他人の服の小さい特徴まで覚えてるの?

なんで他人のパンツを見て「間違いない」って言えるわけ?

 

次に、購入ルートの捜査、家宅捜索の流れなどの、警察の調書を読み上げていく。

あの、検察が警察の作った調書を証拠として使うのって何の意味もないのでは?

 

そして袴田さんがズボンを穿けなかった点について、糸密度だとか収縮率だとか説明している中で、しれっと、ズボンのタグの「B」の表示は「生地の色」、「Y」は「痩せている人用のサイズ」を示すと言った。

あれ?ずっと「B」は肥満体用のサイズだと主張していたのではなかったのか……?

 

また、確定審での次兄への証人尋問を読み上げ、質問に対して黙ってしまった部分を「次兄、沈黙」と何度も繰り返して強調。

何だか、そんないじめみたいなことして楽しいんですかね。

 

(3)被告人が犯行時に5点の衣類を着用していた

 

また女性検事の出番。

 

袴田さんの右肩の怪我と、衣類の右肩の穴の位置について調書や画像で説明していく。

その中で、またしてもしれっと、検察が行ったみそ漬け実験の結果、茶色く染まった布の写真が出されて、軽く流して一瞬で消された。

あれ、幻……?布の色の話には触れられることはなかった。

 

17:00 閉廷

ここで17時になり裁判官により閉廷が促される。

 

小川先生がすっと立ち上がって、「衣類の色について触れていないが、また改めて触れるのか」と質問する。先生も疲弊されていたのか、いつになくきつい口調。

検察官は若干しどろもどろになりながら、年明けには触れるとして、17時すぎに閉廷。

 

お疲れさまでした、私含め皆様。

……本当に疲れた。体力も気力もすべて持っていかれてしまった。

 

ひで子さんが第2回公判を「裁判らしい裁判」と評した意味が分かった気がする。あそこには、何か明らかに異常な空気があった。

 

さすがは検察である。

堂々とした口調には、いくら矛盾点があろうと受け入れてしまうような圧倒的な威圧感があった。そして都合の良い部分はうんざりするほど長く話すのに、都合の悪い部分は一応触れはするが一瞬で終わらせる高等テクニック。

検察は悪を裁くヒーローである一方で、天才的な冤罪職人にもなれるのだ。

 

◎17:20頃~弁護団記者会見

 

最初にひで子さんが、「母親は嘘を言うような人間じゃない」「母も兄も頑張ったから、今の再審開始がある」と述べ、「これじゃ冤罪はなくならない」と悔しさを滲ませていたのが印象的だった。

 

検察側が立証に力を入れるのは構わないのだが、すでにこの世にいないご家族を都合よく利用するのは、あまりにも残忍だと思ってしまう。

 

小川弁護士は、検察側の主張は弱いところばかりだと指摘し、「枯れ木も山の賑わい」と表現した。特に5点の衣類が犯行着衣であるという立証の薄さや、衣類の色についての説明不足があり、ある意味で安心と述べられた。

 

西嶋弁護団長は、「警察がそんなひどいことはしないなんて、よく白々しく言えたものだ」と呆れる。

県民として恥ずかしいことだが、静岡県がいかに冤罪大国であるかは周知の事実である。

 

今後の弁護団の方針としては、5点の衣類一つ一つやその他矛盾点などを丁寧に突いて、ねつ造以外にあり得ない、という方向を目指すようだ。今回の検察の主張は弱い部分が多く、「十分に反論できる」とのことである。

 

◎18:30頃、記者会見終了。

今回の検察側の主張を受けて、弁護団がどのように反論していくかが楽しみである。

 

第4回公判は12月11日(月)、検察側立証の続きと、弁護側反証が行われる予定。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.3

清水っ娘、袴田家初訪問―巖さんと23歳同士お友達になりたい!

 なかがわまお

第3回公判の2日前の11月18日土曜日、第72回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)に参加させていただく前に、袴田家に初めてお邪魔させていただけることになった。

巖さんとはこれが初対面。ひで子さんとは何度かお会いはしているが、しっかりとお話しさせていただいたことはなかった。

 

浜松駅に降り立ったのはおそらく初めて。

同じ県内とはいえ、静岡は横に長いので浜松はかなり遠い。在来線で2時間近くかかる距離だ。県外へ旅に出るような気持ちでのんびり電車に揺られる。

 

道中、ひで子さんの半生を描いた漫画『デコちゃんが行く』を読んでいたのだが、これは完全に失敗した。

せっかく気合を入れたメイクが台無しにならないように、今にも溢れ出そうな涙を堪えるのにとにかく必死。家で読んでいたら普通に号泣していただろう。

 

そんなこんなで浜松に到着。

外に出た瞬間、寒い!とにかく風が強い!

これが噂には聞いていた「遠州のからっ風」というものか。

この風の中で生きてきたのも、ひで子さんの強さの秘訣の一つなのかもしれない。

手土産のお花が吹き飛ばされないように両腕で抱きしめながら、いざ袴田家へ。

 

袴田家は、浜松駅から歩いて十分ほどの、白い3階建てマンションの3階部分である。

このマンションは、ひで子さんが巖さんと暮らすために30年ほど前に建てられたもので、見事夢が叶い、巖さんと共に穏やかに生活されている。

 

3階まで階段を上ると、かわいらしいピンク色の大きなドア。

そこがひで子さんと巖さんの暮らす家である。

 

出迎えてくださったのは、袴田さん支援クラブ代表の猪野待子さん。献身的にひで子さんと巖さんの支援をし続けている、ものすごくパワフルな美人だ。

 

中に入らせていただくと、広々としていて見晴らしの良い、綺麗で素敵なお部屋である。

 

そこに、巖さんがいた。

何度も画像や映像で見たことのある巖さんが、穏やかな表情で目の前に座っていた。

 

緊張しながら挨拶をして、握手をしていただいた。

柔らかく温かい手だった。

 

巖さんは年齢を聞かれると、23歳だと答えるという。巖さんと同い年の23歳だということ、清水から来たことなどを伝え、巖さんとお友達になりたいと伝えてみた。

 

私の声は聞こえているのかいないのか、たまに何となく返事のようなものがある程度で、なかなか会話にはならない。

まだお友達にはなれなかったようだ。巖さんに認めてもらえるまで浜松に通い続けるつもりだ。

 

しかし、メジロの絵を添えた手紙を手渡すと、受け取って無言でじっと見つめていた。そして、外出するときに上着のポケットにしまってくださった。

 

巖さんは、小さい頃近所で火事が起こった際に、飼っていたメジロの鳥籠だけを抱えて逃げて震えていた、というエピソードを聞き、それで下手ながらもメジロの絵を描いてみたのだ。

何か昔のことを思い出していたのだろうか。表情からは何も読み取ることはできなかった。

しかし、受け取ってくださったことが非常に嬉しくて、危うく泣いてしまうところだった。

 

48年にも及ぶ死刑囚としての獄中生活が、巖さんの人生と精神を蝕んでしまったことに対して、もちろん胸が痛む感覚もあった。

しかしそれ以上に、巖さんがちゃんと生きて目の前にいて、肌のぬくもりを直に感じることができた、その感動のほうが大きかった。

 

どうしてひで子さんはあんなに強くいられるのだろう、とずっと不思議だった。しかし、その理由が何となくわかったような気がする。

巖さんが目の前にいるだけで、なんだか自然と笑顔になってしまうのだ。

そのような、人としての魅力が巖さんにはある。

 

巖さんが出かけてしまってから、ひで子さんとお話しさせていただいた。

時間がなくてあまり多くはお話しできなかったのだが、私のような若輩者にも、非常に低姿勢に優しく接してくださった。

『デコちゃんが行く』に快くサインもいただけました!すごく達筆……!

 

いつ見ても若々しいひで子さんが、戦争も経験し、巖さんの無罪を求めて長年闘い、90年間も生きているという事実を、私はまだあまり呑み込めていない。

実際にお話ししていても、こんなに元気な90歳が現実に存在するのだろうか…?と疑ってしまうほどだ。

 

「本当に色々と大変だったでしょう……」と私が言うと、ひで子さんは、

「57年もあれば、みんな多かれ少なかれ大変なことはあるよ。私はたまたま巖が巻き込まれちゃっただけで」

と平然と明るく言ってのける。

 

いやいやいやいや!と思わず突っ込んでしまう。

ひで子さん、歴史的に残る大きな死刑冤罪事件ですよ?そんじょそこらの苦労と一緒にできるものじゃないですよ?

 

しかし、ひで子さんは「悲劇にしたくない」とおっしゃった。

私はその言葉を咄嗟には理解できなかった。

巖さんやひで子さんの身に降りかかった苦しみを、悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。

 

しかし、実際に袴田家に伺って巖さんにお会いしたからこそ、あとになってその言葉の意味するところが何となくわかるような気がした。

 

警察・検察や裁判所、再審制度などに対して、一番怒りを感じているのはひで子さんのはずである。

しかし、巖さんが生きて帰ってきて、一緒に暮らすことができるということに、一番幸せを感じているのもひで子さんなのである。

 

だからこそ、過去を振り返るのではなく、常に前を向いて歩くことができるのだろう。

ひで子さんの言葉には、あとになってずんと重みがのしかかってくる。

 

また浜松で、「袴田さん支援クラブ」や「見守り隊」の方々とも多くお会いした。

皆あたたかい方ばかりで、その努力とやさしさのおかげで、ひで子さんも巖さんも穏やかに暮らせているのだろうと思った。

 

一度殺人犯のレッテルを貼られてしまうと、たとえ再審無罪を勝ち取っても、故郷に戻るのはなかなか難しいと聞く。

その点で、未だ死刑囚であるにもかかわらず、巖さんが浜松で暮らすことのできる環境を作っているひで子さん、また支援者の方々の努力は偉大だと思う。

 

清水、特に事件のあった横砂周辺では、未だに風当たりの強さを感じることがある。

巖さんにとっては思い出したくない場所かもしれないが、清水でも巖さんをあたたかく歓迎する基盤があったらいいな、と少し考えた。

 

とにかく、この日はひで子さん、巖さんをはじめ、浜松の支援者の方々などに大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.2

袴田事件再審第2回公判傍聴記―これは闘いである

なかがわまお

2023年11月10日金曜日。静岡地裁にて、袴田事件再審第2回公判。

今回は見事傍聴券が当選して、裁判を生で見届けることができた!

 

この日の静岡はあいにくの雨。

天気のせいか、単純に二回目だからなのか、人もカメラも前回よりかなり少ない。

 

◎9:45 当選番号発表

思わず、「当たった~!!!」と叫んでしまった。

今回並んだのは89人。3人に1人くらいは当選する計算になるが、一緒にいた5人のうちの4人が当選した。すごい強運!

 

今回は検察官の主張①(犯人はみそ工場関係者であり、袴田さんが犯行を行うことが可能だった)に対しての弁護側の反証。

 

長い間指摘され続けてきた点が丁寧に説明されていたので、事件を知っている人にとっては、特に新しい情報というものはない。

しかし、くり小刀、雨合羽、ブリキ缶、ゴム草履などの実物が現れたのには驚いた。

当時の現場や調書の写真も数多く見ることができて、実際に起きた事件なのだということを再認識させられた。

また、当たり前なのだが、検察と裁判官という相手が実際にいるということを目の当たりにして、ああ、これは闘いなんだな……と身に沁みて実感した。

 

◎10:30頃~ ボディチェック

 

二階に上がると大勢の裁判所職員の方々。

筆記用具以外は何も持ち込めず、荷物を預けたあと、全身くまなく金属探知機を当てられる。唯一反応した腕時計も入念にチェック。ここまで厳重な警備だとは思っていなかったので驚き。

 

裁判傍聴自体初めてというのもあってわくわくしていたのだが、法廷前に貼られている紙の

「住居侵入 強盗殺人 放火」「被告人 袴田巖」

というおどろおどろしい文字に一気に身が引き締まる。

 

◎11:00 開廷

 

それでは11時になりましたので~、と案外ぬるっと開廷。

 

席は指定席で、弁護側の後ろ。弁護団の先生方のお顔は重なってしまってあまり見えなかった。

逆に検察のお顔ははっきりと見える。メガネで鋭い目つきの男性2人と、かわいらしい若い女性の3人。どんな気持ちなんだろう、本当は嫌だろうなあ、などと気になってしまった。

 

最初に、検察が起訴状における被害者(専務)の年齢の誤りを訂正。…今更?

 

その後弁護側が、事件の4日後の1966年7月4日の「従業員H」の名前が記載された新聞記事を、すでにこの時点で警察が袴田さんを犯人と決めつけてリークした証拠として採用しなかったことに異議を申し立てたが、地裁は棄却。

 

一般的に、公判外での供述や報道内容などは「伝聞証拠」と呼ばれ、ほとんどは採用されないようだ。確かにこれは確たる証拠にはなりえないし、新聞が適当に書いただけと言われればそれまでだが、悔しい。

 

◎弁護側冒頭陳述

 

田中薫弁護士が、犯人はどこから侵入したのか、どうやって4人を殺害したのか、奪ったとされる金はどこに行ったのか、などを問いかけるように述べ、改めて犯人はみそ工場関係者ではないこと、単独ではなく、外部の複数犯であること、強盗目的ではないことを主張した。

 

まず、ポケットに鞘の入った雨合羽は本当に落ちていたのか、くり小刀が凶器なのか、雨合羽から人血反応があったという鑑定書が再審になって初めて出されたことを指摘。

 

また、放火に使われたとされる工場にあった混合油や、被害者宅から工場までの間に落ちていた金袋、みそ工場の風呂場の血痕を7月23日に見つけたと主張していることなど、犯人はみそ工場関係者と主張される点についての疑問点を挙げる。

 

そして、検察側の主張するような行動を袴田さんがとれたとは到底考えられないと締めくくり、冒頭陳述は終了。

 

雨合羽の鑑定書が再審で初めて出されたという点に対して、検察は「隠したわけじゃなく開示されなかっただけだ」と反論。

隠したとは一言も言っていなかったのだが……。

 

◎弁護側立証

当時の調書や写真、図を用いながら、一つ一つ反証が行われていく。

 

・現場状況

まず、現場の図や当時の写真を多く使いながら、事件の状況を確認していく。

私は事件現場には何度か足を運んでいるので、特に事件前の被害者宅の写真を見て胸が苦しくなった。焼けてしまって、今ではそのほとんどが残っていない。

 

・パジャマ

7月4日に任意提出された袴田さんのパジャマの写真が出される。

ぱっと見では染みがついているようには見えない綺麗なものだった。しかしこれがいわゆる「血染めのシャツ」なのである。

 

・雨合羽

雨合羽が発見された時刻が、事件当日6月30日の「午前11時」に線が引かれ、「午前4時」と書き直されていること、その後の実況見分調書では雨合羽の記述がないこと、7月6日付で初めて雨合羽の写真が出てきたこと、また消火の際に工場員が雨合羽を着たという証言があったことなどを指摘。

 

と、ここで、雨合羽とポケットに入っていたという鞘の実物が登場!

モニターに写して見せるが、雨合羽は何となく黒っぽいくらいでほとんど確認できず。

 

◎12:15~13:15 休廷

 

・くり小刀

いきなりくり小刀現物が登場!

刃渡り12㎝ほどと知ってはいたものの、実物のあまりの小ささには心底呆れてしまう。

人を4人も殺害したものだなんて到底思えないし、これで人を刺そうという発想にも至らない。被害者4人は40箇所も刺され、肋骨まで切れているのだ。

しかし実物は「凶器」という言葉には全く似合わない、おもちゃのような代物だ。しかもくり小刀から血液は検出されていない。どうして凶器として認められたのか、不思議で仕方がない。

 

・混合油

警察は普通、放火ならまず油などの特定をするはずなのに、特定をしないまま7月4日には工場内にあった混合油と断定した。しかも、専務の遺体の近くにはガソリンの入った缶があったのにもかかわらず。

鑑定では混合油が放火に使用されたかどうかは不明だという結果が出ている。

 

ここでまた現物の登場。工場の混合油が入っていたブリキ缶(高さ50~60㎝ほどか)と、混合油を運んだとされるポリ樽(こちらはレプリカ)。

このブリキ缶の側面から数カ所の人血反応があったということだが、もし犯行に使ったのなら絶対に触れるはずの蓋や、巻いてあった縄からは血液は検出されていないのである。

 

検察が「つまり人血反応は捏造だと言いたいのか」と聞いたが、

田中先生が、「いいえ、捏造と申しているのではありませんよ。側面だけに人血反応があったという点が不自然だと申しているのです」と嫌味っぽく切り捨てる。

 

◎14:25~14:55休廷

 

・金袋

奪われたとされる金袋とその金額、また被害者宅に残されたままだった甚吉袋の中の金袋の中身や、現金、通帳、貴金属類などをすべて確認し、改めて強盗ではないことを指摘。

預金もものすごい額が残っており、宝石のついた指輪等も、乙女心がときめくほど大量にある。もしも私が犯人なら絶対に盗りたい。

 

・取調べの録音テープ

袴田さんが自白を始めた1966年9月6日(とされている)の取調べの録音が流される。

内容は、「犯行後にどこから出たのか」を松本警部が尋ね、袴田さんが「裏(木戸)です」と答えるが、警部が「裏木戸は閂がかかっているのだからありえないだろう」と威圧的に否定する場面である。

 

生々しい録音が流れ、検察側がさっと強張ったように見えた。自分たちの先輩として、どう感じているのだろうか。

 

最後に田中先生が、「他の従業員に気付かれずに工場を出て、一人で被害者宅に侵入し、くり小刀一本で4人を殺害し、工場に戻って混合油をポリ樽に移して運び、再び被害者宅に侵入して放火し、また工場に戻るという行動が、いったい袴田さんにとれたでしょうか」と、心に直接訴えかけるように、静かに検察官に問いかけた。

 

田中先生が語り出した直後から、検察が明らかにそわそわと体を動かし始める。かなり動揺しているように見えた。

 

・ゴム草履

ここで犯行時に袴田さんが履いていたとされているゴム草履の実物が現れた。

黄色に鼻緒部分が青色の、普通のペラペラのビーサンである。

 

このゴム草履は犯行時に履いていたとされたのにもかかわらず、当時警察が鑑定したところ血液も油も検出されなかったために、57年間証拠として日の目を浴びることがなかったものだ。

つまり、重大な無罪の証拠になりうる。

 

最後に、検察側からの質問。

「検察が何を捏造したと言いたいんですか!?」と声を荒げる検察官に、

「捏造なんて一言も申しておりません!」と強く主張する田中先生。

 

田中先生、問いかけるような静かな語りから、皮肉めいたきっぱりとした物言い、また怒気を含んだ口調まで、一人何役かと思うほど、とにかくメリハリがすごい。何を言われてもコロッと洗脳されてしまいそうだ(笑)

 

にしても、今回は「捏造」という言葉は一切用いられていなかった。弁護側は非常に落ち着いた口調で、客観的証拠に基づき淡々と指摘をしていた。もっとガンガン攻めてほしい!と物足りなく思ってしまうくらいに。

 

え、検察官、話聞いてなかったの?と私ですら思った。

 

最後に次回の日程を確認して終了。

次回、第三回公判は11月20日(月)、検察側が主張②の「5点の衣類」についての主張を行うとのこと。

 

◎15:50頃 閉廷

 

終わってどっと疲れを感じたが、意外と時間が早く過ぎたような気もした。初めての裁判で緊張するかと思ったが、それほど厳かな空気だとは感じられなかった。

 

しかし、やはり実際に裁判を見てみて、事件に対する実感というものが強くなったように思う。

 

一番大きかったのは、これはれっきとした闘いなのだという体感を持てたことだ。

 

支援者や弁護団の方しかいない場で事件について話していると、もうすでに無罪判決は確定しているような和やかさが常にある。

しかし、実際には検察という敵がいて、判決を決める裁判官がいる。本当に無罪になるのかどうかも、いつ判決が下されるのかもわからない。

 

裁判に関しては応援するくらいしかできることはないのだが、なんだか、私ももっと気を引き締めなければ、という思いになった。

 

そして闘いは袴田さんのためだけではなく、この事件でお亡くなりになった被害者の方のためでもある。

事件現場付近は当時の面影を残して今もうら寂しく、被害者四人は現場近くのお墓で静かに眠っている。早く真相が解明され、被害者の方々が少しでも安らかに眠れることを心から願っている。

 

また、考えてみれば当然のことなのだが、当時の調書がすべて肉筆で書かれているという事実に驚きを感じた。

 

冤罪は警察・検察組織全体、司法制度全体の問題である。

しかし同時に、冤罪を作り上げたのは一人一人の人間でもある。

そしてその罪は、現在の検察官一人一人にはない。

 

人間である以上、間違えることはある。だから、もし過去に過ちがあったのなら、すぐ素直に認めれば良いだけの話ではないか。私はそう思う。

 

◎17:30~ 弁護団記者会見

 

最初に西嶋勝彦弁護団長が、第二回公判について「明確な弁論だった」と評価した。

 

ひで子さんは「弁護士さんが捜査資料をよく読みこんでいることがわかった。改めて弁護士さんの力の強さには感謝しております」と発言。

 

この言葉を聞いて角替先生の目から涙が……先生、素晴らしかったです。お疲れ様でした。

 

ひで子さんは、だらだらとした初公判とは違って、今回は「裁判らしい裁判だった。とても良い裁判だった」と感想を述べられた。

 

角替先生や水野先生は、再審というものの難しさについて語られた。

今回の裁判で証拠となるものは、検察が検察のために集めた、有罪の方向への材料しかない。つまり弁護側は、有罪のために集められた証拠の中から無罪の証拠を探すという、非常に困難な作業をしなければいけないということである。

 

今回、弁護側は公判内で「捏造」という言葉も用いていないし、意見を主張するのではなく、客観的な証拠に基づく指摘を一つ一つ丁寧に行っていた。

 

検察側は何だかずっと焦っている様子で、「捏造ではない」とずっと言いたげだったが、そもそも誰もそんなことは言っていないのである。

 

もちろん弁護団は捏造を疑っているし、本当はそう主張したいだろう。

しかし、捏造かどうかを評価するのはあくまで裁判官であって、弁護側は検察の主張の矛盾点を詰めていって、最終的に「捏造しかありえない」という判断を目指す方針である。

 

また村崎弁護士は、司法の世界では未だに非常識がまかり通ることを訴え、袴田事件は「司法の汚点」として、司法制度を変えていく闘いでもあると訴えた。そして報道の責任もある、反省してほしい、と語気を強め、記者の方々は心なしか居心地悪そうにしていた。

 

◎19:00頃 記者会見終了

 

初めて裁判を傍聴することができて、長くて濃い一日だった。

改めて、弁護士の先生方やひで子さん、また支援者の方々のバイタリティには尊敬する。

私も私なりに、何か力になれるように頑張ろうと、いっそう強く感じる日になった。

 

第3回公判は11月20日、検察側の主張②、5点の衣類についての立証が行われる。

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」 No.1

23歳“清水っ娘”と「袴田事件」―事件との出会い、そして決意

なかがわまお

皆さんは、「袴田事件」についてどのようなイメージを持っているだろうか。

今では一般的に「冤罪事件」として知られていることが多いだろう。すでに無罪判決が下されている事件だと思っている方も多いかもしれない。

 

事件現場の近く、静岡県の清水で生まれ育った現在23歳の私は、最近まで、「袴田事件」=「昔近くで起こった冤罪事件」くらいの認識しか持っていなかった。

 

袴田さんが釈放された2014年当時、私は中学1年生だった。何となくテレビなどで見たような気はするが、はっきりとした記憶は残っていない。おそらくその前後の社会の授業で日本の四大死刑冤罪事件について学び、もしかすると最近まで記憶がごちゃ混ぜになっていたかもしれない。

 

それほど、私にとって袴田事件は、近いようで遥か遠い事件だった。

 

2023年3月、袴田事件の再審開始が決定したことを知った。

 

静岡地裁で行われるなら近いから行ってみようかな。

それくらいの軽い気持ちで、とりあえず予習として、関連する書籍を数冊読み始めた。

 

それらを読んで、私は愕然とした。冤罪だというイメージはあったのだが、ここまで酷いものだとは想像もつかなかった。近くに住んでいながら今まで何も知らなかったことを、私はすぐに恥じることになった。

 

ずさんな捜査に過酷な取調べ、検察側の矛盾した論理展開や証拠の捏造疑惑……、素人目線から見ても、この事件、語ろうと思えばキリがないほどにおかしな点が多すぎる。

どうしてこんなにも無茶苦茶なやり方で、人一人を死刑にすることができるのか。裁判とは何のためにあるのか。どうしてこれほど矛盾点が多いのに、今になるまで再審が開かれなかったのか。憤りとやるせなさで頭がいっぱいになった。

 

事件発生から今年で57年になる。

逮捕当時30歳だった袴田巖さんは、87歳になってしまった。

釈放されて穏やかに生活されているとはいえ、今もまだ「死刑囚」だ。

 

この再審が開始されるまでに、多くの支援者や弁護団、巖さんの姉・ひで子さんなどによる、半世紀にもわたる血の滲むような努力があった。私のような若い世代が、「袴田事件=冤罪」というイメージを先入観なく持てていたのは、私が生まれるよりも前から、巖さんの無罪を求めてずっと闘い続けてきた方々の功績にほかならない。

 

再審初公判の日、支援者の方々やひで子さん、弁護団の先生方に実際にお会いして、その有り余るエネルギーをこの眼で見た。そして私は、何だか居ても立っても居られない気持ちになった。

 

袴田さんやその周りの方々のために、私にも何かできることはないか。

清水の人間として、若い世代として、何か力になれないか。

 

そのような思いから、これから事件を追いながら、拙文ながらも自分の言葉で発信していく場として、ブログ『清水っ娘、袴田事件を追う』を立ち上げた。今後の公判や支援活動のこと、事件と関わるなかで感じたことなどを綴っていく予定です。

https://m-nkgw.hatenablog.com/

 

Twitter(なかがわまお:@m_nkgw2000)でも、事件に関することや、自分の思いなどを発信していくつもりです。

https://twitter.com/m_nkgw2000

 

いろいろと未熟な私ではありますが、だからこそ伝えられるということも、もしかするとあるかもしれません。私の記事が多くの方々の目に留まり、より関心を持っていただくきっかけになれば幸いです。特に若い世代や、静岡県民、事件のことをあまり知らない方々に、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 

まずはこの事件のことを知ってください。袴田さんの無実の叫びを、またずっと闘ってきた方々の咆哮を、聴いてください。そして、袴田巖さんの雪冤を、応援してください。

 

私も、まだ何をすれば良いのか模索中ではありますが、とりあえず自分のできる限りのことを全力で頑張ってみます。

袴田巖さんに真の自由が訪れるその日まで。

 

筆者の中川真緒さんは、静岡市在住の新人小説家。

静岡市主催の文芸賞「静岡市民文芸」の小説部門で、大賞にあたる市長賞を受賞。

 

 

 

無実の袴田巖さんを速く無罪に!!

無実の袴田巖さんを速く無罪に!!

《検察は袴田巖さんを再び死刑にしようとしている》

3月13日、東京高裁で『裁判のやり直し』が決まり、晴れて袴田さんは無罪になるものと多くの人が思っていましたが、検察は7月になって『有罪立証』の方針を決め、再び袴田さんを刑務所に連れ戻し、死刑にしようとしています。

これまでに4回の公判が開かれましたが、検察は「袴田以外犯人はいない」ことだけを印象付けようと、57年前の資料をつなぎ合わせ、自分たちに都合の良い証拠だけで巧妙に作文を作り上げました。しかしながら、事件当時には生まれてもいなかった3人の検事が作った作文は確たる根拠もなく、全て想像に過ぎません。

警察が『5点の衣類』をねつ造して味噌タンクに隠したと疑われることに対しては「ウソがばれるリスクを冒してまで大規模なねつ造は考え難い」と結論付けていますが、これこそが検察官の無知を暴露しています。

袴田事件が起きたのは1966年(昭和41年)ですが、戦後静岡県では、二俣事件、幸浦事件、小島事件など強盗殺人事件でえん罪が多発し、幼女誘拐殺人事件の島田事件は(1989年無罪が確定)未だ裁判の途中でした。

それらのえん罪事件を引き起こしたのが『拷問王』と呼ばれた紅林麻雄と彼の部下たちであり、袴田事件の取り調べに加わっていたことが明らかになっています。

つまり当時の静岡県警では無実の人を逮捕し、拷問で自白させる手法が常態化していたことが見て取れます。これが『えん罪・袴田事件』の背景です。

《5点の衣類は犯行着衣でも袴田さんのものでもない》

1967年8月30日に2m四方の巨大味噌タンクから発見された『5点の衣類』が唯一の決め手になって袴田さんは死刑囚にされてしまいましたが、東京高裁の再審開始決定では「捜査員が捏造した可能性が極めて高い」と指摘されました。

5点の衣類は発見当初からおかしなことばかりで、はけないズボン、味噌漬けにされた衣類の色などが知られていますが、犯人が味噌タンクに入れた理由を考えれば疑問は解けます。なぜなら味噌は商品ですからいずれ出荷されます。必ず発見される場所に入れる行為は、隠すのではなく、むしろ発見されるために行ったと判断できるからです。しかも、味噌タンクから発見されたのは『5点の衣類』だけではありません。みそ会社の社名の入ったマッチ箱と絆創膏がズボンの右ポケットに入っていました。なぜ絆創膏がと思われるでしょうが、袴田さんは消火作業の最中に左手の中指をトタンのようなもので切って怪我をしています。『5点の衣類』だけでは袴田さんを犯人にすることはできないので、その所有者が工場従業員で、指などに怪我をしている人物であることを連想させなくてはなりません。もちろん警察は事件直後から袴田さんが指を切って治療していたことを知っています。

袴田さんがもし本当の犯人ならばわざわざ明らかな証拠を残すはずがなく、被害者と一緒に放火して燃やしてしまったり、工場の裏の海に捨てたでしょう。

一方、ねつ造した側は袴田さんのものだと類推出来て、また必ず発見される場所=間違って捨てられることがない場所に入れなければならなかったのです。

《私は犯人ではありません=獄中から生の声》

袴田さんは1981年に、第一次再審請求を静岡地裁に提出しました。1983年には獄中で猛勉強をして自ら書いた16枚の『意見書』は次のように述べられています。

「第一審判決は誤判であり、私は無実である」「はけないズボンは自分のものではなく、事実誤認である」「血染めの衣類は私の物ではない」

この時すでに獄中17年を経過してもなお再審に意欲を見せ、理路整然とそして魂を振り絞り「無念の獄中から万感を抱きつつ、再審開始決定を求めます。」と袴田さんは訴えていました。(1983年2月)

このように心から再審開始を願っていた袴田巖さんは今再審公判の場にいません。死刑囚としての想像を絶する苛酷な拘留によって、精神が壊され、普通の会話が出来なくなってしまいました。

40年前にこの意見書が裁判官によって取り上げられていれば、信じがたいほどに残酷なえん罪を止めることができたかもしれません。しかし袴田さんの訴えが認められたのは、それから30年以上も経った2014年の静岡地裁の再審開始決定であり、今年3月の東京高裁の決定でありました。

どんなに謝罪しても、愛する家族と引き裂かれ人生を奪われた過ちは取り返すことはできませんが、袴田さんがせめて残された人生を穏やかにそして晴れやかに生きることを望むのが人としての心情ではないでしょうか。

 

検察は身内の強硬意見に突き動かされ、袴田さんに死刑を求刑しようとしていますが、検察の非道を非難する市民の声はこうした検察の姿勢を変えることができます。

年が明ければ、袴田巖さんは88歳に、姉のひで子さんは91歳になります。残された時は本当に少なくなっています。一刻も早く、速やかに無罪判決を勝ち取らなければなりません。

無実の袴田さんを応援してください。                                       (文責:清水)

 

12月11日、第4回再審公判開かれる       

第4回再審公判       2023年12月11日

12/16㈯ 第73回袴田事件がわかる会

第73回袴田事件がわかる会

日時:12月16日(土) 午後1時30分~4時

場所:浜松復興記念館2階 (浜松市中区利町304-2)

あいさつ: 袴田ひで子さん

ゲスト : 浅野健一さん(フリージャーナリスト)

『マスコミは袴田さん逮捕段階の報道検証を』 

知る人ぞ知るジャーナリスト、浅野健一氏をお招きします。氏は、共同通信社記者(1972~94年)から同志社大学大学院社会学研究科教授(1994年~2014年、新聞学)そして2014年からフリー・ジャーナリストとして活躍されてきた方です。人権と報道について、舌鋒鋭く追究する第一人者。メディアの実名報道(逮捕と同時にあたかも犯人であるかのように報道、そして実名を出して名誉を棄損する)、日本特有の記者クラブ制度(警察等公的機関から優遇されている大手メディアの閉鎖的な団体、政府や警察情報を垂れ流す報道に陥る元凶)などで、一歩も引かないラディカルなジャーナリストとして有名。

「袴田事件は私が共同通信記者時代に、人権と犯罪報道について考える契機になった事件の一つ」だと言われ、ひで子さんとともに大学で講演したこともある。財田川事件、松山事件の元死刑囚にも会い、記事にしている。気さくなお人柄で、第2回再審公判を傍聴された折りに、ひで子さんとの再会を喜ばれた。

浅野先生の講演で、自分のメディアに関する常識が覆されます。

浅野健一さん(あさの・けんいち)の略歴

1948 年高松市生まれ。慶大経卒、1972 年に共同通信社入社。1984 年に『犯罪報道の犯罪』を出版。1994 年から 2014 年まで、同志社大学大学院メディア学専攻教授。「人権と報道・連絡会」代表世話人。たんぽぽ舎アドバイザー。『客観報道』『天皇の記者たち』『安倍政権・言論弾圧の犯罪』など著書多数。2020年、下咽頭がん手術で声帯を失うが、AI 音声、電気式人工喉頭などを使って講演を再開。「紙の爆弾」「進歩と改革」に寄稿、朝鮮新報、救援、たんぽぽ舎メルマガで連載中。

主催 : 袴田さん支援クラブ   HP : http://free-iwao.com/

11/20 第3回再審公判開かれる

11/20 第3回再審公判後の弁護団記者会見

11/18 小川秀世弁護士講演

11/18 第72回袴田事件が分かる会

いったい、どういう事件だったのか?

小川秀世 弁護団事務局長の講演

Older posts Newer posts