フォーラム90の呼びかけ人として30年近く、そして「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金表現展」の選考委員としてこの12年間毎年おつきあいいただいている加賀乙彦さんに、東京拘置所の法務技官であった時代の経験から執筆された『死刑囚と無期囚の心理』を中心に、死刑問題と関わってこられた半生を語っていただきました。(7月1日、文京シビックセンター)
http://www.forum90.net/report/archives/9
ここで動画を見ることができます。

「死刑囚と無期囚の心理」をめぐって

加賀 乙彦 (作家)

1、ドストエフスキーが入り口だった
ちょうど1週間前に名古屋で日本精神神経学会という精神神経科医の学会があり、そこで1時間、死刑囚と無期囚の心理について話をしました。私のやった研究は、死刑囚と無期囚のヒステリアの研究です。外から押し寄せてくる原因によって人間が神経の病気を起こすのをヒステリアと言い、死刑囚と、そしてそれと対比して無期囚の心理を研究しました。25、6歳の時に始めて、実際に全ての研究を整理して論文にしたのは29歳の時です。この数年を思い出すと、なぜ私が死刑囚に関心を持ったかということが分かっていただけると思います。
その当時、私は文学が好きで、特にロシアのドストエフスキー、トルストイ、チェーホフという三羽烏の文学者が好きでした。この3人はロシアの作家ではありますけれども、いまだに全世界でよく知られ、その作品は何度でも再版されるという不思議な作家たちです。特にドストエフスキーは晩年になって、彼は59歳で死んでいるので40を過ぎたころですが、突然、人が驚くような作品を次々に書きます。『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』とか。
この人の書く小説は全世界の人に読まれているという大天才ですが、彼は27、8歳の時、革命集団の一人と疑われて逮捕され、1年間ペテルブルグの島に監禁された後、死刑の判決を受けます。そして練兵場に連れていかれて、数十人の人が一緒に処刑されることになっておりまして、彼は2列目に並ばされた。最初の人々の死刑が行われ、血まみれになった死体が片づけられた後に自分がそこに立つという情況になったときに、彼は周りを見回したそうです。「ああ、あと数分後には自分の死刑の執行が行われるのだな」と。そして最初の1分間は自分の全人生を思い出す。その次の1分間は自分が親しくしていた人たちの思い出を繰り返す。さようならという挨拶をする。そして3つ目はどうしたかというと、周りの景色を眺める。晴れた日でペテルブルグの町が遠くに見えて、練兵場は綺麗で、そして銃を持った兵隊たちがずらっと並んでいる。「ああ、これでいよいよ俺も最期か」と思う。
そしてそれから先は事実ではなく夢みたいなものとなるのですが、たぶん白い馬に跨った伝令が来て、「皇帝様の下した命により、君たちは死刑にはならず、今より刑一等を減じてシベリアに流刑される」と言われたのだと思います。どういうふうに言われたかドストエフスキーは書いていないので分かりませんが。そしてみんな肩や胸を落として、「ああ、よかった」と思う。ある人は泣き出した。そしてドストエフスキーは、とにかくものすごく貧乏だった人間が金持ちになったようで、豊かな想像力が泉のように湧いてきたということを書いています。
そして彼らはその足でシベリアに流刑されるわけです。ドストエフスキーは数年シベリアに留められ、10年近く首都ペテルブルグに帰ってくることができませんでした。
最初の4年間、彼は監獄に拘禁されます。その監獄に入った時の様子を書いたのが『死の家の記録』です。それを読んだとき、私はこんな素晴らしい本をどうやって書いたんだろうとびっくりしました。この本には死刑の判決を受けている人も出てくるし、無期刑の人も出てくるし、ありとあらゆる犯罪者が出てきます。そしていろんな形で毎日の仕事をしています。仕事といっても、例えば右側に積み上げられた材木を左側に移す。全部移し終わったら、今度はそれをまた元の場所に移しかえる。例によってドストエフスキーの表現は非常に鮮明で、なるほどそんなことをやったら退屈しのぎにはなるけれど、無意味な労働なんです。それを10年間続けたら、人間はどうなるか。彼はこういうことを考え、監獄で自分が経験し、知ることができた犯罪者の話を書いたんだろうというのが私の印象でした。
ところで、ドストエフスキーに関する研究でも一番分からないままなのは、彼が獄中で何をしたかということです。彼は全く小説を書かなかった。だから分からなかったんですね。ドストエフスキーは4年の刑期が終わった時に、この死刑囚の本を書いたわけですが、日本のドストエフスキーの研究者は、ドストエフスキーの素晴らしいイマジネーションの力、物を見るというよりも、物を考える力がこの本を書かせたので、彼は天才だったものだから多種多様な人間像が書けたのだというのが定説になっていたのですが、私はちょっとそうじゃないかもしれないという気がしていた。ドストエフスキーはまさしく獄中にいたのだから、こういう死刑囚の人たちとか無期囚の人たちとか窃盗犯だとか、ごちゃごちゃしたいろんな人たちと生の接触をして、よく観察して、よく覚え、それを記録にしたんじゃないかと思ったんです。
そのことはずっと医学部で勉強しながらも私の心の中にありました。卒業の時に何科に行くか決めなきゃいけないんですが、私は何も考えずに精神医学を選んだ。そして先輩から精神科医としての新しい仕事をいろいろ教わります。その1年間に東京大学の精神科に勤めて、松沢病院に半年留学したりして、初歩の精神医学を一生懸命に学んでいたとき、ある日、教授に呼び出されて、「東京拘置所で一人精神科医を募集しているが、君行かないかね」と言われました。「君、この前なにかの拍子にドストエフスキーのことを話しただろ。日本の犯罪者は見たことがないんだろ、だったら日本の犯罪者を見てドストエフスキーと比べてみたら面白いじゃないか」とうまいことを言われたものだから、「ああ、そうだ先生、その通りだ! 私がやりたかったのは日本の犯罪者とは、どんな人たちなのかを知ることだ」ということで喜んで、本当にすぐ東京拘置所の法務技官になりました。

2、東京拘置所の法務技官になる
私は東京拘置所の精神科医になった時に、こういう経験をしているんです。2000人の入院患者を扱う、たった一人の精神科医として仕事をしたのです。大勢の患者がどんどん来る。その中に一人、ものすごい興奮患者がいたのです。この症状は何だろうと思いました。というのは、この人の表情が非常におかしかったんです。その表情は、笑っているのに、目はびしょびしょで泣いているんですね。笑い泣きというのかな。こういう状況は今までの医学書のどこにも書いていなかったので、何事が起こったのか分からないけれども、しかし、この奇妙な笑い泣きと私が名づけたものが死刑囚に非常に多く見られたというのが私の発見だったんです。私のところを訪れた最初の彼は、一体どういう境遇の人か分からなかったのですが、あとで看守が「彼は死刑囚ですよ」って教えてくれた。そして私は非常に好奇心がありましたので、翌日すぐ死刑囚のいる監房に行ってみました。そうしたら面白いことに気づきました。騒々しいんです。大きな声でお経を読んでる人もいるし、窓越しに声を出して将棋をやっている人もいた。なんとなくざわざわざわざわしていて、看守さんに聞いたら、「そうなんですよ、拘置所の他のところはシーンとしているのに、死刑囚と無期囚になる人たち、つまり一番重い刑が行われるかもしれない人たち、入所番号の最後にゼロがついているゼロ番囚と呼ばれる人たちは、みんなこんなふうに騒がしいんですよ」って。
それを聞いて、それって何かあると思いました。だって『死の家の記録』の中には、泣きながら大きな声でにこやかに歌を歌っている人のことをドストエフスキーが書いているんです。ああ、笑い泣きっていうのはドストエフスキーが書いていたなとすぐ気がついたので、私は数日後から、午後の仕事が楽になった時間に、ゼロ番区の囚人たちのところに、毎日毎日必ず行くようにしました。そうしたらそのうちに拘置所の所長さんから呼び出しが来て、「あなたは新任のくせに、大きな顔をして死刑囚、無期囚の監房に行っているけれど、誰の許可を受けているんだ。そういうことはやらないでくれ。皆、いつ自分に刑が執行されるかというのでビクビクして、君が会った人というのは、みんないつ殺されるかとおののいているよ」と言われた。あ、これはひどいことをしたとは思いましたけれども、逆に、「だってあそこの監房はすごく騒がしくて、みんな興奮状態じゃないですか。あの興奮状態を看守さんが宥めるのは非常に難しいでしょう。それだったら相手がどういう状況になっているかをまず研究して、彼らに対する対応をもっと上手になさったらいいんじゃないですか」って言ったら、「なるほど、君は若いのに面白いことを言うね」と言って、それならば特別に許可をするからということになった。看守には、僕がやっていることは君たちのためになることなのだということを言っておこうと、そういうことでOKが出ました。考えてみれば、あの頃はすごく簡単にそういうことができたんですね。
それから2年近く、私はもう夢中になって死刑囚と無期囚になる人たちと接触することにした。そしてそのあげくに、こういうことに気がついたんです。死刑囚、無期囚になる重罪犯の場合、なぜ彼らが興奮状態になるかというと、その症状はすでに死刑の判決が決まった人に起こる死刑囚特有の病気だということに気がついたんですね。このことはドイツのヒステリアの研究でかなり明らかになっていることがありました。死刑囚の場合、一番困るのは興奮状態なんです。死のうとして壁に頭を何回もぶつけるものだから気を失ったり、脳出血を起こしたりするということが大きな問題で、そういう人たちを何とかして食い止めようとすることが看守さんにとってすごく大変な仕事だったんです。そのことがだんだん分かってきたので、私はなぜそんなに早く死にたいのかということを本人に突きとめていくという精神療法をしてみたんです。これも1年半から2年になるにつれて相手の数は増えていきますし、私のほうも自然にこういうおとなしい話し方をしてやると相手がだんだん落ち着いてくるというようなことが分かってきて、試行錯誤をしながら、結局2年間に死刑囚44人、零番囚50人、計94人ぐらいの人たちを診ることができました。2時間面接しますと、忘れちゃいけないから家に帰って4時間かけて記述する。そういう作業を毎日毎日繰り返しているうちに2年間で観察本みたいなものができました。

3、死刑囚と無期囚の比較研究
これをうまく利用して少しずつ整理をしているときに、私の先輩であった助教授の吉益脩夫先生が、この方も日本の犯罪精神医学史の中では大変有名な人ですが、「君ねえ、一生懸命、死刑囚をやってて面白いなと思ってるけれども、これは論文にはならないよ」って。「どうしてですか」と聞いたら、「だいたい相手方と同じような状態について、君はなぜそれが起きたかということは全然考えないで、無理無体に相手の心理を知ろうということばかり考えてるけれども、そういうふうにすると小説みたいなものにはなるかもしれないが論文にならない、だめだよ」って言われました。とってもガッカリしたんですが、その時に先生がおっしゃったのは、「要するに、人間を本当に理解するためには、その人の状態と全く違う人と比較するんだよ。例えば君は死刑囚の研究をずっとやってるけれども、無期囚の研究をまだやってないね」「はあ、そういえば、殺人犯の中でも無期囚というと、ああつまらないと思って抜け落ちております」「それがいけないんだよ。死刑囚を50人やったら、50人無期囚をみなさい。無期囚になったときにどんな反応が起きているか。死刑囚と違う部分があるかないかという比較をやりなさい」と言われました。
それで私はそれから半年ぐらい、本当に夢中になって無期囚を観察したのですが、びっくりしたことに本当に先生のおっしゃるとおりで、無期囚は死刑囚と全然違うということが分かりました。犯罪は似てるんです。全部殺人犯です。それから無期囚と死刑囚の選択の類型についても、興奮型の人もいるし、冷ややかな人もいる。比べてみても死刑囚と無期囚は同じ性格の人がなっている。しかしその後、刑が確定してから、無期囚の場合は全く興奮しなくなるということが分かってきたんです。そしておよそ10年ぐらい経つと、それが無期囚の普通の状態になる。こういうことが分かったのは、私が無期囚をたくさん見ようとして千葉刑務所に寝泊まりしながら研究をしたということが大きかったと思います。今でも千葉刑務所は10年以上の刑期の長期囚たちを収容していますね。東京近辺の無期囚の人たちは全員千葉に行くわけです。
私は千葉に行くたびに不思議な経験をしました。それは、最初に死刑囚の監房に行った時に、うるさいな、興奮しているな、何か変だぞという気配があったと申しましたね。同じように千葉の刑務所に行ったときにも、なんて静かなんだと、びっくりしたんです。これは私が論文にも書いたことですが、彼らが野球をやっている時の状況です。看守さんが「この人たちは無期囚なんです、今、二手に分かれて試合をやっているところです」って言うので、ああ、ちょうどいいやと見ておりましたけれども、彼らは野球をやりながら少しも興奮しないわけ。しーんとして。あっ、ホームランだ、万歳!と見ているほうが言ってるのに、みんなは相手との戦いは一生懸命やってるんだけれども、興奮を忘れて、じーっと見てるだけ。変な人たちだと思いました。それがほとんど無期囚であったということから、私は一つ発見をしました。アメリカの研究だったのですが、長期囚の場合、彼らはホスピタリズムになる、そこに住んでいた人たちがいつも取るような状況になるということがその研究で分かっていました。無期囚の場合は、監獄特有の鈍感さというものになっていく。彼らは興奮しないでじっと黙って、私が研究のために問いかけると一生懸命答えるんだけど、答えるだけで向こうから積極的に話しだすということがほとんどない。これが死刑囚となると全く逆なんです。私が何も言わないのに、「先生、私はこの頃眠れない、どうしてくれるんだい、もっと薬をくれよ」とか「昼間から横になりたいから横臥許可をくださいよ」とか、べらべらべらべらしゃべっているのが死刑囚なんです。ところが無期囚は、こちらが何も言わない時はシーンとしている。こちらが何か問うとボソッボソッと話します。そして態度が非常に低い。ぺこぺこしているという表現が一番よいかと思います。1時間ぐらい私と話をしたあと、もう帰っていいですよと言うと、はーって這いつくばったようなお辞儀をして出ていく。看守が連れてくる人は、どの人も同じように静かで、態度がおずおずビクビクとした感じでした。もっと面白く思いましたのは、無期囚の場合、世の中に対する関心が全然ないんですよ。これが死刑囚になりますと、NHKで何をやったとか、今度の法務大臣が誰になったとか、そういうことはみんながものすごく知りたがっていることで、毎日毎日5分か10分のニュースを一生懸命聞いているのが死刑囚でした。一方、無期囚には、そういうものすら聞かない人がいる。世の中に対して全く無関心なんですね。結局、私は千葉刑務所で51名の無期囚に面接したのでした。
そうした状態を、アメリカの研究ではプリゾニゼーションと呼んでいました。プリズンというのは刑務所ですね。刑務所ナイズするのでプリゾニゼーションという言葉が英語にあって、僕はなるほどと思ってその言葉を「刑務所ぼけ」と訳しました。この症状は、無期囚になってだいたい10年経つと刑務所ぼけが始まっていきます。これはたいへん重要なことなんです。そして死刑囚の状況で私たちが一番気をつけていかなければならないのは、彼らは興奮する。その興奮状態は、自分で良いとは思っていないんだけれども、次から次へと湧いてくるような興奮なんですね。そしてその興奮の中で、例えば一晩に俳句を200句作る人がいる。これは本当に驚いたんですが、2年間に何万句という数をものすごい勢いで作る人がいるんですね。作品としては以前あったようなものを作り返しているという面があったり、時々良いのがあるんだけれども。とにかく、夜寝ないで作っているわけだから、抜群の生産力です。そして、この死刑囚と正反対なのが無期囚なのです。

4、死刑囚のヒステリア
ここでいう死刑囚のヒステリア(拘禁反応)をまとめておきましょう。まず、ガンゼル症候群というのがあります。これは1週間前の学会でも私がガンゼルと言ったら、みんな「ああ、懐かしい言葉だ」って言ってくれましたけど、ドイツのガンゼルという精神科医の研究です。死刑判決を受けた人の中に、問いに対していつも本当のことを言わない人がいる。例えば、年齢を聞かれた時、本当の年齢が24歳だとすれば、23歳だよとか20歳だよとか、19歳だよとか。本当のことは言わないけれども、それに近いところの答えをするんです。これは日本でもいまだに多い。死刑囚に多いし一般の囚人にも多いんです。ガンゼル症候群は、簡単な質問に正しい答えがないので、詐病と見なされやすいが、多くの囚人についてみられるヒステリアとみなすのが正しいです。
死刑囚でよく見られるヒステリアでは、原始反応があります。「刑務所爆発」と呼ばれる興奮状態では、突然の感情爆発があり、房内の器物を破損したり、壁に体当たりをして看守に乱暴をはたらくので、動物が起こす原始反応に似ています。
この逆に、何も食べず、何も喋らず、寝たようになっているけれど、つねってやると「イテッ」と言うから反応はあるが、いつも死んだようになっている。これはタコとかイカがそうなんですね。危険になった時に彼らは動かなくなる。つまり死んだ真似をしたような状況になる。これは原始反応と呼ばれています。原始反応は人間にもあるもので、人間の場合は死刑囚に非常に特有な症状なんです。その特有の症状がちょっと緩むとガンゼルになる。もっと緩むとどうなるかというと、普通の人間になりますよね。そういうふうにヒステリアには段階があるわけです。
そして昔からよく知られている原始反応には、これは死刑囚ではなくて一般の患者さんの中にですが、バタッと倒れて癲癇のように痙攣を起こす痙攣反応が知られています。私が精神科医をやっていた頃には本当にたくさんいたんですが、その後10年ぐらい経って、私が統計を取ったところ、日本人の中にほとんどいなくなっていたんです。ニューギニアの土着の人の中に同じような症状があるということが逆に外国で発見されたということがありましたが、とにかくそうした原始反応が死刑囚の中にもあったんですね。こういうふうに段階づけて考えると、原始的な反応が出るということは一種のヒステリアで、本人が何かの真似をしてやっていることではないけれど、死刑囚の場合は「あいつ、死んだふりをしてやがる」とか、「興奮状態を見せびらかしている」と見られていました。しかし、そうではなくてこれはヒステリアの症状なんですよ、というのは日本では私が言いだしたんです。外国ではそういう研究がいくつもありました。例えばドイツのクレッチマーの理論というのは、ヒステリアの解明にとってすごく大事なんですが、彼はそういうことをきちんと書いています。ですから何人かの研究者がうまく言っているんです。この段階のある問題を、私は面白いと思った。今日は死刑反対運動の主催する講演なので、面白いなんていうと叱られますけれども、研究者としては、そういう気持ちがありましたね。私が死刑反対運動に参加するのはずっとあとでして、当時の私はむしろ死刑というのはいかにものすごい抑圧を人間に与え、そしてその抑圧から逃げ出そうとするとヒステリアになるか。そして、このヒステリアには死刑囚特有の核があるということを自分で見つけた。この発見というのは、私の先生が言ったとおり、無期囚と比べてみたことではっきりと分かったのです。

5、時間の心理学
そこで私は研究対象を死刑囚だけじゃなくて、死刑囚と無期囚の精神病理学というふうに変えまして、両者の精神状態がいかにかけ離れているかということについて、誰か研究していないかなと思いましたら、フランスでピエール・ジャネという、これは今では大変有名な心理学者になっていますが、ピエール・ジャネの中に時間の心理学という研究がありました。これも大変有名な本で、日本で誰かが訳せばいいのにと思っていたんですが誰も訳していないので、皆さんお読みになっていないと思うんですが、これは、人間のヒステリアにおいて一番大事なのは時間であるというのがピエール・ジャネの意見なんですね。
人間には、近い未来と遠い未来があって、ああしようこうしようっていう人間の行動を導いていく時間です。例えば来年の今頃どこかに行きたいなとか美味しい柿を食べたいなとか、時間的な欲望というものがありますが、その欲望は1年も先のことになると薄くなりますよね。例えば明日リンゴを食べたいなって言えば、明日のリンゴはすごく現実的で、リンゴの形や味までも全部望むような形であるわけでしょう。それがだんだん未来になって遠のいていくにしたがって人間の欲望はなくなるので、ただ単に数年後の今頃はどっかに旅行したいなという時には、どこに行って何をしようっていうところまで具象化されません。だからもっと遠い未来のことになると、人間は考えることはできるけれども、何の行動も起こさなくなり、従って遠い未来についての欲望というのは全ての人で同じようなものなんです。そして全ての人の心理の究極は死である。この死ぬということについては、あらゆる人がいろいろ考えもし、恐れもしているけれども、これは人によっていろいろ考え方が違う。信仰によっても違います。でも一つ確実なことは、我々は自分の死は近づいたときには分かります。例えば病気で、明日もう駄目ですというような状況になった人は、近い未来の行動になるから、当然、人によって興奮状態にもなるし絶望状態にもなるんですけれども、でも死が遠い場合にはそうではない。そうすると、こういうことがだんだんに分かってまいります。要するに、死刑囚には遠い未来がないんだ。そして無期囚というのは逆に遠い未来しかないんだ。だから当然両者で未来の時間的な感覚が違っていいと。ピエール・ジャネはそこまで書いているので、別に死刑囚や無期囚がどうだなんていうことは言っていませんけれども。
今度は過去について言いますと、近い過去、例えば昨日上司から叱られたとか首になったとか病気になったとか、近い過去だとみんな感情的な反応ができる。しかし遠い過去はどうでしょう。生まれた時、あるいは子供の時の思い出など。心理学では、遠い過去の遠い記憶というのはこういうことでしたね。子供時代の記憶というのは一番はっきりしている。しかしそれに対する思い出は、持つ人は持つし、持たない人は持たない。その場合、一番はっきりしているのは過去の自分の行為についての躍動するような記憶。自分がやったというような記憶よりも、もっと不思議な面白い記憶になっている。現在に近づくにしたがって、例えば1週間前に滑って転んだというのは大変痛い話で、それがよく分かると思います。1年前に転んだのはもう感覚がぼんやりしていますよね。同じようなことなのだということが分かりますね。
そうするとこういうことです。死刑囚の心理を考える時に一番大事なのは彼らの持つ時間の感覚なんです。日本の法律では人を殺した者は死刑または無期に処すとなっています。そして刑法によれば6カ月以内に刑を執行すべきだということも書いてある。でも実際に死刑囚の研究をしていますと、死刑の判決から半年以内に刑が執行されるということは極めてまれです。私が今まで接してきた中では、平均で4年半ぐらい先に刑が執行されていました。早い人は1年以内に執行されることもありますが、しかし大体数年後です。時には一生刑務所で過ごすような死刑囚もいる。これは日本の死刑の一つの大問題でもあります。死刑を執行するのは半年後にすべきだと言いながら、その判決に不服の場合は再審請求ができます。そうすると再審請求したら、その人の刑の執行は延びる。それでみんなやるわけです。なぜかやらない人も時にはいるんですけれども。これは私がかつて研究をしていた頃の話ですが。

6、いま死刑囚と無期囚の研究がしにくい理由
私の死刑囚と無期囚の研究は、その後、誰かがフォローしたとか、あるいは続いて死刑と無期の研究をしてくれたという人がいません。なぜでしょう。実に不思議なんですが、私の死刑と無期の研究は、もしフォローしてくれれば時代によって少しずつ色彩の違う研究ができるだろうし、そして私の場合は時間の心理学でもって一応うまく整理したつもりでいますが、そうじゃない研究の仕方だってできると思います。ただ、私が研究を始めた1954年から1960年までの数年は、まだ日本は非常にオープンな明るい時代だったんじゃないかと、今では思います。ところがその後、死刑の判決や、死刑囚の生活実態というものは公の秘密になってしまったのです。
秘密になりますと、公務員の秘密条例というのが日本にはありまして、公務員になった時に国家の秘密を見た者、あるいは記憶した者は、それを他人に漏らしてはならないという条項があるのです。これはびっくりしたんですが、ここに今日来ている同志たち、みんな死刑反対運動をやっている人たちなんですが、私がこの人たちとこの死刑反対運動をし始めたのが1990年なんです。それから27年が経ちます。毎年毎年私たちは一生懸命やっていますが、もう今の時代になったときには、どうも死刑の研究ができなくなっている。死刑囚が自分で自分の伝記を書くことはなんとかできるんですが、そうじゃなくて大勢の死刑囚を研究したり、それをまた大勢の無期囚と比較をしたりということができなくなっている。私のやった研究というのは、非常に精密な統計学を適用して、有効か有効でないかということをちゃんと差別化できるようにしました。いい加減なものではなく、きちんと数値を出して、自分が見たものについて何パーセント確実な結論だということは全部書いてあります。そういうことなんですが、その後、それをフォローしてくださる研究というのは、あまりないんじゃないですかね。これは後で同志に聞いてみたいんですけれども、私は今までいろんな文献はきちんと読んできたつもりなんだけれども、日本ではそうした研究はなくなってしまった。秘密主義が非常にきちんと行われてきてしまった。
そういえば、私の研究の場合にも、こういうことはありました。ある日、自分が今まで数年見てきた人たちに対して死刑が執行されているかどうか、調べたいと思ったんです。そして法務省に行ってそういう口上を述べたところ、国家の秘密ですから、お教えできませんと言われました。だめだったんですね。私は『死刑囚の記録』という本を中公新書から出しまして、これは古い研究なんですが今でも買えます。この研究の後、これをしのいでくれる本がないかとずっと思ってきました。わずかに団藤重光さんの『死刑廃止論』という本があります。私の研究を引用して下さっています。これは日本ではすごい名著だと思います。そして人間味にあふれた著作で、大勢の人に読まれています。
団藤さんという方はもう亡くなられましたけれども、非常に綿密な方で、私の研究をたいへん認めてくださったんですけれども、これを引き継ぐ研究については、団藤先生でも検索できなかったみたいです。というのも、以前、団藤先生に聞いたことがあるんですね。死刑と無期との研究は、どうなっているんですかって。自分は専門家でありながらいくら言っても、彼らがどうなったかということについては、もう秘密になってしまったからだめだった。団藤先生なら知っているだろうと思って聞いたら、「君、だめなんだよ。君の研究は、誰もフォローしてないよ。逆に言うと君のやったことは死刑反対運動にとって非常に大事なことだから、おおいに本をじゃんじゃん売りなさい」なんて言っておられましたけれども、それくらい不思議なことなんです。
私の死刑囚と無期囚の研究は1960年ぐらいに、一応終わりました。そしてその次の10年間に私が専門家としてやったのは非常に短い間拘禁されている短期囚です。例えば窃盗犯なんかは2年3年が多いですね。窃盗犯、詐欺犯、放火犯、そういう人たちが所内でどのような行動をしているかという研究をずっとやりました。これが私の30代なんです。
そのうちに研究していながら、ある死刑囚との文通が始まったんです。これはこういうことだったんです。1962、3年ですけれども、私はフランスの留学から帰ってきました。フランスでの研究結果は、フランス語で書いてあります。それは日本の死刑囚の例を、私は本名で書いていたのがあって、これは学術研究だからあんまりやるべきことじゃないかもしれないのですが、フランス語ならいいんじゃないかと思って本名で書いちゃったんです。本名で書いたのをそのまま日本語に訳されると困るけれども、どうするんだろうなとまごまごしてるうちに、論文が雑誌に載っちゃったのでそれっきりになったんですが。
そのあと自分ではこういうことを考えました。『死の家の記録』は、観察の結果だというのが私の結論なんです。だからドストエフスキーが死刑囚について書き、無期囚について書いたことは日本人とそっくりで、これは刑務所という場の中における人間の反応をきちんととらえて報告したのが『死の家の記録』だったのではないかと。もちろんドストエフスキーには素晴らしい想像力があり、いろんな珍しい人間を面白おかしく書いてあるんですが、しかしその基礎にある観察っていうのがリアリズムなんですよ、あの人の。晩年の2〜3年で『カラマーゾフの兄弟』を書いたとき、その前の2年間、彼は何も書かずに、ひたすら死刑判決の人の裁判を法廷で一生懸命聞いて筆記していた。10人ぐらいやっているのかな。そしてその殺人犯のなかで非常に面白い殺人犯を『カラマーゾフの兄弟』にちゃんと使っているんです。だから彼はイマジネーションの世界よりもリアリズムの世界のほうが、とても飛びぬけている、そういう作家なんだということが私には分かった。ですからこれは文学研究というよりも、文学を書いた人のあとを追ってみたような研究なんですが、私のドストエフスキー論というのは、そういう問題から発しています。私の『ドストエフスキイ』という本、中公新書から出していたんですが、これはもう絶版になって今は買えません。でもとても名著ですよ。ドストエフスキーの一生について一生懸命書いています。もし古本屋でも買う機会があったならば、面白くお読みになれて、そしてその中にドストエフスキーと死刑という問題について僕が考えたことをいろいろ書いてあります。

7、「人間はすべて死刑囚だ」
今度は文学の話をしましょう。私が一生懸命やったのは死刑と無期の研究で、そしてそれを時間論で何とかうまく料理をしたと自分では思っているんです。その時間論は、こういうことから日本ではとても大事になる。
みなさまは日本の死刑の執行の手はずをご存じですか。日本の場合、法務大臣の命令で死刑の執行をするわけです。たった一人の人間ですよ、死刑の執行を命令するのは。その上、法務大臣はしょっちゅう代わりますからね。法務大臣になったからって必ずしも死刑囚について詳しいことを知っているわけではない。こんなことを言うとお国の秘密を漏らすなって言われそうですが、でもこれは本当のこと、オープンになっていることです。
ある日法務大臣がどこかで「ああ、あいつを殺してみようかな」って、それで命令書を書くでしょ。そうするとそれが拘置所に発送されて、5日以内に死刑を執行しなくちゃならないのです。何ということでしょう。突然、法務大臣が思っただけで一人の人間が死ななくてはならないんです。そして死刑の執行はウィークデーのみで土日はありません。祭日にもありません。そして刑の執行は大体午前9時から10時。てこずった場合には11時12時ということもありますけれども、大体午前中です。そして拘置所というのは朝の7時に活動し始めるんですけれども、その時間に刑の執行のために数人の看守が死刑囚の監房の前に来ます。普段はグルグル回っている看守は一人ですから、それが数人になるので足音が響きます。大勢の足音です。この大勢の足音が聞こえると、「ああ、今日は誰かが殺されるな」と分かる。そしてその足音が自分の監房の前で止まったら、もう観念しなくちゃならない。実際、何人かの死刑囚がこういう記述をしているし、私も死刑の判決を受けた人がどんな心理状態になるかということを知ることが多かったので、知っています。そういう朝の足音から始まる。
そして死刑囚は未決囚なんですね。彼らは死刑を執行されて初めて既決囚になる。その前は未決囚の身分ですから割と自由はあって、髪を伸ばすとか、本を書くとか、そういうことは一応許可されます。趣味でやりたいことはできます。
その反面、無期囚はどうかというと、彼らに自由はありません。朝から夕方まで一日働かなくてはなりません。自分の意志ではなく、命令によって働くわけです。そして一生、自分の好きなことをすることはできません。そうすると無期囚の気持ちというのは、遠い未来まで灰色で何も変化がない。いったいそういう状態で生きているということが人間として何かの尊厳を持つことができるかというと、私は無期囚と随分接しましたが、この人たちはやっぱり人間としては半端な状況で死ぬんだなという印象を受けました。死ぬということを思っている時、無期囚は自分がいくらもがいても、その灰色の時間の中から抜け出ることができない。
それではどうしたらいいかというと、そこは神様が恐らく助けたんだと思いますけれども、心理的に無期囚のこの暗いプリゾニゼーションという症状は、本人にとってはやっぱり楽なんですよ。何も考えずボーッとして、自分の自主性っていうのはないけれども、命令にはいはいと言っていれば時には美味しいご飯も食べられるし、人と話すこともできる。でも日本人の生活がどうなったとか日本のどんなお祭りがあったとか、そういうことを考えるなんていうことはない。考えないノイローゼなんです。
そして死刑囚のノイローゼは、いろんなことを考えすぎるノイローゼ。いいですか、死刑囚になった気持ちで死刑囚の心理を考えると、今日は土曜日だ。日曜日には刑の執行はない。そうすると月曜日の朝までは一応自分は生きていられる。月曜日の朝7時に数人の看守が自分の監房の前に来たら、これで自分は一生が終わりなんだ。自分に与えられた時間というのはたった2日なんだなと。こりゃ忙しいなっていうことになるんですよ。まだあの仕事をやっていない。いま本を書いているんだけれど、それについての時間もない。
そこで、そういうことについても、自主性を持たせてあげて、そして人間的な気持ちに返ってほしいというのが私たちの始めた死刑反対運動の中で、一番重要な問題として出てきてるんです。ですから今の死刑反対運動は、死刑反対と言っているだけじゃない。死刑囚と私たちは、気持ちが通じ合って、そして彼らがやりたいこと、人間としてやりたいこと、できれば文学、俳句、短歌、あるいは絵を描く。何でもいいから自分の自由になる領域で生きる価値というのを見つけ、一緒に運動しようよ、というようなのが今の私たちのグループが考えていることで、これが始まったのが1990年です。そういうことに私が少しは貢献できているのは、死刑囚の心理というものについての考え方として、彼らの時間と命に対する感覚を大事にするということなんです。
ところで困ったことに、私はいま88歳です。もうすぐ90です。もうすぐ死ぬわけですね。なんてことを考えていると、最近だんだん死刑囚に自分が近くなっているということに気がついているわけなんです。でも、私が平気なような顔をしているのは、ちょっとなんかあるんでしょうね、きっと。長い間、死刑囚と付き合ったおかげかもしれません。死刑囚があれだけ苦しんで、みんな死んでいったんです。もう私の研究した人たちは、もれなく死んでいます。そのことを思うと、自分の死をいちいち考えているのは、馬鹿げているという気がいたしますね。
パスカルの『パンセ』という本の中にこういう言葉があるんです。「人間はすべて死刑囚だ」と。神が私たち死刑囚のから一人を選び出して、はい、今日はお前の番だと言う。そうすると本人はああ、大変だと震えおののく。そして他の死刑囚たちは、ああ良かった、自分じゃなかったって喜ぶ。これが人間の真実であると書いてある。怖い言葉ですね、これは。
そしてそのパンセのすぐ近くにまた別の言葉があるんです。これはこういうことなんですね。神があるかないかで随分人間は違うよと。神があって、自分が死んだとしても、あの世で天国でパラダイスで生きているとすれば、こんなに嬉しいことはない。でももし、そんなのは神様が作ったことで、お話だけだと思って未来の死後の世界を考えないとすれば、人間の最後は悲嘆にくれるだけで何も返ってこない。死っていうのはそれだけつまらないものなんだ。そうすると、死が近づいた時、自分が死んだ時に自由の身になって幸福になるという神の教えがあるならば、それが本当だと思ったほうが百倍も千倍も幸福ではないかと。
パスカルはいろんな例を挙げています。彼はただ者じゃなくて、彼はもちろんカトリックの信者で、本当に篤い信仰を持っていて、自分が天国に行くことを疑わなかった。パスカルにとって、死はまことに嬉しい死であったようです。過去にはパスカルを信じないで、彼を馬鹿な奴だと、宗教なんて嘘を信じやがって、と嘲笑った人たちが大勢いたのですが、その人たちは苦しみながら死んでいく。どちらが得かなと考えるとパスカルのほうが得なんですよね。いいじゃないですか、そう思って、というようなことを私は自分の死について考えています。

8、ある死刑囚との対話
だけど、たくさんの死を送って、死んだ人たちと話し合った哀しい思い出が、私にはあるんですよ。彼らを助けてやれなかったという。そこでたった一人、私の症例にならなかった死刑囚の話を今からやりたいんです。この死刑囚は正田昭という名前で知られております。昭和28年に人を殺して、死刑の判決を受けました。私は彼と同じような年齢です。私が1929年4月22日生まれなんですが、正田昭は4月19日生まれなんです。3日しか違わない。
この男と会ったのは、僕が死刑囚の研究をやりながら拘置所の監房を回って歩いていたときでした。「先生」って向こうから声をかけてきて、どうぞどうぞって。死刑囚の監房って頑丈な金庫みたいなものなんですよ。看守が開けてくれると、これは開けたままにしておくわけにいかないから先生、入ってくれって、ガッチャンって閉められる。そこから死刑囚と二人だけで1時間2時間、話をするわけですが、正田昭もそのつもりで行ったら、すごくていねいにいろんなことをしていて、ふと上のほうを見たらカトリックの本がいっぱいある。「あなたはカトリックなの?」って言ったら「はい。そうです」って言う。「いつ洗礼を受けたの?」って言ったら、「去年、カンドウ神父という人に受けました」と。「カンドウ神父さんって大変有名な人ですよね、そうか」ということで、最初から話がパスカルみたいでした。相手が。面白い比喩でもっていろんなことを言ってくれるし、自分の信仰についても言う。もっと言えば、パスカルを教えてくれたのは正田昭なんです。
ある時、「先生、パスカル面白いですよ」って教えてくれたので「ああそうだ、読んでいなかったな」と思って、慌てて訳書で読みました。そしてあっという間に全部読んでしまって、こんなにすごい哲学者がいるのかと思いました。パスカルは大変な数学者でもありますし、今パスカルといえば、気圧の表示になっていますね。ヘクトパスカルっていうでしょ。あのパスカルです。それで2年ぐらい正田昭と付き合いがあって、そこで私はフランスに留学してしまったんです。そして研究をフランス語で書いたのはフランスにいるんだからどうせならフランス人に読んでもらいたくて一生懸命に書いた。そして帰る時にフランスの雑誌に投稿して帰ってきました。それがすぐ採用されて、翌年、印刷されたものになって日本にも送られてきました。そうしたら私に無期囚の研究をやりなさいと言った吉益先生が、「君、フランスで書いちゃったね。でも東大にはフランス語の分かる教授がほとんどいないんだよ、どうする」って。脅かされたのか喜ばれたのか分からないけれども、とにかくそういうことがありました。そしてそんな話も正田昭にしたらゲラゲラ笑って喜んでいたことを覚えています。
彼がいろいろ私の手紙に応えてくれたのを全部取っておいて、正田昭との往復書簡を私は出しました。これも結構皆さん読んでくださっていますが、残念ながら今は絶版です。私は絶版の作品が多いんですよね。この『死刑囚の記録』は例外です。いまだに売れているので絶版にしないんですね。でも他のはあんまり売れなかったからかな。
それで正田昭との付き合いが始まったのですが、私はフランスに行ったので東京拘置所を辞めて大学に帰りました。フランスから戻ってきて、また交流が始まりましたが、その後、正田昭も私も40歳になった年末の頃でした。この頃、正田昭から手紙が来ないなと思ったら、ある日、正田昭と文通していたカトリックのシスターが電話をかけてきて、「正田昭さん、刑が執行されました」って。「ええっ!」ってびっくりしたんです。もう16年来の友だちですから、とても残念に思ってガッカリしながら、そのことをいくつかの新聞に書きました。そうしたらそれを読んで、姫路の女子高等学校の先生が手紙をくれました。「先生も正田昭と文通していたんですね、私も文通していたんです。私の文通は幼いけれども面白いですよ」という手紙でした。それですぐ姫路に行って、今では大変有名になったシスター中西に会いました。そして「見せてください、正田昭の手紙」って。そうしたらもう大きな箱に二つ、3年間に600通の文通をしたって、うんうん言いながら持ってきてくれたんです。
一晩読んでいるうちに気がついたのは、私宛の正田昭の手紙って何というか難しいんですよ。「私はこんなことも知ってるよ、こうも知ってるよ」という、ちょっとぶってやがるなと思うようなことがあったんだけど(笑)その女性に対する手紙は、あたかもラブレターのようで、ものすごく面白い。相手を笑わせようと必死になって笑い話をしたり、外の景色を書いたり、自分が今書いている小説を書いたりしているんですね。ああこれはとても面白いよと言って、じゃあというので借りて帰って、それから全部読むのに3年ぐらいかかりました。すごく大変な量でした。
そして3年ぐらい経ったときに正田昭と普通の死刑囚とは違うんじゃないかと思い至った。どこが違うのかというと、信仰のあるなしが違う。遠藤周作さんにその話をしたら、「そんなばかなことはない」と言われて、「ああそうですか。どうしてばかなんですか」って言ったら、「君ね、神を信じたところで、死の恐怖なんか、俺なんて怖くて怖くてしょうがないよ」って。「パスカルが言ってますけど、だめ?」「だめ。パスカルなんかいい加減」なんて言われました。だから、おまじないが効かない人もいるんだなって。私はもう自分におまじないかけて、「パスカル先生、助けて」って。この頃、死が怖くなると一生懸命『パンセ』を読んでいるんですが。
結局、正田昭が死んでから数年後に『宣告』という小説を書きました。そこには自分の調べた殺人犯が多少潤色されていますけれども出てきます。あそこに出てくるのは本当に私が会って、話してきた殺人犯であることは誓って言えます。ですから、ぜひお読みなさいませ。

質問者A 冤罪があるので、死刑には非常に疑問を持っているんですが、ただ本当に殺伐とした殺し方をした犯人に対しては死刑はあったほうがいいんじゃないかと思っています。先生の考えをお聞きしたいと思います。

加賀 人間が一番悲惨になるのは死を前にした時なんです。これは言えますね。死を前にした時、人間は自分を何とか死の恐怖から避けようとして色々と考えたり、書き物をしたりする。じたばたする。このことはパスカルが書いているように人間である以上、避けることができない。ところが日本の司法制度だと、裁判の結果死刑判決を下しながら、それをいつまでも引き延ばしてもいいわけですね。そういう形での死刑は、残虐だと私は思います。残虐な死刑というのは、死刑囚を実際に知るにしたがって、なんて嫌な刑罰だろうということが、身に沁みて分かるわけです。分かると同時に、その人に殺された人の家族をいつも思います。その家族の方が、お前は早く死ね、いい気味だと言って幸福になれると思いますか。そうじゃないんですよ。実際に私は家族を殺された人たちに会って調べたこともあるのですが、そういう人たちは満足はしないんですね。でも死刑というものがどんな場所でどんなふうに残酷に行われるかという私の話を聞いているうちに、彼らもやっぱり、「残酷ですね、そうじゃなくてご本人が気がついて申し訳ないと言って、そして無期でもいいから、生きているほうへ移行するようなそういう国になってほしいですね」っていうふうに、必ずなられるんですよ。だからあなたが殺したほうがいいというのは、それは一つの立派な決断ですけれども、そうではないんじゃないか。
そして世界の文明国、特にヨーロッパの全ての国は死刑を廃止しました。ロシアもないです。イスラエルもない。先進国でアメリカと日本は、あと中国もそうですが、死刑が多い。でもアメリカの3分の2の州では、死刑を廃止しています。全く廃止していないんだけれども、死刑の執行をしないのは韓国ですね。私は韓国は本当に見上げた国だと思います。というふうに、考えていきますと、日本は世界の中で何となく先進国だと言われて誇りに思っているんですかねえ。少なくとも先進国で死刑をやっているというのはそんなに誇りになるんですか。どうですか。

質問者A 私は思いませんけど、ただ本当に残虐な事件がありますよね。それでも死刑というのは必要ないと思われますか。

加賀 僕は、死刑の執行と関わりがあるとは言えません。秘密でございます、これは。だけど死刑囚の刑の執行の時、取り乱している死刑囚の様子を見ると、私はやっぱり憲法に書かれているように人権という立場からいうと、死刑囚であろうとも日本人であって、日本人は人間として生きる希望がある、自由もあるということで憲法が成り立つとするのならば、死刑執行とは真逆のことであると。もう一つ言うのならば、残虐な行為は一切禁ずるとちゃんと書いてあるじゃないですか。
死刑がどうやって執行されるかというと、まず執行部屋があります。木で作った小さな小屋だとお思いになるといいと思います。最近はかなり立派な建物になっておりますけれども、そこに鉄の四角い50センチ四方の台があって、その上に目隠しをされ手と足を縛られた人が来て、乗った途端に床がパーンと落ちます。鉄のものすごい音がします。ドーンと。そして首に縄が掛かって吊るされます。それから15分生きています。苦しいですね。もがいています。そういう死に方が、いいですか? 人間としては誰がやっても嫌なものじゃないですか。だから私はあれを見たくない。今は、拘置所によって違いますけれども、ボタンが3つあって、どのボタンに電流が通っているかは看守には教えない。3人が一緒にぐっと押すと、そのうちのどれかが作動して、さっき言ったように死刑囚の身体が落っこってきますね。そしてぐっと首を絞める。息はできませんけれども、その後15分ぐらいは生きています。もがいています。そしてやっと死にます。死ぬとすぐ、台から外してお棺に入れます。それだけです。いったいそれが何の楽しみになりますか、被害者としての。
僕は永山則夫とは少し手紙のやり取りをしていたのでよく知っていますが、彼はピストルで4人殺していますね。そして死刑判決を受けました。彼は獄中で小説を書き始めた。なかなかいい小説で、私のところに手紙が来て、文藝家協会に入りたいと言うので、私は引き受けて推薦人になったのです。だって小説は誰が書いたっていいわけで、死刑囚が小説を書いてはいけないという法律は日本にないですね。本当にこれから生きていく時間を小説三昧で過ごしたいという彼の希望は叶えてあげたいし賛成だったのです。それで秋山駿さんと私の二人が推薦人になって、永山則夫を文藝家協会員にしたいと、だから許可しましょうという訴えを出しましたら大騒ぎになって、作家のグループの猛反対にあいました。ほとんど二つに分かれて3分の2ぐらいが「あんな犯罪者が我々と同じ小説家として登録するなんてだめだ」っていう意見が多くて。私はいいんじゃないかって言ったんだけど、あいつは分かんない奴だって大騒ぎになって。今だったら、きっと反対は通らなかったと思うけど、でもあの時の反対というのもすごかったです。それでまた逆にびっくりした面があります。つまり日本人には、悪いことをした人間は腹を切れという意識がありますね。平清盛が始めたらしいですけどね、死刑っていうのは。信長ぐらいまではずっと行われていたわけでしょ。その前の平安時代には死刑はありませんでした。400年間、日本は世界に冠たる文明国だったのです。源氏物語の時代ですね。それがどうしたものか、今は世界で一番遅れた文明国になりました。残念です。私はそう思っています。

質問者B 私は昨日、袴田巌さんと会ってきました。袴田巌さんは現在、確定死刑囚ですが自由に動いています。質問の1点目は、袴田さんに事件のことを聞くと、あんなものは消えてしまったんだ、なくなったんだと言って、一切答えようとしないのです。事件に向き合い、自分が酷い目にあったということを話そうとせず、非常に不機嫌になります。こういう心理状態を何と言うのか。
2点目は、昨日もそうだったんですが、小雨の中を4時間、6時間ぐらいランニングウェアを買ってジョギングしています。現在81歳。体は元気です。今日もやることがあるんだ、やらなきゃいけない、俺は忙しいんだって言って出かけていくんですよ。それは先ほどの話にあった、死刑囚として非常に短い時間を生きているというような、追いつめられた心理状態が今でも働いているのでしょうか。
3点目は、袴田さんはよく、頭の上に両手をかざして丸を作ってVサインをします。何をしているんですかと言ったら、皆を守っているんだとか、誰々と話をしているんだとか通信をしているんだとか、そういう話をします。幻聴なのか幻覚なのか、釈放された今でも続いています。この袴田さんの行動について、精神医学的な観点から我々が接する際の注意点がありましたら教えていただけたらと思います。できれば加賀先生に袴田さんに会っていただけないかという気持ちもあって今日は参りました。以上です。

加賀 袴田さんのことは私の『死刑囚の記録』の中に入っています。ですから、ご本人も知っています。袴田さんは釈放はされたんですけれども死刑判決はそのままです。ですからいつでも、殺そうと思えば殺される。そういう状況でいるということは、時間論の枠内から見たら本当に気の毒で、まだ死刑囚なんです。ですから近く自分が殺されるということをご存じなんです。そういう釈放の仕方は、かえって残虐じゃないかと思います。だからそうじゃなくって、彼には死刑が該当しないのだというぐらいの覚悟で、彼をかばってやるべきだと思います。

質問者B 刑の執行は停止するということは決定されているんです。

加賀 だから、それではだめなんですね。死刑という刑罰があるということ、それ自体が彼の恐怖なんですよ。そしてその恐怖をとってやるためには死刑の判決をマイナスにしてあげるのが一番早い。袴田さんは、時々自分が天国に行ってみたり、意気盛んになってみたりするというのは、最初に私が言ったガンゼル症候群がちょっと当てはまるんです。死刑囚特有の時間感覚です。永遠の時間と刑執行の時間が一緒にあるという不思議な時間ですね。そうするとそれをうまく統合できないので、そこで拘禁ノイローゼがいま外に出てもとれないでいらっしゃる。それをきちんと診断するためには時間が要ります。
私も精神鑑定をやってくださいよって頼まれたんですけども、だけど私は1日や2日彼のところに行ったって、全然分からない。3カ月か半年ぐらい一緒にいて観察してみないとうまくいかないので、いま私がやったって、それは嘘になるから、だめ。やらないんです。
なんでガンゼル症候群が袴田さんに出ているのかというと、死刑囚だからです。死刑囚であるということ、死刑囚の身分がとれていないからです。それは袴田さんにとって一番の弱い部分。その弱い部分がほつれているから、助けてあげるには死刑の執行の停止じゃなくて、晴れて死刑囚から見逃してあげるということ。それでいっぺんに治ると思いますよ。

質問者B 無罪判決が下されるということでしょうか。

加賀 それが一番欲しい。刑が執行されないことは、彼らから少しも恐怖を取りません。恐怖のどん底ですよ、彼らは。

質問者B じゃあランニングにこだわることも、一つの時間がないというような追いつめられた感覚がある。

加賀 そうじゃなくて、自分の死が恥辱の死だということをご存じの間は、彼みたいな宗教的な人は、そうじゃないと言いたいんですよね。それで、もがいていらっしゃると思います。

質問者C 今日のお話をうかがって、死刑も残虐だけど、無期囚もかなり悲惨だということがすごく胸にひっかかりました。死刑廃止ということでは思いは同じなんですが、では廃止したあとに無期囚が増えるのか、それ以外にどんな方法が予想できるのか。いま日本でこれから模索していけるのかと思いました。その辺のお考えをお聞きしたいです。

加賀 人を殺した者は死刑または無期に処すっていう、あれがいけないんですよ。並べて書いてありますね、死刑と無期を。あんなに簡単に並べちゃいけない。そうじゃなくて無期は無期で刑期の内容をきちんとしてあげることが必要。死刑は、廃止すれば無くなるということでいいんだけれども、じゃあ無期囚はどうしたらいいのか、一生、何の恩典もないし、希望もないのか。それではかえって残酷だと思います。だから、無期囚も人によっていろいろある。頭のいい人もいるし、そうじゃない人もいるし、俳句を作れる人もいるし、そうじゃない人もいる。一人一人、いろんな人間としての自分を大事にしてくれる部分を見つけて、一生看守の言う通りにペコペコするだけじゃなくて、プリゾナイズされている状況は除去してあげたいと思う、私は。そしてたとえ無期囚でも、才能がある人は日本の国のために俳句を作るとか、素晴らしい短歌や詩や絵を書くことができるかもしれない。それは人を楽しませるし、そのことによって彼の人生に曙光があるじゃないですか。だからピエール・ジャネが言っている通りで、希望がない人間はだめになってしまうんです。人間に生まれたからには、何か人のためになるようなことをやっている限りは、その人は幸福だと思います。そうすると、あの陰惨な死刑がなくなり、陰惨な無期刑がなくなるとなれば、日本はずいぶん明るくなるんじゃないですか。そして、国家の秘密は一切犯してはならないとおっしゃるけれども、もっと明るく、私たちは秘密を共有したって構わないんだから。秘密を国家と対立するものとして考えるのは、私は反対なんです。
もっと言いますと、私は個人主義なんです。個人が一番いい。日本で一番個人主義をきちんと打ち出した思想家は、夏目漱石です。夏目漱石の最後の問題として『私の個人主義』というのを彼は書いている。これは学習院で講演した記録ですが、この中で漱石は、自分は個人主義が一番大事だと思っているということをきちんと書いています。だからあの辺から面白いんですよね。もっと日本は明るく、そして個人主義を認めて、個人の尊厳が侵されることはないという国になってほしいと思いますね。それがいま、個人主義はだめだっていう人が多いわけですよ。個人主義ってこの前、辞書を引いたら、「自分勝手に何かすること」って書いてある。そうじゃないよ。そしたらもういっぺん、漱石に聞きなさいって思いますよね。漱石はそんなこと全然言っていません。そんなことじゃなくて、個人の尊厳を守るっていうことが大事なのであって、その個人の尊厳を守るということは生きる喜びなんですよ。生きる喜びと日本人であるっていうことが平衡状態になるためには個人主義しかないと思います。自分勝手に生きることというのは個人主義の解釈としては間違っていると思います。

質問者D 死刑と無期がもっと改善された場合は、世の中は変わりますか。

加賀 もっと変わると思います。フランスがいい例です。フランスは今から35年前、バダンテールという法務大臣がいて、当時フランス人の60%ぐらいが死刑は温存したほうがいいという時に、無理やりフランスの国会で死刑制度の廃止を通したんです。そうしたら急に死刑反対が増えて、あの国からは死刑がなくなったんですよ。その後、彼は日本に来て、僕らの運動で話をしてくれました。だからよく、日本人はいつも50〜60%が死刑を保持したほうがいいという意見で、死刑をなくしたら殺人の巷になるって言ってるけど、どこからなぜ殺人の巷になるということが分かるんですか。私はいままで145人ぐらい殺人犯を詳しく見ています。そして必ず彼らに聞く質問があるんです。あなたは犯罪を犯している時、自分が死刑になると思わなかったのと言ったら、誰一人そんなことを思ったことはないって。つまり死刑は抑止力に全然なっていないわけですよ、私の症例では。これが私の科学的な意見なんです。一方、科学的な意見を持たない人が、もし死刑が廃止されたら皆殺されるようなことを言うんだけど、その根拠はなんですか。ただ思うだけ? それだったら、僕の実証的な意見を信じてほしいということです。