『私はわらじがぬがれない』2017浜松集会

 

12月7日浜松協働センターにおいて、福岡事件再審キャンペーン『事件発生70年、全国70か所での講演をを目指して!』浜松集会が開かれました。1月に関東学院大学で始まったこのキャンペーンは全国各地を回り、11月再び関東学院大で70回目を迎え、この浜松の集会は72回目に当たるということでした。平日の午後でしたが10数名の参加を得て、ご家族で50年以上も再審運動を進められてこられた生命山シュバイツアー寺の古川龍樹さんの講演と西さん泰龍氏の遺品展が行われました。

 

《福岡事件とは》

終戦後間もない1947年5月福岡市博多区で2人が射殺される事件が起こりました。殺された中国人と日本人の2人の男性は軍服の闇取引のボスで、強盗殺人事件として捜査した福岡県警は西武雄元死刑囚を首謀者、石井健治朗元死刑囚を実行犯として計7人を強盗殺人容疑で逮捕しました。西元死刑囚は「その場にはいなかった。事件とは無関係」、石井元死刑囚は「正当防衛で偶発的に2人を殺害した。」と主張したが、2人とも56年に最高裁で死刑が確定、75年には再審運動の盛り上がりの中で実行犯の石井元死刑囚は恩赦で無期懲役に減刑(89年仮釈放)されましたが、同じ日の朝、無実を叫ぶ西死刑囚はなぜか恩赦は叶わず、何の前触れもなく急ぐように刑が執行されました。西死刑囚が主導したという見立てに直接証拠はなく、他の逮捕者の供述だけで認定され裁判で被告たちは「無理やり調書を取られた」と供述を否定しましたが、結局4人は懲役刑、1人は無罪になりました。

冤罪の構図は今も同じで、自白中心の捜査に終始し、客観的な証拠に基づいて事実認定がなされていません。袴田事件より19年前の出来事ですが、戦後初の死刑囚、すべての冤罪事件の始まりとして決して歴史の闇に埋もれさせてはならないし、その今日的な意味を考え続けていかなければならないと思います。

 

《再審運動の広がり》

戦後の混乱期の状況が事件の解明に複雑に影響し、単なる偶発的事件が計画的な強盗殺人事件にすり替えられ、その首謀者として西武雄さんが捕らえらえたのが福岡事件の真相ですが、その再審運動に生涯をささげたのが古川龍樹(りゅうじ)さんのお父上、泰龍氏でした。

福岡刑務所の教誨師をしていた泰龍氏は西武雄さんと出会い、交流を重ねるうちに冤罪を確信し、財産をなげうって全国を東奔西走し再審運動への支援を広げていきました。偶然に家族が連続殺人事件の犯人を見破り、時の人となったことなどもあり、福岡事件は多くの人に知られていくようになり、神近市子、土井たか子といった国会議員の支援も行われるようになって「二人の死刑囚」というドキュメンタリー番組も放映され、大きな反響を呼びました。この辺の展開は袴田事件と重なるものがありますが、福岡事件は事件から25年を経て、大きく動き出します。75年5月には再審事件にも「疑わしきは被告人の利益に」という白鳥決定が出て、帝銀、免田、福岡の戦後の占領統治下での事件が明治100年の恩赦の対象になり、福岡事件にも一筋の明かりが見え始めます。

ところが1975年6月17日、再審運動に挑戦するかのように、事件の実行は認めていた石井被告は無期懲役に減刑されましたが、西武雄さんは無実を叫びながら刑を執行され、返らぬ人となりました。石井さんは89年42年ぶりに仮釈放され、08年に91歳で亡くなりました。「自分が死刑になるのはわかる。でも西君は何も知らない。事件とは無関係だ」と石井さんは言っています。戦後死刑囚第1号だった西死刑囚は投獄当時32歳が60歳を過ぎていました。その間一貫して無実を叫び続け、写経や仏画に打ち込み、若い囚人の親代わりもして看守の信頼も厚い模範囚だったといいます。そんな西死刑囚に対して福岡拘置所は遺言も書かせず、支援者にも知らせず、恩赦却下と同時に処刑しました。これほどむごい仕打ちをする根拠はどこにあるでしょうか?再審の壁や司法の闇とかいう前に私は検事と裁判官に言いたい。謙虚に、明鏡止水の心境で事実と向き合ったのか、人として恥じない行動だったのかと。

 

《福岡事件再審運動の教訓》

わらじをはいて十年 無実の死刑囚を救うため わたしはひとり ひとり 街を 村を訴え、叫び、歩き続けた。…たったひとりのいのちすら 守れない世の中を 私は信じることができない。無実で死刑にならない世の中を 私は信じたい 証明したい でなければ 私は救われない 生きられない 私はわらじがぬがれない(古川泰龍)

この言葉を胸に古川泰龍氏は福岡事件の再審運動に命がけで奔走しました。その甲斐あって一時は死刑の執行を寸前でやめさせることもありましたが、結局は死刑が執行されてしまいます。その後、西さんの遺族が請求人になって死刑後再審請求を行いましたが、そのご遺族もなくなって再審は『終了』してしまいました。

いま袴田事件は第2次再審請求が通り、静岡地裁での『再審開始』が決定しましたが、検察の無意味な抵抗=即時抗告という手続きのため三年半もの時間が浪費されてしまっています。福岡事件再審運動の教訓の第一は、何が何でも袴田巌さんが元気なうちに再審を開始し、冤罪を晴らさなければならないことです。そのために東京高裁の決定に向けできることは何でもやって検察の抗告を棄却させねばなりません。検察は高裁での審理をまじめにやろうとやろうとはせず、弁護側の鑑定の手法のケチ付に終始し、一日で出来る実験を一年半も掛けて行い、徒に時間の引き延ばしを図りました。弁護団が要求した『すねの傷の証拠』の記録や写真はついに提出できず、逮捕時に専務に蹴られたというすねの傷はなかったことが明らかになっても「すねの傷はあったが時間がなくて記録できなかった。事件と関係ないと思った」などと子供じみた言い訳を押し通そうとしています。

この間、私たち『市民の会』は「すねの傷の真実」のDVDを作成し検察のウソを明らかにしたり、大島隆明裁判長宛で検察の抗告の棄却と一刻も早い再審の開始をお願いするハガキ運動を行ってきました。年度内の決着に向けさらに運動を強めていかなければなりません。

教訓の第二は東京高裁で抗告が棄却された後の準備です。熊本の松橋事件の例でも福岡高裁の決定を不服として検察は最高裁に抗告し、自らの誤りを認めようとせず、引き返す勇気も持てません。袴田事件でも検察の対応は「あったことをなかったことにしようとする」かのごとく時間稼ぎに躍起になっています。絶対に最高裁まで引き延ばしを許してはなりません。

袴田巌さんは釈放されて1000日を超えましたが、17000日死刑の恐怖と戦ってきた心の傷は癒えてはいません。午前午後雨の日も風の日も1日7時間以上の見回りを自らに課し、毎日8か所の神社やお寺、慰霊碑などをお参りし、自らの世界に閉じこもる様子は「心は獄中のまま」というお姉さんの秀子さんの指摘が当たっていると感じます。

30歳で逮捕され、人生の一番輝かしい時間を奪われて、家族も生活もメチャクチャにされて、そのうえ釈放されても心が壊れたままのひどい目にあっても、まだ検察は巌さんを苦しめようとするのか。村山判決の「耐え難いほど正義に反する」状態をこれ以上続けさせてはなりません。2月24日には東京で全国集会が予定されていますが、浜松でも再審の一刻も早い開始を訴えて大きなうねりを作り上げなければなりません。

教訓の第三は再審法の制定に今こそつなげていかなければならないことです。福岡事件は西さんの死後、ご遺族が請求人になって再審の運動は古川さんの家族が担って来ましたが、再審請求は遺族が亡くなると『終了』するのだそうです。再審が実現しなくても続けなければならない運動の難しさを古川さんが教えてくれました。あったことがなかったことにされ誤った裁判が永久に正されないのは私たちにとっても不幸なことです。過去の冤罪無罪事件の徹底的検証はもちろん、無罪を訴えて争った裁判記録の検証は司法の責任として当然やらねばならないことだと思います。関係者が亡くなったから終了というのでは、冤罪被害者は永久に浮かばれません。今後科学の進歩によって冤罪が晴れる日が来るかもしれません。全ての冤罪事件の被告、支援者が手をつなぎ再審法の制定を世論に発信することは袴田さんの支援者にとっても必要だろうと思います。